マリッジブルー


ガチャリと玄関ドアが閉まって、解放されたかのように肩の力が抜けるのを感じた。どうやら自分が思っているよりもずっと緊張していたらしい。

「行くぞ」
「うん」

彼の背を追うように右足から歩き出す。到着したときに降っていた雨はすっかり上がって、空の端っこが茜色に変わり始めていた。
雨上がりは植物のにおいが普段より濃くなる気がする。自生したものか何処かの家の庭木かはわからないけど、季節がら金木犀のにおいが強く香っていた。纏わりつく金木犀の香りを振りきるように見慣れない街並みを、彼だけを頼りに歩いて行く。知らない空、知らない空気、知らない景色。まったく知らないこの彼の故郷を私も同じ気持ちで想える様になるんだろうか。

いわゆる、プロポーズと言えるものは無かった。彼がアメリカから帰国した後、しばらくバタついていたのがやっと落ち着いて、交際期間や年齢的にも、結論を出すならそろそろかなとは思っていた。正直、まだ仕事に全力投球したいであろう彼が結婚を考えているなんてことはないと思っていた私は、「お前の親に挨拶しに行きてぇんだけど」という申し出にとても驚いてしまった。
事態をしっかり呑み込めないまま実家に連絡を入れて、約束の日に見慣れないスーツ姿の彼と連れ立って実家に行った。「手土産これでよかったか?」と珍しく心配げな様子を見せる彼に、「大丈夫だよ」と言葉をかけたのを覚えている。その日は終始どこかふわふわと地に足が付いていない心地だった。
「娘さんと結婚したいと思っています」と、私の両親に告げたその言葉を聞いて、あぁ、本当に結婚の話だったのか、と他人事のように思った。今後どういう予定か、と両親に尋ねられスラスラとこういう段取りで、いつくらいに式を挙げられたら良いと考えていると答える彼を見て目をむいた。初耳だった。そんなにちゃんと考えていたなんて、とまた驚かされる。両親はいたく彼を気に入ったようで、あれやこれやと質問してはそうかそうかと嬉しそうに頷いていた。彼のご実家にはいつご挨拶に行くのか、手土産は地元の名物が良いのではないかと母にアドバイスされて初めて、向こうの実家に行くということが現実味を帯びた。
その途端に不安になる。
私は彼のご両親に認めてもらえるのだろうか。大事な一人息子の伴侶として及第点をもらえるのだろうか。本当にこのまま結婚していいのだろうか。水が湧き出るみたいに不安が次々に溢れ出す。幸せの渦中にいるはずなのに。
思えば、付き合い始めた時も交際の申込と言える言葉はなかった。言わなくてもわかるだろ、を地で行く人だ。友達の友達くらいの関係性だった私に、あまりに寒がっていてかわいそうだとバサリと上着を被せてくれたその日から、私は一のことが知りたくてしかたないっていうのに。もう少し言葉にしてくれても良いんじゃないかと思う。だけど、寒がる私の手を握って体温を分けてくれる言葉少なな彼の武骨な優しさに、私はいつも簡単に心をときめかせてしまう。そして、一緒にいるうちにこの人が年を取っていく姿を近くで見ていたいというそれまで誰にも抱いた事の無い気持ちが芽生えた。

アメリカにいる間も、一からの連絡よりも私からの連絡がほとんどだった。それに不満を抱いた事はもちろんあるけれど、それよりも好きの気持ちがずっと勝っていた。
だけど今回は、今回だけは、もやもやとした気持ちがずっと続いている。プロポーズして、私の結婚の意思は確認しないの?と、私が一と結婚したいという確信でも得ているんだろうか。

多分私は、必要とされたい。
一のこれからの人生に私が必要なんだと言葉にしてほしい。いっちょ前にマリッジブルーめいた気持ちを感じたまま、一の実家に行く日を迎えてしまった。
縁もゆかりもない東北の地を踏むのは初めてで、ひょんなことから縁づいたこの場所を私はまだ知らない土地としか思えないでいた。しとしとと雨が降る街はよそよそしくて、まるで独りぼっちみたいな心細さで一の実家に赴く。当初の不安に反してご両親から歓待を受け、心配事のいくつかはそこで解消することができた。一の実家を後にして、来た時同様その背中を追いかける。今回は宿泊せずに帰るけれど、機会があればゆっくり観光してみたい。
一は実家を出てから何故か難しい顔をしていて、なにか気に触ることがあったのかと心配になった。

帰りの新幹線は半端な時間だったことが幸いしてかガラガラで自由席でも困らなかった。ラッキーだなと思いながら一の隣に腰をおろす。ずっと難しい顔をしていた一は席に着くなりカバンをガサガサやっている。
携帯でも探しているのかと思っていたら、手の平にリボンのついた四角い箱を乗せてズイとそれを私の目の前に差し出した。

「は、じめ?」
「開けてみろ」

まさか、これって、まさか。おそるおそる受け取ってリボンをほどき箱を開ける。中にはベルベット生地の箱。
パカッと開けてみるとキラキラと光る石のついたリングが台座にはまっていた。

「は、一さん…」
「名前。結婚しよう」

聞こえた言葉が信じられなくて瞬きを繰り返す。じわじわと一の顔が滲んできた。

「おい、泣くな」
「だってぇ…」
「手ぇ出せ」

左手を出すと、台座からリングを取った一は照れくさそうな顔をして指輪を薬指に通す。光を受けて世界一硬い鉱物がきらりと反射した。

「名前、前にエンゲージリングは要らないって言ってたろ。でもやっぱこういうのはちゃんとしときてぇなって思った」
「…嬉しい。ありがとう」
「指輪渡すとかのタイミングがねーとプロポーズのタイミングも掴めなくてよ。なぁなぁにしちまった。悪い。今後、お前のいない人生は考えられない。一緒にいてくれ」
「うん…うんっ」

コクコクと頷く。こんなところで、とか、もっとロマンチックなのがよかったとか、思わないでもないけれど、私はその言葉だけで胸がいっぱいだった。
逞しい体にギュッと抱きつくと何も言わずに抱きしめ返してくれる。人がいない時間帯で良かったと心底思った。
好き。この人が好き。言葉ひとつで簡単に心乱されるほどに。きっと、この先も不満を抱いたり不安になったりすることはあると思う。でもきっと一と一緒なら大丈夫だと思えた。
一は満足そうにわたしの指に収まったダイヤモンドのリングを見つめて「サイズが合ってよかったわ」とほっとした表情をしている。なんでも、担当してくれた店員さんにサイズがわからないと打ち明けたところ合わなかったら無料でお直しできますよ、と平均サイズを提案されたそうだ。
一は、どんな気持ちでこれを選んだのだろう。
それはきっと今後も知りようが無いことだけれど、ただ、この瞬間を、この一の表情を、私が一生忘れないであろうことだけは、確かだった。


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