蜜の味

※兄の婚約者に横恋慕する佐久早




「聖臣くん、はじめまして」

佐久早聖臣の恋は、芽生えた瞬間に終わりを迎えた。突如彼を襲った思考の嵐を一旦何とか頭の隅に押しやって「…はじめまして」とかろうじて聞こえる声量で返事をする。挨拶もまともに出来ないのか、と思われたかもしれないと一抹の懸念が彼の頭に浮かぶが、相手は気にした様子もなく「これからよろしくお願いします」と優しく微笑んだのだった。

その瞬間の感情が、おおよそ初めて出会った相手に抱くものではないと、彼は重々理解していた。

そして自分がそんな不可解な感情を抱いてしまったことが、彼を酷く混乱させていた。
所謂、一目ぼれという現象。
自分には一生関係のないものと思っていたこと。しかも、今日初めて会った兄の婚約者に。

兄が結婚すると聞いたとき、彼はさして特別な感情は抱かなかった。年の離れた兄姉は既に社会に出ており、家庭を持っても不思議ではない。紹介したいから、と指定された日に実家で引き合わされた相手を見た瞬間、佐久早は思わず目を見開いた。普段から表情が豊かなタイプではないためか、それはさほど大きな変化ではなく、一緒にいることの多い朗らかな従兄弟ならば気づいたかもしれない程度の反応だった。容姿に優れているだとか、スタイルに恵まれているだとか、そういうことは無い、いたって普通の女性。

佐久早は彼女を、桜のような女だと思った。大勢の人間に好かれ受け入れられる存在。そして、時に人を狂わせる。ただそこに在るだけなのに。

兄弟は好みが似るとでも言うのだろうか。よく知りもしない相手に感じたことの無い気持ちを抱いている自分が、不愉快で受け入れ難かった。だけど、緊張で赤みの差した頬が、柔らかそうな髪が、笑った時に遠慮がちに除く歯が、腹の奥を熱くする。兄を愛し気に見る視線が、自分へ向けられる緊張の混じった視線が、煩わしい。どうして、兄に向ける視線を、自分にも向けないのか、と思ってしまう。
その気持ちの危険性を、佐久早はよく理解していた。

そして、自分にできることは彼女と距離を置くことだと彼は結論付けたのだった。
彼と、彼の家族と、そして彼女のためにも。

なのに、彼女は佐久早を放っておいてはくれなかった。年の離れた義弟という存在が物珍しいのか、彼女は何かにつけて佐久早に構った。やれ、クリスマスだバレンタインだと、兄と連れ立って贈り物を届けに来る。
未成年だから庇護すべき存在だとでも思っているのか、と一生懸命といった様子で贈り物の説明をする彼女のつむじを見下ろした。目線よりずっと低いところにつむじがある。自分よりも圧倒的に小さくてもろい存在なのに、なぜか怖くて触れることができない。柔らかで善良な生命はいつだって眩しく、そして狂おしく佐久早を惹きつけた。

兄は自分の家族に溶け込もうとする婚約者と、可愛い年の離れた弟との交流を微笑ましく思っているようだった。自分に構わないでくれ、と突っぱねることはできなかった。それは兄の手前、冷たいと取られる態度を取れなかったということもあるが、なにより彼女に会える機会を失うことを惜しいと思う己の下心のせいでもあった。

連れない態度の佐久早に対して、彼女は“聖臣くんから好かれていない”と思っているようで、ある時「お兄さんに不釣り合いって思ってるかもしれないけど、私、聖臣くんと仲良くなりたいの」と宣った。
見当違いも甚だしい彼女に「この女無理やり抱いてやろうか」と怒りすら感じる。せり上がってくる胃酸で食道が痛むときのような感覚に襲われた。

「…そんなことは。俺も、名前さんと仲良くなりたいです」

じくじくとした痛みに耐えて、佐久早はなんとかそう答えた。彼女は分かりやすく嬉しそうに笑う。

「ありがとう聖臣くん。嬉しい」

そう言って笑った顔が、網膜にこびりついて離れない。それでも、抜き取られた部分のあるジェンガのように、絶妙なバランスで佐久早と家族の平穏は保たれていた。
しかしながら、ある種の線引きをすることで保てていた平穏は、いとも簡単に崩れるものだ。

その日、佐久早は最悪の目覚めを迎えた。寝巻のスウェットのウエスト部分を引っ張って中を確認する。
予想通り悲惨な有り様だった。前触れなく夢の中に現れた彼女は、優しく兄の名前を呼ぶ唇で「聖臣くん」と佐久早を呼んだ。そしてあろうことか佐久早の手を握り、兄よりも佐久早が好きだと告げた。夢だと、そう自覚できる夢。夢ならば許されるのではないかと魔が差した。
焦がれる人の姿をした悪魔のささやきに誘われるまま、佐久早は紛い物の彼女に手を伸ばしたのだ。その結果がこれだ。深い深いため息を吐いて、佐久早はベッドを抜け出す。幸いにも家は無人で、性に目覚めたばかりの子供のような失態を知られることは無かった。
汚れものの始末を済ませた彼は、リビングでインスタントコーヒーを飲んで一息ついていた。
急遽練習が無くなった土曜日。軽く走りに行くか、と考えていると、玄関から物音がした。家族が帰宅したのかと思っていると、遠慮がちに開かれたリビングの扉から彼女が現れる。驚きに固まっていると、向こうも自分の姿を見るなりまるでメデューサに睨まれたかのように動きを止めた。外が寒かったのか、頬が赤い。

「あ、あの、勝手に入ってごめんなさい。荷物、置いてきて欲しいって言われて…その、誰もいないと思って…」

視線をフローリングに落としながら怒られる前の子供のような雰囲気を醸し出す彼女は、普段よりも小さく頼りなく見える。確かに、先日兄に今週末の予定を尋ねられ「土日は練習」と答えた覚えがあった。

「兄が頼んだのなら勝手にってわけでもないだろ」

敬語をやめたのは、目の前の彼女に「仲良くなりたいから楽に話して」と言われたせいだった。

「… 名前さんは家族になるんだし、別にいいだろ」

彼女を安心させなければ、その気持ちが佐久早にそう言わせる。彼女のことを“家族”だなんて思ったことも無いのに。

「聖臣くん…」

彼女はどこか胸を打たれたように瞳を潤ませ、ダイニングテーブルに持参した紙袋を置くため佐久早に背を向ける。あんな夢を見た後のせいだろうか、彼女のうなじにかかるおくれ毛すら生々しく感じた。ごくり、喉が鳴った。何故彼女にばかりこんな気持ちを抱くのだろう。女性ならこの世に他に何人もいるのに。今にもマグマのように吹き出しそうな気持ちを佐久早はなんとかグッと抑えた。

「ありがとう。そんな風に言ってくれて嬉しい」

こちらを向いた喜びに緩む頬は素直で嘘がない。そして、彼女は紙袋から何かを取り出して佐久早に見せる。とっておきのものを披露するかのような高揚を滲ませながら彼女は口を開いた。

「実はね、聖臣くんへの成人のお祝いを持ってきたの」

成人式の日に渡せなかったから、と彼女は慈愛溢れる表情で微笑む。

「成人おめでとう、聖臣くん」

そう言って渡された箱を包む包装紙には時計メーカーのロゴが印字されている。

「私が選んだの。素敵な時間を刻んでね」

慈しむように目を細める彼女は、着けてみてと促す。箱を開けると、落ち着いたデザインの腕時計が顔を出した。

「聖臣くんは、金属よりも革のベルトが似合うなって思ったの」

ミッドナイトブルーに染められた革製のベルト部分は肌馴染みが良さそうだ。

「貸してみて」

彼女が細い指先で腕時計を持ち上げる。控えめな色に染まった爪先は照明の光を受けて艶を放っていた。その指先が夢の中で自分に触れたことを思い出してしまい、佐久早はぎくりとしてしまう。腕時計を着けるために、彼女の手が佐久早の腕に触れる。自分より熱い彼女の体温が、そこから全身に広がるような錯覚に襲われた。近づいたせいで、どこか甘い香りを嗅覚が捉えてしまう。ダメだ、と本能的に自覚した。

「できた!やっぱり良く似合うね聖臣くん」

嬉しそうに褒める彼女が佐久早から手を放してすぐ、彼は一歩後ろに下がる。

「ありがとう。大事にする」
「ふふ、どういたしまして。たくさん使ってね」
「あぁ。兄にも、連絡しておく」

そう言って出来るだけ自然な動きを意識してソファーに座り、そこに置いていたスマホを手に取った。兄に連絡をするフリをして。彼女から距離を取るのが不自然でないように。しかし、何を思ったのか彼女も佐久早の隣に腰掛けた。そして、嬉しそうに佐久早の方に身を乗り出して「あの人も直接渡したかったみたいなんだけど、どうしてもしばらく時間が取れないみたいなの」と言う。兄へのフォローのようだったが、それよりも人の気も知らないでほいほい近寄るな、という感情で頭がいっぱいだった。彼女の人懐っこさが今は恨めしい。

「きっと、聖臣くんから連絡もらえたら喜ぶよ」
「そう」
「あ、ねぇ、ずっと気になっててんだけど聖臣くんって彼女いないの?」
「は?」

急に何を、と無意識に表情が険しくなる。

「だって聖臣くんバレーボールすごく上手だし、スタイルも良いしハンサムだし、モテるんじゃない?」

聖臣くんのこと知りたいの。だって仲良くなりたいから。と彼女は畳み掛ける。何を馬鹿なことを、と佐久早はその能天気さに奥歯を噛んだ。

「いない。興味もない」
「えー!ダブルデートとかしてみたいのになぁ」

そう言う彼女に、あんたが兄と仲睦まじくしている様子をそばで見ろってか、と怒りが湧く。その無邪気さを真っ黒な自分の感情で塗りつぶしてやりたくなった。湧き上がる渇望を抑え込んでいると、そっと佐久早の手に小さな白い手が重なった。

「好きな子ができたら教えてね」

私、聖臣くんのお義姉さんなんだから。と警戒心ゼロで微笑んだ顔を見て、何かがプツンと切れた。
平穏なんてきっと最初からなかったのだと、佐久早は自分を抑え込んでいた何かをかなぐり捨てる。それはきっと、倫理観や道徳観よりも兄や家族への親愛だったように思う。彼女が軽率に触れるのは、佐久早を自分に害をなす存在だと思っていないからだ。だから、歳下だから、義弟だからと無警戒に近寄れるのだ。こちらが腹の底で何を考えているかも知らずに。 彼女が、佐久早を婚約者の弟以上に見ていないことの何よりの証明だった。

“無知は罪”だと、哲学者だか誰かが言っていた。佐久早の気持ちを知りもしない彼女の罪。それは果たしてどんなものなんだろう。

ハッと気がついた時には、衝動に任せて彼女をソファーに押し倒していた。焦茶の髪がいくつもの筋のように広がる。

「きよ、おみ…くん?」

信じられないようなものを見る目で、彼女は佐久早を見ていた。佐久早のものより明るい色をした瞳の奥に、恐怖が滲む。掴んだ手首は夢の中よりも柔らかく細い。簡単にどうにかできてしまいそうだった。

「…あんた俺と仲良くなりたいんだよな」

そう訊ねると、彼女はわずかに首を縦に振る。今にも泣き出してしまいそうだった。出会うのが兄より早ければ、なんて詮無いことを思う。

「そ、うだよ」
「じゃあ仲良くしてやるよ」

そう言って塞いだ唇は、夢なんかよりずっと温かく、少しだけ血の味がした。  


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