悪魔はいつも優しい顔をしている


社会的な信頼はいざという時にモノを言う。

“彼”は周りの同級生だけに留まらず先輩や後輩、果ては先生方からの信頼も厚い。だから、この友達の反応も予想通りだった。

彼女はきょとんと目を丸くして、知らない国の言語を聞いたかのようにぽかんと口を開けている。今まさに口に運ばれようとしていたお弁当のから揚げが、おはしに挟まれたまま途中で止まっていた。

「ごめん、なんて?」

聞き間違いだと信じて疑わない様子の彼女に、もう一度同じ話を告げる。勇気の伴う告白だった。

「いや…、それは無いでしょ。何かの勘違いだって」

ないない、と首を左右に振って友達は私の話を否定する。この話はもう終わり、と言わんばかりにから揚げが口に放り込まれる。友達にすら信じてもらえないなんて悲しい。潤む視界の中、しわになることも気にせずスカートをギュッと握り締める。

「…ほんとだもん」
「ん?」
「本当にっ、いじわるされてるんだもん!」

昼休みの屋上。私の叫びは広い青空に吸い込まれるよう消えた。

「…本当に?」
「ほんとだよ」
「あの赤葦くんが?」
「そう!」

未だ信じられないといった面持ちではあるけれど、話を聞く気にはなってくれたようだ。

赤葦くんと私は特に何の接点もなくて、クラスメイト以外に形容のしようがない関係性だった。それがどうしてこんなことになっているのか本当にわからない。私はなにか彼の気に障るようなことをしたのだろうか。最初は可愛いいたずらのような、ちょっかいとも言えるような行為から始まった。

トントン、と後ろから肩を叩かれて振り返る。するとほっぺにぷすっと長い指が刺さる。ん?と疑問に思って指の持ち主を見ると、赤葦くんがいつもと変わらない静かな表情で私を見おろしていた。
状況がわからなくてとりあえずへらっと笑ってしまう。誰かと間違えたのかもしれない。すると、赤葦くんも少し微笑んでくれた。だけど、間違えたとは言わない。ということは、私がターゲットで間違いないということだろうか。

「び、びっくりしたぁ」

もう一度へらっと笑う。困った時に笑ってごまかそうとする癖がフル稼働だ。

「そう?ごめんね」

そういって赤葦くんは指を離す。そして「苗字さん笑うとそんな感じなんだね」とどこか嬉しそうに言って「じゃあ、また」と立ち去った。

また?またってことは次があるの?と混乱する。さっきまでの一連の流れもよく分からない。困ったことに、その日以降赤葦くんによくわからないちょっかいをかけられることが増えた。急にじゃんけんを挑まれて私が負けたら「もらうね」とシーブリーズのフタを奪われたり、(代わりに赤葦くんのシーブリーズのフタを付けられた。色がミスマッチで可愛くなくなった)シャーペンを奪われたりした。シャーペンに関しては代わりに新品のシャーペンを渡された。絶対使うもんか!と思ったけどすこぶる書きやすかったのでありがたく使用している。シンプルな色味とデザインではあるがチャーム付きの私のシャーペンを使う姿はなんだかシュールだ。何がしたいのかよくわかんないし。仲良くない男の子にカツアゲされるのが怖くって返してと言えなかった。100歩譲って、そこまでは可愛いいたずらということにしておく。だけど最近、毛色が変わってきた。

「と、通して…」
「通っていいよ」
「だって、」

当番だった音楽準備室の掃除を終えて部屋を出ようとした時、目の前に誰かが立ちはだかった。音楽室の方を掃除していた赤葦くんだ。他の子が見当たらないあたり一人でこちらへ来たらしい。通して、とお願いしても通っていいよの一点張り。どうしてどいてくれないんだろう。困り切った私は、いっそ籠城してしまおうと準備室の中に戻り、古いピアノの椅子に座った。

「苗字さん?」

プイッとそっぽを向く。赤葦くんなんて知らない。

「怒った?」

努めて穏やかな声色の赤葦くんは特にダメージを受けた様子もなく中に入ってくる。

「赤葦くんのばか、いじわる、えっち!」

小学生みたいな語彙で赤葦くんを罵倒する。高2にもなって咄嗟に出てくる悪口がこれってどうなんだろう。ゆっくりと私のそばへやってきた赤葦くんくんは私の顔の高さに合わせるよう屈んで「苗字さんの言うとおり」と言った。

「え?」
「俺は、ばかでいじわるでえっちだから。いじわるなこともえっちなこともするね」
「赤葦くん…?」

ばかなことはしないんですか?と聞ける雰囲気ではなかった。伸ばされたおっきな手が私の頬に触れる。赤葦くんって、身長もおっきいけど手もおっきい。何部だったっけ、確か運動部だったはず。記憶を手繰り寄せている内に、親指がぐっと唇を押す。唇を割って滑り込んできそうになった親指を唇に力を入れて拒む。一体何のつもりなんだ。しばらく力比べをした後、手は離れていった。ホッとしたのもつかの間、伸びてきた両手が腰に回り、私をひょいと持ち上げる。

「きゃ、」

その後何をされたのかはとても友達には言えない。(遠慮なくペタペタ背中やお尻を触られて「…筋肉がない」と驚き顔で罵倒された。酷すぎる)

私の話を一通り聞いた友達は、困惑の表情を浮かべたままだ。

「いや…その、疑うわけじゃないけど。やっぱり信じられない」
「えぇ!?」
「だって赤葦くんだよ?名前の勘違いじゃないの」

ひどい。なんで信じてもらえないんだろう。赤葦くんの社会的信用の高さにハンカチを噛みたい気持ちになる。ほんとうなの信じてよ。

私、赤葦くんに意地悪されてるの!!




掃除時間がすっかり恐怖の時間になってから数日。
赤葦くんは自分に割り振られた音楽室の清掃をササッと済ませてこちらへやってくるようになった。一人で準備室の掃除を請け負うと自分から言った手前、今更代わってとも言いづらい。
他の子は赤葦くんが私を手伝っているくらいにしか思っていないようだった。もっと不審がって欲しい。

「苗字さん」
「あか、しくん」
「赤葦だよ」

変なところで名前を区切ってしまった私に、悪い子だねとでも言うように赤葦くんは名前を訂正した。別に名前間違ったわけじゃないし、うまく言えなかっただけだし、と言い訳が浮かぶけど口にはできなかった。

赤葦くんはこちらに来るたびに、壁際に追い詰めた私の手を握ったり髪に触ったりしてくる。
もっと怖いことをされるんじゃないという恐怖で下手に抵抗ができない。
一度「やめてっ!」と大きな声をだしたことがある。すぐに赤葦くんと同じ音楽室掃除の子が「どうしたの?」と様子を見に来たけれど、赤葦くんの「なんでもない。俺が驚かせちゃっただけ」という言葉にあっさり引いてしまった。
その上「苗字さん、赤葦くんせっかく親切で手伝ってくれてるのに大きな声出しちゃかわいそうだよ」と赤葦くんの肩を持たれてしまった。
信用というものは重たくもあり便利だ。人は信用できる人間の言うことを信じるし疑いもしない。自分の声が届かないのだと、私は重々理解してしまった。

いっそ赤葦くんの存在なんて無視してしまおうと心に決めて、背を向けたまま先生が適当に並べた楽典を脚立にのぼってあいうえお順に整理する。なんで無駄に高い棚をここに置くんだろう。
この音楽準備室には私以外いない。そう思い込む。だから赤葦くんに名前を呼ばれたって無視。

「苗字さん」

私の態度も特にダメージは無いらしい。普段通りの声色をした赤葦くんが思ったよりも近くで名前を呼ぶ。赤葦くんって鋼の心の持ち主なのかな。スル、と腰に手が触れて私はつい振り返って声を上げてしまった。

「もうっ、やめ、ん゛!?」

脚立にのぼっていたせいか目線が普段より上だった私は振り返ってすぐ赤葦くんの顔があることに驚く。そして、振り返った勢いで、何かが唇に触れた。衝撃でちょっと痛い。

「え、あ、」
「おっと」

脚立から落ちそうになる私を支えながら、もう片方の手で赤葦くんが自分の唇に触れる。

「じ、事故です!!」

すぐに事故を主張する私に、赤葦くんは淡々と「まさか苗字さんにキスされるなんて思わなかった」と言う。

「ち、ちが、」
「でも口と口当たったよね?」
「それは、あんな近くにいるなんて思わないし…」
「俺だって苗字さんが振り返るとは思ってなかった」

そもそもやたら近づいてきて触る赤葦くんが悪いんじゃん!と怒りがこみ上げる。そんな私に、赤葦くんは静かに告げた。

「俺、苗字さんにキスされたって言っちゃうかも」
「え、」
「隣にいる人たちに相談しようかな。どうしようって」

なんでそっちが被害者面するの。と思うけれど、それどころじゃない。もし、誰かに話されでもしたらまずい。確実に私が加害者になってしまう。
きりっとした目元と涼やかな雰囲気を持つ赤葦くんは、それなりに女の子の間で人気がある。そんな彼に手を出したと思われたなら、残りの高校生活、針の筵は約束されたも同然。

「や、やめて」

すがるような声で言う私に、赤葦くんは優しく微笑む。

「じゃあ、俺のお願い聞いてくれる?」

頷く以外の選択肢が、はたして私にあるんだろうか。自分よりはるかに賢く狡猾な人間に、勝てるはずなんてなかった。


「目、閉じて」

私の言葉に赤葦くんは素直に目を閉じる。赤葦くんは私に「ちゃんとキスして欲しい」とお願いした。
ちゃんとって何?と思ったけれど、自分の身を守るためだ、仕方がない。身長差があるから古いピアノの椅子に座ってもらって目を閉じるよう促す。
そして、覚悟を決めて唇を触れ合わせた。薄く見える赤葦くんの唇は、その実ふにっとしてるなんて一生知りたくなかった。一瞬の触れ合いの後、パッと距離を取る。

「これでいいでしょ」

やっと解放されると思ったのもつかの間、彼は立ち上がりながら「明日もよろしく」と言った。

「え?」
「明日もだよ」

じゃないと口滑らせちゃうかも、と優しい顔のまま、赤葦くんは言う。
悪魔。悪魔だ。優しい顔をした悪魔。
静かな学生生活を望む私は、その要求をのむ以外になかった。赤葦くんがどうして私にだけ悪魔のような所業をみせるのかが解らない。もしかしたら他にも被害にあっているの女の子がいるのかも、きっと私と同じく言えないだけで。そう思うと底知れない恐ろしさにぶるりと震えてしまった。

キスの約束をしてから、赤葦くんからのいたずらめいたいじわるは無くなった。不幸中の幸いと呼んでいいものか悩むけれど、少しだけホッとしたのも事実だった。毎日、掃除の時間が近づくにつれ気持ちがどんよりしていく。重たい足取りで音楽準備室へ向かった。しばらくすると、ガラッと引き戸を開けて赤葦くんがやって来る。そして、そこが定位置みたいに古いピアノの椅子に座った。

「苗字さん」

その存在を無視しようとする私の名前を優しい声で悪魔が呼ぶ。私はグッと唇を引き結んで悪魔に近づいた。そして、頬に唇を落とす。それでお茶を濁せないかと思ったからだ。
赤葦くんは一瞬驚いたような顔をして、その後すぐ微笑んだ。そして、スッと私を引き寄せて頬に唇を寄せた。とても、嬉しそうな顔をしながら。
よくわからないけど、彼の満足ポイントは押さえられたらしい。そう油断した次の瞬間、唇を塞がれた。そしてすぐに離れた唇は弧を描いていた。出し抜いたと思ったのに全然だめだった。悔しい。

それから、毎日赤葦くんは逃げる私を壁際に追い詰めてはキスをした。もうお嫁に行けない気さえする。
ある日は両手を恋人つなぎにして、ある日は抱きしめられながら、またある日は椅子に座った彼の膝に乗せられて。唇を合わせるだけだったキスも徐々にバリエーションが増えていく。キスにこんなに種類があるなんて知らないままでいたかった。
困ったことに、最近は赤葦くんとキスをすると頭の芯がぼーっとするようになって、どこか心地よいようなうっとりするような気分になってしまう。そんな自分が心底嫌だった。

「ん、んぅ」

その日はなぜだか彼はしつこくて、なかなか離れてくれなかった。キスしながら耳をなぞるようにされたり、接触もいつもより多い。深いキスこそしたことがないけれど、いつそうなってもおかしくない気がした。

「あかあしくん」
「ん?」
「ん゛ん゛」

息継ぎの合間にもうやめてと名前を呼ぶけど、すぐにまた口を塞がれる。もういいや、と諦めた時、ガラッと扉が開く音がした。

「え、」

音楽室を掃除していた同じ掃除班の女の子がびっくりした顔で入り口に立っている。慌てて距離を取ったけどきっともう遅い。

「え…その、2人って…」

顔を赤らめて尋ねる彼女に、赤葦くんが私を隠すように一歩前に出て答える。

「…実は付き合ってる。悪いんだけど、今見たことは黙っててもらえるかな」

付き合ってることは、言ってもいいから。と赤葦くんは宣った。ちょっと、なにを勝手なことを。

「ちが、んんん!!!」

否定しようとした私の口を赤葦くんのおっきな手が覆う。
その隙に彼女は「わかった」とその場を離れてしまった。納得いかなくて彼に食って掛かる。

「なんであんなこと」
「付き合ってないのにキスしてる方が聞こえが悪いと思うけど」
「う、」

それは確かにそうだった。

「しばらくはそういうことにしておこう」
「…わかった」

嫌で仕方なかったけど、こうなってしまっては致し方無い。折を見て別れたことにしてもらおう。正直にいうと、自分の恋愛歴にありもしない傷ができるようで嫌だった。

付き合っていることになって良かったことは掃除時間のキスが免除されたことだ。いじわるもされないし、キスもされない。快適だった。
ただ、時々彼女としてのふるまいは求められるから、それだけは多少面倒に感じていた。イベントを一緒に過ごして、デートして、彼女だと紹介される。普通の恋人のようだった。
手を繋ぐことも、キスも、抱きしめられることにもすっかり慣れた。

いままでのひどい振る舞いが嘘みたいに、赤葦くんは優しかった。理想的な恋人だと錯覚しそうになるほどに。驚いたことに、ほかに毒牙にかけている女の子もいないようだった。そして気がついたときには3年生に進級していた。あれ、いつ別れてくれるんだろう。

「ねぇけいくん」
「なに」
「いつ別れるの」

お馴染みになってしまった学校からの帰り道、けいくんに尋ねてみる。

「は?別れないよ」
「だっていっときだけって話だったよね」
「この期に及んでまだ諦めてなかったんだ」

けいくんは優しく微笑んで私を見た。

「お互い親にも紹介したのに」

彼の言う通りお互いの親にもあったことがある。両親はけいくんをいたく気に入り「私にはもったいない」と何ともひどいことを言う。その人こそが私にひどいことをしていたのに。

「そうだな、俺が名前より先に死んだら別れる」
「…それ、別れないと同じじゃんか」
「今更じゃない」

体まで許しといて。とけいくんはほくそ笑む。そう私はすでにぺろりと悪魔の腹に納められていた。

「名前の親の前で婿に行けない体にされましたって言ってみようか」
「…ひどい」

彼は自分が人にどういう印象を持たれているのかよくよく理解している。腹立たしくて、べしん!と背中を叩くけど、ノーダメージらしいけいくんは、しれっとした顔で「痛いよ」と言う。

「俺のこと嫌い?」
「それ、は…」

正直絆されたというか、最初の印象が悪すぎて普通の交際で好感度爆上がりしてしまったというか、流されたというか。とにかく、今現在嫌いではなかった。素直に好きと言うのにはちょっとまだ抵抗がある。悩む様子を見せる私にけいくんは足を止めた。

「まぁなんにせよ、今更逃がすわけなんてないよね」

そう言って、私の悪魔は優しく微笑む。優しい顔の悪魔に魅入られた私は、この腕からずっと逃げられないのかもしれない。










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