ひめごと

もしも好きになってはいけない人に恋してしまった時、一体全体皆どう対処しているんだろう。

そのまま、道ならぬ恋に走るのだろうか。それとも産声を上げた恋心の口を塞いで息の根を止めるのだろうか。

答えを知りたくて、でもとても人には言えなくて、ウェブの恋愛相談を読んでみたりもしたけれど満足いく回答は得られなかった。
そもそもそう簡単に気持ちを忘れられるなら苦労はしない。こっちはこれ以上惹かれないように必死なのだ。

「お疲れ様」

コトッ、デスクに缶コーヒーが置かれたのに気付きキーボードを叩いていた手を止める。
声を聞いただけでドキッと跳ねる心臓を抑えながら振り向いた。

「お疲れ様です。松川さん」
「ブラック大丈夫?」
「はい。ありがとうございます。いただきます」

嘘だ。本当はブラックは苦手。でも子供っぽく思われたくなくて見栄を張ってしまう。

「今日なんか忙しそうだね」
「…ちょっと早めに終わらせたいことがありまして」

それも嘘。貴方のことを考えないためです。なんて口が裂けても言えない。

「根詰めすぎないように」
「ありがとうございます」

交代制のお昼時。一人きりのタイミング。
こうして時折声をかけに来られると、もしかして、なんて期待してしまう自分がいる。

この職場にふさわしい黒のスーツに身を包む彼は、私の雇い主。この春に若くして会長から社長職を引き継いだ若社長だ。跡継ぎにありがちな甘ったれたボンボン感は全く無く、堅実で家業に対する責任感のある彼は事務方のおばさま方から「若社長」と可愛がられていた。もっと若い頃は「坊っちゃん」と呼ばれていたらしい。
「社長っていっても、なったばっかだし呼ばれ慣れないんだよね」と名前で呼んで構わないと言われたので遠慮なく松川さんと呼ばせてもらっている。
スラッとした長身に鋭く見える吊り気味の目元を和らげる下がり眉。すこしツンとした唇。そして落ち着いた声に、人当たりの良さ。これで憧れないことがあるだろうか。中途採用の若い子だから、と何かと気にかけてくれる彼に惹かれるまでさほど時間は要さなかった。

「苗字さん、あの角のコンビニのあたりに住んでるっていってたよね」
「はい」
「あの辺にうまい焼肉屋できたの知ってる?」
「えっ!嘘、どこだろ。匂いで気が付きそうなのに」
「匂いって」

我ながらちょっと馬鹿発言だと思ったけど、松川さんのツボにはまったようで大きな体を揺らして笑っている。

「打ちっぱなしのビルが歯医者の横にあるじゃん?その2階」
「あ〜!ありますね!」
「高校の時の友達と行ったんだけどタンがうまくてさ」
「タンか〜!いいなぁ」

タンの味を想像してお腹が空いてきた私に気が付いてか松川さんは優し気に目を細めて「今度一緒に行く?」と尋ねる。

「いいですね。奥様方も喜ぶと思います」

てっきり事務の奥様方も一緒だと思ってそう返すと、松川さんは「いや、」と首の後ろを手でさすった。

「その、2人でって意味だったんだけど」
「え、」

どきり、心臓がまた跳ねた。

たまに、こういうことがある。この間は、急に片手を取られて「爪、いつもきれいにしてるね」と感心された。そうはいっても、自己流でやすりをかけて形を整えて透明のポリッシュを塗っている程度の味気の無いものだ。
だけど、触れられた手から、声を聞いた耳から火が出そうだったのを覚えている。きっと真っ赤だったに違いない。その前は確か髪を褒められた。そうして、思わせぶりなことをされる度に気持ちを諦められる日がまた一歩遠のく思いがする。松川さんの意図がわからない。新しい社員を気に掛ける以上のものだと流石に感じていた。

「嫌?」
「その…」

なんて答えたものかと迷っていると、お昼を済ませた先輩事務員が戻ってきた。

「あら、若社長ここにいたの。奥様が探してたわよ」
「うわ、すみません。すぐ行きます」

また話そう、と言い残して松川さんは去っていく。その背中を見送りながら、一気に現実に引き戻される気持ちになった。

「奥様」その存在が私の気持ちを誰にも明かせない理由。

伴侶のいる人を好きになった罪を、懺悔できないまま私は日々を過ごしている。
デスクに置かれた缶コーヒーに触れるとほんのりと温かい。それがまるで、松川さんを諦めきれないまま燻っている恋心のようだった。

奥さんがいると知った時、私は既に松川さんを好きになっていた。後頭部を強かに殴られたようなショックを受けると同時に、いわゆる優良物件ってやつだろうしそりゃ結婚してるよなぁとどこか納得したものだ。奥さんは基本家に居るようで、会長夫人の様に家業に関わってはないようだった。だけど、一度松川さんと黒髪の美人が社員の通用口付近で話し込んでいるのを見たことがある。きっとあれが奥さんだったんじゃないだろうか。
姿を見てしまえば、その存在にも現実味がでる。はっきりと輪郭を持った奥さんという存在は絶対的で、私は松川さんへの気持ちに踏ん切りがつけられない自分に日々失望し続けている。

「若社長ったら本当に名前ちゃんのこと気に入ってるのね」
「えっ、」

先輩事務員の言葉にビクッとおおげさに反応してしまう。

「可愛がってるわねって話よ」
「そう、ですかね」

そう言う先輩の顔は本当に微笑ましそうで、他意はないようだ。何か勘ぐられているのだろうかと邪推してしまった。

「若社長も隅に置けないんだから」

ニコニコと笑いながら言われた言葉は、いったいどういう意味だったんだろう。


それからも、折に触れては松川さんは何かと声をかけてくれた。
頂き物だという美味しいお菓子を分けてくれたり、長期休暇で知り合いに会うのだと南米に行ったときは可愛いマグカップを買ってきてくれたり(他の人にはお菓子だった)、前売り券をもらったからと映画に誘ってくれたり。
嬉しい。だけど苦しい。映画は予定が合わないと誤魔化した。新しくできたという焼肉屋にも、改めて誘われたけれどハッキリ断ることができずはぐらかしてしまった。
ダメだと思うほどに、松川さんを好きな気持ちは強くなる。松川さんも、なんで私に構うのかわからない。まさか、からかってる?いいや、そんな人じゃない。じゃあ、まさか本気?
有り得ない結論に自嘲の笑みがこぼれる。一体何を期待してるんだろう。

胸を締め付けられるようなこの気持ちはどうしたらいいの。誰に気兼ねすることなく松川さんの隣にいられる奥さんが羨ましい。そう思っている自分に気が付いたときゾッとした。このままじゃ、遅かれ早かれ私は松川さんへの気持ちを抑えることができなくなる。きっと、人の道にもとることをしてしまう。道理に背く自分にきっと耐えられない。

退職の2文字が頭を過ったのは良心の呵責に耐えかねてしまった冬のことだった。
その意思を先輩事務員に相談したとき、至極残念そうな表情で私にいて欲しい、考え直して欲しいと言ってくれた。
そして「若社長残念がるわよ」とも。
正式に決めたわけではないから、と口止めしてその日は話を終えた。



終業時刻が迫る夕刻、これからお通夜を控えているはずの松川さんに「ちょっといい?」と呼び出された。
何か不備でもあったのかとついていくと、休憩室に入るよう促された。

「その、辞めようと思ってるって聞いたんだけど」

言いづらそうに告げられた言葉に口止めは無駄だったと悟る。先輩事務員の良いところは世話好きなところだが、悪いところはお節介なところだった。

「まだ考えてるだけなんです」

決めたわけじゃないです。と答える。視線を伏せて話したため、白い手袋をした松川さんの手が視界に入る。グッとこぶしを握り力が入っていた。

「もしかして、俺のせい?」
「えっ」
「…俺のアプローチのせいで嫌な思いさせてたのかなって」
「えっ、えぇ?」

アプローチとハッキリ言われて、目玉が零れ落ちるかと思った。
私の考えすぎじゃなかったの?だとか、奥さんいるのにアプローチってどういうつもりなの?だとか脳内はパニック状態だ。
そんな私に松川さんは一歩近づく。

「苗字さん、俺のこと嫌い?」
「…嫌いじゃないです」

そんな、捨てられた子犬みたいな顔ズルいと思う。

「いつ誘ってもはぐらかされるから嫌われてるかと思った」
「嫌いではないですけど、応えられないです」
「なんで?」
「なんでって、ご自分がよくわかってるでしょう」
「…どういうこと?」
「よ、よくすっとぼけられますね」
「待って、本当に何のことかわからないんだけど」

困惑顔の松川さんは、本当にわけがわからないといった様子だった。

「だって、…奥さんいるじゃないですか。だから、応えられないしこれ以上同じ職場なのも辛くて、」

改めて口に出すと、ズキンと胸が痛む。

「え、奥さん?」
「え?」

驚いた顔の松川さんに釣られて私も一緒に驚いてしまった。何で松川さんが驚くの?

「俺、独身なんだけど。彼女もいない」
「え?独身!?でも、みんな奥様って言ってたし女の人といるところ見たし…」
「あ〜…、そういうことか」
「えぇ…」

もうわけがわからない。

「職員の人たちが奥様って呼んでるのはさ、先代社長の奥さんのことだよ」

つまり俺の母親。と松川さんは困ったように笑う。

「苗字さんも奥様って呼んでなかったっけ?」
「えっと、私実は奥様も松川さんって呼んでるんです。だから、ぴんと来なくって…」

勘違いしていたバツの悪さから言葉尻が小さくなる。

「なるほど。そっちは解決だな。でも、女の人と一緒にいたって言うのはちょっと心当たりがないんだよね」
「…通用口の所で何か話してらっしゃいました」
「通用口…っ、あぁ!わかった」

姉が顔出した時だ。と松川さんはなんだ、そのことか。とホッとした顔。
一方の私は、恋の障害だと思っていたのがお母さんにお姉さんだと判明し、今度こそ顔から火が出そうだった。

「まっ、え、お母さんに、お姉さん?」
「だね」
「えっ、えぇ?やだ、もう帰って良いですか」
「この流れで帰すわけないでしょ。で、俺のこと嫌いじゃなくて、誘いを断る理由も仕事辞める理由も無くなったわけだけど」

まだ、心配事ある?と、口角を片方上げた松川さんが顔を覗き込んでくる。

「松川さん意地悪です」
「そう?俺、苗字さんには一際優しいはずなんだけどな」

そう言う松川さんはどこか楽しそうだ。

「まずは2人で食事なんてどう?」
「う…その、まだ気持ちの整理が、」
「行くか行かないか、シンプルでしょ」
「何で楽しそうなんですか」
「またとないチャンスだからモノにしたくって」
「…行きます」

行くよね?断れないよね?という圧に負けて頷くと「よっしゃ」と松川さんは普段の落ち着いた様子が嘘みたいに嬉しそうだった。

「これからお通夜あるんでしょう?お顔引き締めて下さい」

照れを隠すためとは言え、我ながらツンとした言い方になってしまった。松川さんは気にした様子もなく「切り替えるから大丈夫」と笑う。
その顔が何だかイタズラ少年みたいで可愛く思えてしまうあたり私も随分と手遅れなのかもしれない。

この後とんとん拍子に交際に発展し、まず一静が歳下だと知って驚愕することになる。見た目年齢詐欺だ。そしてコソコソと(後で周りにはモロバレだったと知るのだけど)関係を続けた結果、私が「奥様」になるのだが結局周りからは変わらず「名前ちゃん」と呼ばれ終ぞ奥様と呼ばれることがなかったのは今となっては笑い話である。


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