夏の宵のせいにして



職場について一番にすることは、いつも同じ。

鉢植えに水をあげて同じ課の人たちのデスクを掃除する。掃除するといってもハンディタイプのクイックルワイパーで簡単にほこりを取る程度のものだ。書類とか置いてあるし水で濡らした雑巾を持ち込むのはちょっと怖い。万が一にでも濡らしちゃったら切腹ものだ。
あくまでも自己満足の域を出ない朝のルーティンは、ただ単純に気持ちよく仕事を始めるためのものだった。掃除を終えた達成感を感じつつ手を洗いに向かおうと振り返った時、目の前に突然そこに無かったはずの壁が現れる。

「わっ」
「あの、ソレ借りても良いすか」

聞きなれない声に顔を上げると、想像よりも頭一個分高いところに私を見下ろす佐久早聖臣くんの顔があった。
佐久早くんは弊社のバレーチームに所属する選手で、ほかの社員より頭一つ分と言わず二つ分くらい背が高い。社内にいるのは基本午前のみなので仕事で関わることもほとんどなかった。身長が高いのは知っていたけれど、こうして目の前にしてみると面積が大きいようにも感じる。不思議な威圧感があった。同期の木兎くんと比べて表情が豊かでないからそう感じるのかもしれない。いや木兎くんが豊かすぎるのかも。

「あ、あぁ、これね、どうぞ」

思いもよらない人から声をかけられて、戸惑いつつもクイックルワイパーを渡す。

「ありがとうございます」

一言お礼を言って佐久早くんは隣の部署へ消えた。ほっと一息ついた途端、噛み散らかしてしまった恥ずかしさに襲われる。
だって急に話しかけられるなんて思わなかったし、驚いてしまったんだから仕方ないじゃない。と誰に聞かせるわけでもない言い訳を連ねる。
佐久早くんはなんていうか、流麗な行書体みたいな人だ。繊細さと力強さと美しさが同居している。以前木兎くんにこの話をした時「行書体ってなんだっけ?」と心底不思議そうな顔をされた。分かりづらい例えで申し訳ない。そんな木兎くんはエネルギッシュな楷書体みたいだね、と言えば「うん!俺は元気!」と勢いのある返事をしてくれた。木兎くんはいつも元気で良い。

手を洗ってデスクへ戻ると、ちょうど佐久早くんがやって来た。

「これ、ありがとうございました」
「いえいえ」

クイックルワイパーを受け取ると、佐久早くんが私をじっと見ていることに気が付いた。
どうかしたのかと、内心首をかしげていると、スッと手が私に伸びて来る。そして、肩のあたりに触れると、何かを掴んで離れていった。

「ついてました」
「え…あ、髪の毛!ありがとう、貰うよ」

男性にしてはすんなりと長い指先に摘ままれている髪の毛に手を伸ばせば佐久早くんは「大丈夫です」とそのままゴミ箱へ髪を入れた。
噂に聞く佐久早くんは、潔癖の気があるようだったから他人の髪の毛なんて触りたくもないだろうと思ったのだが、どうやら噂はあくまでも噂らしい。本人の態度もその噂に真実味を持たせている一因な気はするけれど、とりあえず意外と普通なのかもしれないと、佐久早くんの印象をアップデートすることになったのだった。

その後も時折、佐久早くんがクイックルワイパーを借りに来ることがあったので、思い切って備品倉庫に新品がある旨を伝えてみた。
うちの部署のを貸したくないわけじゃなくて、人がベタベタ触っているものより、新品のほうが彼も安心な気がしたのだ。

「いや、キーボードのほこりを取ってるだけなんで」

必要ないと断られて、それからも、ただクイックルワイパーを貸し借りする時のみ話す関係が続いていた。

「おー!苗字!今からメシ?」
「木兎くん」

その日は午後に会議が入っていて、プロジェクターとかの準備もあるし、と普段より早めに食堂にいった。午後からの練習前の腹ごしらえなのか、木兎くんと佐久早くんの二人で食事を取っているようだった。この2人会話になるのかな、とお節介にも心配してしまう。なんかテンションが両極端な気がするし。そんなことを考えていると、元気な声が私を呼ぶ。

「こっち来いよ」
「えっ」

テンション100と0の人間と一緒に座れと?私の戸惑いもなんのその。木兎くんはその天真爛漫さで私を自分の向かいに座らせた。つまり佐久早くんの隣。

「失礼しま〜す」

努めて明るい声を出すが、佐久早くんは特に何のアクションも起こさない。

「苗字ってオミオミと知り合いだっけ?」

無邪気な質問にずっこけそうになる。いやいや、佐久早くんの話したことあるじゃん。

「知ってるよ。後輩だもん。それよりオミオミってなに?」
「佐久早のあだ名!キヨオミだからオミオミ!」
「へぇ〜」

随分かわいいあだ名をつけられたものだ。横から発せられる「オミオミって呼ぶなオーラ」は黙殺することにした。

「クイックルワイパー仲間だよね」

そう話をふってみたところ「そっスね」となんとも省エネな返事。だけど、肯定されたことでちょっと嬉しくなった。今いる課には私より下の後輩がいないから、本当に後輩ができたかのような気分。その日から私は、佐久早くんを先輩として可愛がらねばという使命感に目覚めてしまった。
そうはいっても、やたらめったら構う訳ではなく、会えば少し話すといった程度なので依然と変わり映えはしていない。

「佐久早くんって、宮くんと仲良しなの?」

軽い気持ちで聞いたチームメイトの話題は佐久早くんのお気に召さなかったらしい。眉間に深く刻まれたシワが遺憾の意を如実に表していた。

「仲良くは、ない」
「そうなの?」
「絡まれてるだけ」
「えぇ…」

こうして、たまに出るタメ口も心を開いてくれるのかななんて、少し嬉しく思ってしまった。

「…苗字さんは、木兎サンと仲良いんスか」
「ん〜、良いとは思うよ。めちゃくちゃ仲良いとかじゃないけどね」
「そう」

会話を続けてくれたことに、ちょっぴり感動した。それはきっと、普段の木兎くんへの塩対応を知っているからだろう。
なにより、私の名前を知っていてくれたことに驚かされる。

「私の名前覚えててくれたんだね」
「…クイックルワイパー仲間、だから」
「そっかぁ」

思わずクスクス笑えば佐久早くんは無言のままで、だけどその口元は少しだけ柔らかく感じた。少しだけ心の距離が近くなった感覚。何故だか、私を見ても逃げなくなった近所の野良猫を思い出してしまった。



「暑気払い?」
「そうそう!苗字ちゃんもおいでよ!!」

夏が本格的な盛りを迎えそうな時期、外を歩けば汗ばんだ肌に布がくっついて気持ち悪い。そんな時もたらされた暑気払いの誘いはとても魅力的で、よくわからないメンツの中に私もメンバー入りすることになった。

指定された時間よりも少し早めに着いてしまったなぁと思いながら店員さんの案内に従って予約席へ向かう。

「あれ…佐久早くん?」
「…お疲れ様です」

「お疲れ様。珍しいね飲み会とかに来るの」

居酒屋の小上がりがこんなに似合わない人っているのかというくらい、佐久早くんと居酒屋、という取り合わせはミスマッチだった。
彼が飲み会に積極的に参加するタイプでないことは知っていたから不思議に思っていると、佐久早くんは彼を誘った人の名前を心底迷惑そうに告げた。飲み会好きの管理職にしつこく誘われて断れなかったのだという。
あの人そういうところあるんだよなぁ、悪気が無いのがまたなんというか、タチが悪い。
佐久早くんの向かいに座り、適当にあしらって早々に中座するように言うと「そうする」と頷いた。フィジカル面に特に気を遣っている様子の彼だ。飲酒だって控えているんだろう。
その予想は暑気払いが始まってからの様子を見るに正解のようだった。お酌をやんわりと断りながら烏龍茶を飲む佐久早くんは、食事もほどほどに帰りたそうな様子で、「もうしれっと帰りなよ」と促そうかと考える。
しかしそこにタイミングよく佐久早くんを誘った管理職が現れた。酔った勢いでお酒を勧める上司、思わず先輩として助けねば!と思ってしまった。

「私飲みます!」
「お、苗字さんいいねぇ」

コップに注がれたビールをグッと呷る。父親似のそこそこ強い肝臓に感謝した。
何度かお酌を受けるとすっかり満足したらしい上司は千鳥足で去っていく。
帰れるのかなアレ。

「あの、」
「ん、いいのいいの。お酒控えてるんでしょ」

体が資本だもんね。何かいいたそうな佐久早くんにお姉さん面して笑うと彼はどこか複雑そうな顔をした。どうしたんだろう。その理由を尋ねたかったけれど、酔いがまわって聞けなかった。
肝臓がある程度強いとはいえ、一気に飲めば酔いは回る。一気飲み、ダメ絶対。

酔い覚ましに水をごくごく飲んでいると、佐久早くんが「帰ります」と立ち上がる。そして私の腕を掴んで「この人も帰るんで」と私のカバンと腕を掴んで立ち上がらせた。

驚きに言葉を失っている間にお店の外に出てしまった。周りには酔った私を心配して連れ帰っているように写ってはいたようだが、これじゃまるで抜け出すカップルのようだ。

「危ないだろ」
「え、なに」
「あんな風にいつも飲んでるのかよ」

あれ、なんか怒られてる?

「いつもじゃないよ、今日だけ」

そう前を歩く背中に言えば、彼はクルリと振り返る。絵に描いたみたいな不機嫌な顔。

「今後はやめろ、頼んでねぇ」
「…ごめん」

190センチに怒られる迫力につい謝ってしまった。正直悪いとは思ってない。あの場では必要なことだった。じゃないと佐久早くんが犠牲になってた。

「先輩だもん。後輩のフォローしてあげたいじゃん」

佐久早くんからカバンを受け取りながら言うと、佐久早くんはカバンを受け取った私の手を掴んだ。うわ、手ぇでっか!と、目を丸くしてしまう。

「…先輩だなんて思ってない」
「えっ!!」

なんてショックな言葉だろう。可愛い後輩だと思っていた人間からの衝撃的なセリフに再び言葉を失っていると、佐久早くんが一歩私に近づいた。そして、マスクを下ろす。
次の瞬間額に触れる柔らかな何か。

「アンタをただの先輩だなんて思ったことはない」

咄嗟に掴まれていない方の手で額を抑える私に、佐久早くんは念を押すようにそう告げる。そしてマスクを元の位置に戻し、踵を返した。

「帰るぞ」
「…はい」

どっちが年上かわからないやりとりをして、また歩き出す。酔いが回っているせいだろうか。掴まれたままの手が、燃えるように熱く感じた。


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