獣医の昼神先生



不思議な緊張感が漂っている診察室で、私は成すすべもなくただじっと先生の診断を待っていた。
重たい沈黙の中、やっぱり悪い病気なのでは、とマイナス思考に走りかけてしまう。診察を終えたらしき先生はふぅ、と一息ついてにっこりと私に微笑みかけた。

「ストレスですね」
「えっ?」

穏やかに告げられた診断に、素っ頓狂な声が出る。てっきり余命を告げられるとばかり思っていたから開いた口が塞がらない。

「ス、ストレス?」
「はい。ご飯もたくさん食べていて、便も問題ないようですし、こうして今元気いっぱいな様子を見るに、ストレスですね。もしかしたら少しだけ飼い主さんが構いすぎてるのかもしれません」

先生がそう説明する間も、先生の大きな手の上で私の愛する同居人であるハムスターのマックスは元気に動き回っていた。

転勤先としてやって来た長野は、まさに縁もゆかりもない場所だった。行ったこともなければ、知り合いも居ない。その上冬には体験したことの無いレベルの雪が降る。雪があまり降らない地域で育った私にとっては、本来ならいっそ感動するような朝日を受けて輝く一面の雪景色もより孤独を感じさせるものでしかなかった。友人もおらず、仕事と家を行き来する毎日。寂しさが限界を迎えそうなある日、雪かきの道具を買いに訪れたホームセンターで私は運命の出会いを果たした。
ケージ越しに愛くるしい顔で私を見ていたその子こそ、同居人のマックスだった。衝動的に彼を家に迎えてから毎日が変わった。家に帰ればマックスが迎えてくれる。日常が特別になった。
マックスが快適に過ごせるように勉強して、健康には特に気をつけていた。それなのに、マックスと過ごし始めて半年と少し経った先日、彼の魅力的なお尻に小さなハゲができていることに気がついた。見間違いかと思って顔を近づけて見てもやっぱりハゲている。頭に色々な文字が浮かんでは消える。病気?それとも怪我?まさか寿命が近い?それらは全部良くない想像ばかりで、心は不安でいっぱいになってしまった。「ハムスター 脱毛」で検索してみると、ダニ、寄生虫、腫瘍、など不安要素しか出てこない。兎にも角にも病院だ!と意を決してネットでクチコミの良かった動物病院へとやって来た次第だった。

「私…マックスにストレスを与えてたんですね…」

構いすぎ、その言葉に身に覚えがあった。最近仕事がバタついていて、帰宅するとお家から顔を出してくれるマックスを手に乗せてはよしよしと撫でまわしていた。私にとっては癒しの時間だったけど、マックスにとっては不本意に撫でまわされていたと言える。なんて身勝手な行為だっただろう。マックスが嫌がってるかもわからないなんて飼い主失格だ。しょんぼりと落ち込んでいると先生が優しく声をかけてくれた。
そこでやっと先生の顔をまじまじと見た。若い。そしてハンサムだ。名札には昼神、と書いてある。

「愛情を持って接してるのは彼の元気な様子でわかりますよ。えーっと、マクシミリアン…くん?マックスくん?」

受付票を見ながら昼神先生は不思議そうな顔をした。

「あ、マクシミリアンです。マックスはニックネームで…」

友達にマクシミリアン?!と笑われたことを思い出し、少し視線を泳がせる。わかってる、ハムスターにつけるにはゴツい名前だって。
名前を決める時に、立派なお名前をつけてあげたいと思ったのだ。だから、好きな児童小説の主人公から名前をとった。

「かっこいいお名前だと思います。沢山呼んであげて下さい」

ハンサムな昼神先生はにっこりと笑いそう言ってくれた。
その笑顔に、どこかデジャブを感じた。だけどきっと気のせいだろう。昼神先生とどこかで会った記憶はない。
先生からマックスのストレスに対してのアドバイスがあって診察は終わり、お礼を言って診察室を出た。
ケージの中のマックスは忙しなく駆け回っていて、その元気な姿にやっとホッとする。

「苗字マクシミリアンちゃーん」
「はい」

クスクス、と周りの人が笑う気配がしたけれど、先生のおかげか、気にならなかった。


先生のアドバイスに従ってマックスと触れ合った結果、お尻の脱毛は徐々に回復し、魅惑のハムケツが帰ってきた。ずっと見ていられるくらい可愛い。これは快気祝いに奮発してハムスター用のドライフルーツを買ってあげよう。そう思った私はルンルン気分で買い物に出かけた。街は桜が散ったばかりで、道に可愛らしいピンクの花びらがちらほら落ちている。その色合いに年甲斐もなくウキウキしてしまった。

「あれ、苗字さん?」 

突然名前を呼ばれて足を止める。少し離れたところに大型犬を連れた男の人が立っていた。
こんな知り合いいたっけ?と首を傾げる。

「マクシミリアンくんはその後どうですか?」

その言葉でようやく相手が誰か認識できた。

「先生!!」
「こんにちは」

私の大声にもたじろぐ事なく穏やかに挨拶をしてくれたのは、先日マックスを診てくれた昼神先生だった。

「すっかり良くなりました。私てっきり悪い病気なんじゃないかって取り乱してたから一安心です。ありがとうございました」
「良かったですね。マックスくんずいぶん可愛がってる様子だったから気にかかってたんです」
「…私、転勤で長野に来て、知り合いもいなくて寂しかったのをマックスに助けてもらったんです。だから、すごく大事な子で」
「だからあんなに不安そうな顔で病院にきてたんだ」
「はい。寿命が短いのはわかってるんですけど、少しでも長生きしてほしいなって」
「わかりますよ。俺もコタロウには長生きして欲しいし」

昼神先生が傍らに座る愛犬を撫でる。ワンちゃんは嬉しそうに耳をペタッと伏せた。

「お散歩中だったんですか?」
「そうなんです。実はこの辺で時々すれ違ってたから苗字さんのことは知ってたんですよね」

そう明かされてやっと、あの日感じたデジャブの正体にたどり着いた。そうだ、ワンちゃんのお散歩中に挨拶してくれる人がいた!と急に記憶が鮮明になる。

「ごめんなさい、私、先生とたまにすれ違うお兄さんが一致してなくて」
「あはは、それはそうでしょ。俺も病院で会った時、なんか見たことあるな〜って感じでしばらくピンとこなかったし」

でもこれからは大丈夫ですね、と先生は笑う。ハンサムの笑顔を見れてラッキーだな、なんてのんきなことを考えていた。

それから散歩中の先生と会っては少し言葉を交わすような関係になった。
動物病院の先生と患者(の飼い主)にしては親しくなりすぎな気もするけれど、かと言って無視したり、よそよそしくするのも変だし、そこはもうなあなあにしていた。先生は背が高いから、お話しすると首が痛くなる。でもその痛みも、何だか悪い気はしなかった。
あれから、だいぶ先生について詳しくなった気がする。ご兄姉がスポーツ選手であること、自身もバレーをしていたこと、好きな食べ物、身長、大学時代のアルバイトの話など、多岐にわたる。つまりそれは、私についても同様で。そばが好きだと打ち明けると、先生は美味しいお店を知っているから今度教えると言ってくれた。きっと社交辞令だけれど、マックス以外の友人ができたような気持ちになって、すごく喜んでしまった。
知らない人が得意でないというコタロウさんも、ある時期から私にスリスリと寄ってきてくれるようになり、もう「知らない人」ではなくなったのだと嬉しく思った。


空の高さが秋を思わせ始めたある日、食欲の秋らしく小腹をすかせた私は近所のコンビニに買い物に繰り出した。肉まんかピザまんか。それともあんまんか悩ましい。温かなそれらに想いを馳せながら道を歩いていると、ワン!と子気味良い鳴き声が聞こえた。

「コタロウさん!」

すっかり馴染んだ顔に駆け寄ると、「こんにちは」と先生が微笑む。

「こんにちは先生」

挨拶を返すと同時に、きゅるるる、とお腹が元気な声を上げる。

「あっ、」

パッと手でお腹を押さえた。恥ずかしい。小さな子供じゃあるまいし。どんな顔をしたらいいか分からなくて、視線を泳がせていると先生がぷっと吹き出した。

「おやき、好きですか?」
「え、おやき…?」
「うん、おやき」
「好き、です」

話が見えないままそう返す。

「おやきの美味しい店があるんです。俺お腹すいちゃったし良かったら一緒に行きませんか」

あくまで先生が行きたいから誘っているという前提に、フォローされている、と少し情けなくなる。だけど、はらぺこの私にその誘いはあまりに魅力的だった。

ちょっとそこまで、という雰囲気に歩いて行ける場所なのかな、と頷く。こっち、と道を指し示す先生についてしばらく歩くと、彼はとある住宅の前で足を止めた。どうみても、お店には見えない。不思議に思っていると先生が「ちょっと待ってて」とその住宅の鍵を開けて中に入った。ん、鍵?まさかここって。答えに辿り着きかけた時「お待たせしました」と先生が現れた。傍にコタロウさんの姿はない。キョトンとしている間にこっち、とガレージの方へ行くように促される。

「どうぞ、乗って」

にっこりと助手席のドアを開けられた。車で移動するの?どこへ?乗っちゃっていいの?そんな疑問たちは昼神先生の有無を言わせない笑顔の前に消えて無くなる。

「…失礼します」

女は度胸!と、思い切って乗り込んだ。シートベルトをしていると、先生も運転席へ乗り込んでくる。今までにない距離感に妙に緊張した。つい近所だと思ってついてきたけど、まさか車で移動するなんて。適当な格好で家を出てきたのが悔やまれた。先生は慣れた手つきで車を走らせていて、変な無言が続いてしまいちょっと体が強張った。

「…マックスくんは元気?」
「うん。元気すぎるくらいです」
「良かった。俺が言ったらアレですけど病院に来なくていいに越したことはないからね」
「ふふ、私にとっては昼神先生はマックスを元気にしてくれた神様みたいな存在なんです」
「またまたぁ」

大げさ、と先生は笑う。よく笑う人だなあ。5分ほど走ったあたりで車は店舗らしき場所の駐車場に滑り込む。車を降りおやきののぼりが立つ店舗を見つめ、こんどは本当にお店のようだと一人ホッと胸をなでおろした。



「おいしい〜!」

おやきはベタに野沢菜ときんぴらを選んだ。
美味しさに目を見開いて先生の方を見ると、先生は可笑しそうに体を揺らす。

「気に入ってもらえたみたいで良かったです」

嬉しそうにそう言って先生もおやきを口にする。先生のはじゃがいもらしい。野沢菜のイメージしかなかったけど、色々あるんだなぁ。2人並んで座る窓際のカウンター席。窓の外にはコスモスの花畑が広がっていて、ついゆったりと眺めてしまった。
しばらくそうしていると、テーブルの上に置いた右手に、先生の左手が当たる。そして手が重なった。なんでだろう、その手を振り払う気にはならなかった。
少しして、もっと近くでみようと外に誘われる。コスモス畑は中を歩けるようになっていて、迷路みたいな花畑を何かに誘われるように進んでいく。ふと、振り返るとカシャっとシャッター音。そして、悪戯が成功したみたいな昼神先生の笑顔。

「バレちゃった」
「恥ずかしいから消して」

前髪で目元を隠すように引っ張りながら言うと先生は、良い光景だったからつい、と携帯をポケットに戻した。写真は消してくれたんだろうか。昼神先生がこちらに歩み寄り、私の手を取る。あまりの自然さに疑問を抱くまでタイムラグがあった。
先生を見ると、先生も私を見ていた。お互い言葉は交わさない。だけど、私は昼神先生に恋をしていると、この時ハッキリ自覚した。気持ちを自覚したからと言って、特に何かするわけでもなく、ただぽつりぽつりと会話をしながら花畑の中を歩いた。
ふわふわと地に足のつかない心地のまま帰宅する。車の中でなにかしら会話をしていたような気もするけれど、好きだと気が付いたせいで急にひどく緊張をしてしまい、内容はあまり覚えてはいない。別れ際の「またね」が、ふわふわした心地に拍車をかけた。

「マックス、どうしよう」

気持ちの整理がつかなくてマックスに話しかけるけれど、カラカラと元気に滑車を回すばかりで答えてはくれなかった。


そんな風に、約束していたお蕎麦を食べに、行ったことないなら軽井沢に、上田城に、とお出かけを重ねているうちに冬がやってきた。
長野の寒さに慣れなくて重ね着をした結果着膨れしている私を、昼神先生は雪だるまみたいだと笑う。ちょっと恥ずかしくて、適当に降り積もった雪を掴んで昼神先生に投げつけた。

「わっ、やったな」
「きゃあ!」

ニヤリとした先生は、私を巻き込むように積もった雪へ倒れ込む。雪がクッションになってくれて痛みはなかった。そして、どちらともなく笑い出す。不思議と、あんなに寂しく思っていた雪景色はキラキラと輝いて見えた。

私の上から体を起こした先生は、そのまま立ち上がるのかと思いきや私の顔の横に両手をついた。先生の向こうに青空が見える。昨日はあんなに曇ってたのに今日は雲一つない。フッと、空が見えなくなった。代わりに視界いっぱいに昼神先生が見える。
少し離れた先生が「目、閉じないの?」と訊ねた。ハッとして目を閉じると、唇にもう一度先生が近づいた感触がした。

「マックスくんには敵わないかもしれないけど、俺も名前さんの大事な人にしてよ」
「…もうなってる」

私の答えに、昼神先生はひだまりみたいに笑った。背中の下で溶け始めた雪が少しずつ衣服に染みて冷たい。でもそんなことが些細に思えるほどに、満たされていた。もうきっと、寂しくなんてない。
こうして私は、故郷から遠く離れた長野の地で、小さな相棒と、大きな相棒を手に入れたのである。


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