末っ子

『うちは女の子2人だから、長男と結婚しちゃだめだよ』

幼い頃に年の離れた姉から言い聞かせられた言葉は刷り込みのように私の中に溶け込んでいて、長男だと聞くと自然とその相手を恋愛対象から外すようになってしまっている。

そのことを彼に話したのは、二人きりの空気に耐えられなくなったからだった。
希望するゼミの説明会、マイナーなジャンルの研究をしている教授のゼミとは言えまさか佐久早くんと二人だなんて思いもしなかった。同じ学部ではあるけれど、時折会話する程度の彼とは共通の話題も少ない。自分でも脈絡のないことを口走ったのは分かっている。でも、社交的とはお世辞にも言えない彼と無言で教授の到着を待ち続けるのは苦行めいたものがあった。
羨ましいくらいに無駄な部分の見つからないシャープな白皙の面は普段と変わらない静けさで、自分の話題がだだスベりだと悟り悲しくなる。あぁやっぱりバレーボールの話題にした方が良かっただろうか、でもバレーボールの話なんてしても知識が無さ過ぎて私が持たない。もう諦めて黙っていようかと思った時、佐久早くんが口を開く気配がした。

「俺も、姉がいる」
「え、」

幻聴かと思うくらいに静かな声は、凪いだ水面に落ちた落ち葉のように波紋を広げる。今まで気がついてなかったけど、静かな空間で聞くと耳に心地の良い声だと思った。

「お姉さん?」
「あぁ。兄も一人」
「末っ子なんだ?」

コクリと頷く佐久早くんに、会話をする気があるらしいと判断した。
人の営みから外れたような浮世離れ感のある佐久早くんも、人の子なのだとどこか感動した。血を分けた兄姉がいて、きっとお菓子の取り合いっこなんかもして、上からの理不尽な押さえつけにもあったりして育ってきたのかもしれない。そう思うと急に身近に感じるから不思議だ。末っ子同士のシンパシーとまでは言わないけれど、案外うまくやれるかもしれないと希望を持った。
予定より十分以上遅れて現れた教授は、私たちを見るなり、「シラバスを読んできているだろうから改めて説明はしない。希望者が二人ならば選考もしないし、君たちが不服でないなら所属決定でよい。学生課に書類を出しておきなさい」と言い放ち去っていった。ポカンと口を開いたまま扉を見つめる私をよそに佐久早くんは書類を記入しにかかる。そうして私たちは同じゼミに所属する仲間になったのだった。

その後の佐久早くんとの関係は案外悪くない。社交性はなくても社会性はあったらしい彼は話しかければ答えてくれるし、必要があれば向こうから話しかけてくる。部活の大会でどうしても講義に出られない時は授業の内容を聞かせて欲しいと頼まれることもあるので、ノートを貸してあげることもあった。

「…もっと雑然としてると思った」
「ノート貸したのにディスられてるんだけど」
「褒めてる」

にやりと笑う佐久早くんが貸していたノートを返してくれる。褒められたのか微妙なところではあるが、自分がキチンとしているタイプではないのは確かなのでそれ以上言い返すのはやめた。
私はバレーボールをしている彼を知らないが、なんでもすごい選手らしい。狭い研究室では嵩張るその恵まれた体躯も、コートの上では活き活きと躍動するのだろう。私が知っている佐久早くんは、体を冷やす冷たい飲み物よりも常温や温かいものを好んでいて、研究の計画がとても細やかで、指先の乾燥を気にしてたまに私のハンドクリームを使うような、研究室という名の本の森に佇むのが似合う、そんな人。
ハンドクリームに関しては、ちょっと良い物をお土産で貰ったと言ったら使ってみたいと言ったので少し分けたところ気に入ったらしい。今使っているのが無くなったら同じものを買うと言っていた。でもそれじゃお揃いになるの、わかってるんだろうか。

研究室で他愛もない話をして一緒にお茶を飲んで過ごす時間が、私は嫌いでは無かった。穏やかで、ゆったりとした時間。そしてたまに、眩しいものを見たように少し目を細めて優しく笑う佐久早くんを見た時はラッキーだなと思うのだ。

「佐久早くんって今日も部活なの?」

今日の予定を聞いたのは特に何の意味もなかった。ただの世間話。佐久早くんは参考文献に付箋を付けながら「いいや今日はない」とだけ答えた。私は特に気にも留めず「そっかぁ。私今日映画観ようと思うんだよね。あのミュージカルのやつ。誰もつかまらなかったから一人なんだけどさぁ。今からでも誰かつかまるかな?」とほぼ独り言のように言った。

「へぇ」

佐久早くんは毛ほども興味がなさそうな返事を寄越して、視線は参考文献に落ちたままだった。さて、そろそろ行こうかと帰る準備を始めると、佐久早くんも荷物を持って上着を羽織った。身長があるから丈の長いコートが映える。

「佐久早くんも帰るの?」
「は?」

私の言葉に、彼は怪訝な顔をした。眉間の皺がすごい。

「映画観に行くんだろ」
「えっ」
「…お前が誘ったんじゃねぇか」

えっ、そういうことになるの!?と目を見開いてしまった。思い返せば私のセリフは、誘っているように受け取れなくも…無い、ような気はした。東京だと誘い文句になるのかもしれない。私は地方出身だからその辺はよくわからないけれど、やっぱり違う気がする。そうはいっても佐久早くんはもう行く気のようなので、思わぬ展開にドギマギしながら研究室を出た。
木枯らしの吹く外は当たり前だけど寒くって私は縮こまるようにして歩いた。そうしていると歩くのが遅くなって人込みの中じゃ簡単にはぐれそうになってしまう。するとガシッと佐久早くんが私の二の腕を掴んだ。びっくりして彼を見上げるとなんでもなさそうに前を向いている。まるで小さい子みたいな扱いにおかしくなって「…そこは手を繋ぐんじゃないんだ」と冗談を言ってしまった。
すると、苦虫を噛み潰したみたいな顔をした彼が二の腕から手を離し私の右手を握る。そして「これで良いのか」と私を一瞥した。なにか悔しいのかなんなのか分からないがそんな顔して手を握られたのは初めてだったので、思わず笑ってしまう。でも、重なった手の温度は意外にも心地よかった。

私はネットで席を押さえていたから早々に発券して、機械でチケットを買う佐久早くんを待っている間チュロスを買った。ホクホク顔で佐久早くんを待っていると、チケット片手にこちらにきた彼がチュロスを見るなり「糖質と脂肪の塊」と呼んだ。

「…一気に食欲失せた」
「ダイエットになるな」

フン、と口角を上げる佐久早くんを「意地悪だ…」と詰る。彼は気に留めた様子も無く「行くぞ」とチュロスを持っていない方の私の手を掴んだ。え、また手を繋ぐの?!と思ったけれど迷子防止なのかもしれない。佐久早くんの身長だと、きっと私のサイズは視界から外れやすいだろうし。大人しく着いていくと、スクリーンの指定席に座った後も手は繋がれたままだった。
上映前とは言え静かなスクリーン内でおしゃべりするのも憚られて、私は仕方なく握られた手を諦めてチュロスをサクサクと齧った。映画の内容はあまりよく入ってこなかった。ミュージカル映画だし、歌は良かったのだと思う。ただ、ハンドクリーム効果なのか、私より滑らかな指先に気を取られてしまっただけで。

エンドロールが終わってパッとスクリーン内が明るくなる。佐久早くんはさもそれが当たり前であるかのように、私の手を引いて歩き出した。今度こそ本当に混乱した。なぜ手を握るのか、なぜ何も言わないのか、なぜ私に誘われたからと映画を観に来たのか。聞きたいことはいくつもあるのに、どれから聞けばいいのかわからない。お互い無言のまま歩いていると、佐久早くんが急に立ち止まった。

「…お前、長男じゃなけりゃ良いんだろ」
「え?」

何の話かわからなくて咄嗟に聞き返す。

「長男じゃ無かったら恋愛対象なんだろ」
「なんか、見境ない人みたいに聞こえるんだけど…確かにそんなこと言ったね」

ゼミ選考の日の話だとようやく合点がいく。佐久早くんは静かに私を見降ろしながら口を開いた。あたりの宵闇を集めたような瞳はどこか神秘的で、思わず見入ってしまう。

「次男だから」
「ん?」
「俺は次男だから問題ないな」
「あ、あぁ末っ子だって言ってたね」

問題ないって何が?と思いながらも頷くと、どこかイライラした様子の佐久早くんが繋いだ手を少し引っ張る。

「わっ」

そのせいでたたらを踏んでしまった私は、少しだけ佐久早くんとの距離を縮めてしまった。ぶつかってしまったコートの質感が上等で、チュロスの食べカスが今ので付いてやしないかとちょっと怯えてしまう。

「末っ子だから、親の事とか後継ぐこととかあんまり気にしなくていい」
「そう、だね」

もしかして、これは売り込まれているのだろうか。まるで商品のセールストークのように、自分は末っ子だから、私の条件に適っていると。

「あのさ、もしかしてなんだけど」
「なに」
「佐久早くん、私に告白してる?」
「…最初からしてる」
「おぁ…」

人は驚きすぎると変な声が出るらしい。

「どうなんだよ」

私の知っている告白とはあまりに違う商談のような雰囲気に戸惑う。冬場に向けて澄んでいく空気のせいか、星が綺麗に輝いているのが見えてどこか現実味がなかった。

「長男はだめって話なんだけど…実はそう言ってたお姉ちゃん、長男と結婚しちゃったの」

その時の衝撃はとても大きかったのだが、意外なことに親も「まぁ残すほどの家でもないし、老後は自分たちで何とかするしね」と気に留めた様子はなかったのだ。

「だから、その、本気で長男はだめってわけでもなくって…」

まぁ無意識に長男は避けちゃうんだけど、とそこまで説明して佐久早くんを見るとそれはもう不機嫌そうな顔をしていた。

「男なら誰でもいいわけ」
「もしかして私のこと本当に見境ない人と思ってる?」
「答えろ」
「…誰でもいいってわけじゃないよ。好きになった人がいい」
「じゃあ俺を好きになればいい」
「ほぁ…」

本日二度目の変な声が出る。急に豪速球投げられるとびっくりするよ佐久早くん。

「変な顔」

ふっ、と佐久早くんが変な声を出した私を見て笑う。その、眩しいものを見た時みたいに優しく目を細めた笑い方が結構好きだった。

「もし、これから誰かを好きになるなら、多分筆頭候補は佐久早くんだよ」
「多分?」
「か、確実に」

繋いだ手に力が入った事に竦み上がって言い直す。でも、本当の気持ちだった。

「ならいい」

私の回答にご満足頂けた様子の佐久早くんがまた歩き出す。そして、家まで送ってくれたと思うと、私の唇を「担保」だと言ってしっかり掠め取って帰っていった。なんの担保なのかさっぱりわからない。担保だって言うけど、奪ったキスは返せないじゃん。

そして私たちはまた、狭い研究室でそれぞれに過ごしている。

「へっくし」
「おい、風邪じゃないだろうな」
「ちょっとむずむずしただけ」
「…着てろ」
「わ、」

くしゃみをした私の頭に、佐久早くんが傍らに置いていたカーディガンを乗せた。もっと優しい渡し方したらいいのに。ありがたく羽織ると暖かい。きっとウールとかなんだろうな、とタグを見るとカシミヤと書いてあった。うっかりお茶零したらシバかれるやつじゃなかろうかと戦慄する。

「佐久早くん優しいね、末っ子だから?」
「うるさい返せ」

最近何かにつけて末っ子だから?とからかうのがマイブームなのだけど彼はそれがお気に召さないらしい。グッと不快さを露わにした表情に私は思わず笑ってしまう。

「ねぇ笑ったほうが良いよ」

そう言って隣に座って佐久早くんの頬を指で持ち上げる。

「やめろ」

私の両手を掴んだ佐久早くんが、ほんの僅かな間私の顔を見たかと思うと、その端正な顔を近づけた。

「…また担保?」
「担保かどうかはそっち次第」
「じゃあ、担保じゃなくていいよ。佐久早くん末っ子だから」

そう答えると、佐久早くんは少し複雑そうな顔をして「決まりだな」と優しく口付けたのだった。


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