あの子になりたい
「黒尾ー!」
明るい声が教室の入り口から聞こえる。
彼の名前を呼ぶ声は金糸雀の鳴き声みたいで可愛らしい。
「現国の教科書貸して!」
「またかよお前」
「お願いお願いー!」
彼は仕方なさそうにため息を吐いて、机から教科書を取り出す。気怠げに立ち上がってあの子のところに歩み寄り教科書を筒のように丸めてポコッとあの子の頭を軽く叩いた。
「いったーい!」
「何回目だよ本当」
「ごめんってば!後で返しにくるね」
きゃらきゃらと明るく笑いながらあの子は駆けて行った。
自分の席に戻ってきた彼がチラリとこちらを見た気がしたけれど、私は読んでいた本に集中しているフリをして彼の気配を探る。
「あー…、その、苗字サン」
「えっ、はいっ」
急に話しかけられた驚きで勢いよく本を閉じてしまう。しまった何ページだったかな。
「アイツいつも騒がしくしてごめんな」
「大丈夫。仲良しなんだね」
仲良し、自分でそう言っておきながらツキンと胸の奥が疼いた。
「いや、仲良しっていうか…小学生から学校一緒ってだけ」
すぐモノ借りに来て困ってんの。と黒尾くんはやれやれという顔をする。
「黒尾くん頼まれたらちゃんと貸してあげて優しいよね」
「え、そう?苗字サン俺のこと優しいと思う?」
「うん」
「そっか」
首の後ろを摩るようにしながら、黒尾くんははにかんだ。
頬がじわっと熱を持つ。私はすぐにまた本に夢中なフリを始めた。
高校3年生も半ばを迎えたけれど、叶わないとわかっている恋を私はずっと温め続けている。
去年のクラスマッチ。
自分のクラスの応援に一生懸命になっていた私は水分補給を疎かにしてしまい、体調を崩してしまった。心配する友達に、休んでいれば大丈夫だから。と言って日陰で座り込んだ。
10分くらい経っても体調の悪さは中々回復せず、むしろ悪化している気がする。
保健室に行こうか、と悩み始めた頃「苗字サン?」と誰かが私の前に立った。
「体調悪いの?」
問いかけに力なくコクンと頷く。
「歩けそうか?」
「…ううん」
「そっか」
ちょっと我慢してな、と言われてた直後、体が浮く感覚がした。
「えっ?!」
「すぐだからじっとしてろよ」
子供を抱き上げるようにされて、私を抱える腕の主の顔を見る。
「く、ろくん?」
「はい黒尾くんです」
もう少しいい子にしててな、と黒尾くんは保健室をガラッと開けた。
「あら!どうしたの?」
「軽い熱中症っぽいです」
「大変、ひとまず寝かせてあげてくれる?」
「はい」
保健室はひんやりとエアコンが効いていて心地良い。ふわりと優しくベッドにおろされ心配げに顔を覗かれた。
体調が悪くたってクラスメイトの男の子にジッと見られるのはちょっと恥ずかしくて、どこに視線を置けばいいのかわからない。
「早退するならカバンとか持ってきてやるから」
「うん」
「じゃ、俺行くな」
そう言って黒尾くんは先生に会釈する。
「あ、まって!その…ありがとう黒尾くん」
思いの外大きな声で呼び止めてしまったのが気まずくて尻窄みにお礼を言った。お礼くらいちゃんと言わなきゃなのに。
黒尾くんは気にした様子もなく片手を上げて保健室を出て行った。体調が悪いからか心臓がドキドキとうるさい。
黒尾くんの背中を見送った私は体調が良くなった後も黒尾くんを見るたびに心臓がドキドキとするようになってしまった。
それが恋だと気がつくまでそんなに時間は必要なくて、同時にその恋が叶わないと悟るのも時間はかからなかった。
あの子の存在は有名だったから。彼のそばにいる女の子といえばあの子。そんなのみんな知っている。
敵いっこない。
あの子は彼のことをよく知っている。
私なんて、名前と誕生日と部活くらいしか知らない。そんなの他のクラスメイトだって知ってること。
クラスメイトとして、静かに想いを寄せていようと、欲は出さないと決めて過ごすことにした。
だけど、恋というのは厄介なもので心は簡単に言う事を聞かない。チャンスがあれば黒尾くんに話しかけたいし、グループわけがあれば同じグループになりたいと思ってしまう。
あの子が黒尾くんと楽しそうに話していたら、モヤモヤとした黒い感情が湧き上がる。自分の醜い部分なんて知りたくなかった。
秋、私の想いとは裏腹に思いがけず黒尾くんとの接点が増えることになった。
文化祭の実行委員が足りないらしく各クラス追加の人員を出すよう求められたのだ。そんなに人必要なの?と思いつつも担任に頼まれて内申点目当てに頷いた。まさか、黒尾くんも声をかけられているなんて知らずに。
突然降って湧いた話に変な汗が出る。だけど今更断ることもできなくて、任される作業の説明を気もそぞろに実行委員長から聞いていた。
火曜と木曜の放課後だけの作業らしいけど、黒尾くんは多分部活で忙しいはず。
「黒尾くん。あの、作業私だけでもできそうだから部活に出て大丈夫だよ」
「大丈夫だって。俺にも仕事させてちょーだい」
俺と2人は嫌?と聞かれて慌てて否定する。黒尾くんは「じゃ、決まりな。よろしく」とニッと笑った。
それから自然と黒尾くんと話すことが増えた。作業の内容や、進捗、段取り、事務的なものがほとんどだったけど、作業をしながら雑談をすることも増えて私はいつの間にか黒尾くんに詳しくなっていた。
それは黒尾くんもおんなじみたいで、たまに私が好きだと言った自販機の紙パックの紅茶を買ってきてくれたりするようになった。紅茶を渡してくれる時の優しい顔がたまらなく好き。自分は特別なんだって思ってしまいそうになる。
週に2回の2人きりの時間。距離が少しずつ縮まっている気がした。
「ね、これどうかな?」
「ん?おっ、いいんじゃね」
校門に設置するアーチに飾るという花を手順書通り作成して黒尾くんに見せる。上手い上手いと褒められて少し得意げな気分になった。
「俺もどうよ」
「ふふっ、可愛い」
「だろ?ボク乙女だから可愛くできちゃうんですヨ」
戯けた物言いにクスクス笑っていると、ほら、と作った花を頭に乗せられる。
「似合う?」
「おー、可愛い可愛い」
「…ありがとう」
冗談に決まってるのに、つい可愛いという言葉に反応して変な間が空いてしまった。
ふと、影がかかった気がして顔を上げると、黒尾くんが見たことのない瞳で私を見ている。なんか、その、まるで大事なものを見るみたいな瞳。縮まる距離。
黒尾くんの手が、私の手に重なって、そして、
「黒尾?まだ終わらないの?」
ガラッと教室の扉が開いて、パッとお互い身を離す。頭の上の花がパサリと落ちた。彼女の姿を見て背筋が冷える。あの子がいるのに、私は何を考えていたんだろう。黒尾くんとどうにかなれるとでも思っていたんだろうか。
「もう終わるけど。なんかあったのか?」
「今日部活ないんでしょ?一緒に帰ろうよ」
「自主練すっから帰ってろ」
「待ってるから」
黒尾くんは、深いため息を吐いて立ち上がる。そして私に今日はもう終わろうと促し、教室の鍵を取った。
鍵は黒尾くんが返しに行ってくれたから必然的に彼女と2人になる。正直接点がないから気まずい。
「苗字さん、だよね?」
「うん」
「あのさ、勘違いするようなことされてない?」
「えっ?」
ほら、黒尾って女の子に優しいから勘違い?させちゃうんだよね、とあの子は笑う。バクバクと心臓が激しく動く。
「そんなことないよ、ほら、私と黒尾くんただのクラスメイトだし」
そういうと、あの子はそっか、と笑って黒尾くんを追いかけると言い残し去って行った。
勘違い、したかった。私のこと好きかもって。
黒尾くんの好きなタイプはロングヘア。
去っていくあの子の髪もさらさらのロングヘア。
私は癖っ毛だし、十把一絡げの容姿だし声だって特徴がない。
あの子が羨ましい。きっと彼に愛されるのはああいう子なのだ。
私は私でいたくない。こんな気持ちにもうなりたくない。
私は、あの子になりたい。