スーパーハッピーブルーデー



バキッ!っと嫌な音がボヤけた視界の中でやけにハッキリと響いた。
すぐに、「やば、」「うわっ」とよく似た声がユニゾンして聞こえる。そして、そこに居合わせた皆が「あちゃー」と思っている空気も見えずともビシバシと伝わってきた。
当事者である名前は、案外冷静に「あぁ、眼鏡踏まれちゃったんだな…」と状況を分析できていた。午後の授業どうしようかな、と考える程度には落ち着いている。


思えば今日は朝からついていなかった。

朝、母親の声で目を覚ませばいつもより30分も寝過ごしていた。時間を確認して飛び起きた名前は身支度もそこそこに家を飛び出す羽目になってしまった。

当然コンタクトを入れる暇などなく、眼鏡のまま朝ご飯をかき込み、こういう時に限って荒れ狂う寝癖をどうにかすることもできず、はねる前髪をピンで押さえ、日頃校則に従って低い位置で一つに纏めている髪は、寝癖を誤魔化すために同じ位置でお団子に引っ詰めた。
先生に目をつけられない様に普段も真面目に過ごしてはいるが、いかにも真面目ちゃんな外見に仕上がったことにブルーにならざるを得ない。
しかも慌てすぎたのか、教室についた後お弁当を忘れたことに気が付き絶望した。

そういう日は嫌なことが重なるもので、予習のページを間違えていたり、教科書を忘れていたり、シャーペンの芯を切らしていたり、進路調査票を出し忘れていたことを担任に指摘されたりと、小さな嫌なことが積み重なっていく。
ブルーな午前中を過ごして、昼休みを迎える頃には、気分は底まで落ちていた。

友達に愚痴りながら購買で買ったパンを胃に詰め込み、職員室に記入済みの進路調査票を持って行こうと教室を出る。
すると、何やら廊下が騒がしい。

その日はいつもよりちょっとだけ校内が騒がしい1日だった。
10月5日は学校の有名人である双子の誕生日なのだ。
周りがきゃあきゃあと色めき立つ中、ブルーな気分真っ只中の名前は、他人の誕生日に興味を示せない。
正直それどころじゃなかった。
同じクラスの宮治の所には、朝からひっきりなしに人が訪れては彼を祝っていく。
宮くんにとっては、今日はハッピーな日なんだろうなと名前は羨ましく思っていた。

廊下に出るとてっきり気分良く祝われていると思っていた双子が何故か胸ぐらを掴み合って喧嘩していた。誕生日にまで元気だなぁと、すっかり稲荷崎高校の名物になっているそれに特に気にも留めず名前は彼らの横を通り過ぎようとした。
その瞬間、彼女は今日がついていない日なのだと忘れていた。

ドンっと、名前に双子のどちらかがぶつかる。
体格の良い人間に勢いよくぶつかられて、名前はドサッと廊下に転んでしまった。その衝撃で最近緩み気味だった眼鏡が廊下にカシャンと音を立てて落ちる。
そして続け様に、バキッ!と嫌な音がボヤけた視界の中で響いた。


「すまん!苗字さん大丈夫か?!」

声をかけてくれたのが双子のどちらなのかボヤける視界ではよくわからなかった。ど近眼の悲しいとこだなぁと名前は他人事の様に考える。なんとなく頭髪の色で治の方かなと思った。

「うん、大丈夫」
「眼鏡…、ほんまゴメン!弁償するわ!」
「え!そんなん悪いわ。そもそも買い替え時やったし、気にせんでええよ」
「いや、俺のせいやし何かお詫びさせてや」
「それどちらかと言うたら俺のせいやろ、踏んだんお「お前は引っ込んどれアホツム」
「はぁ?なんやねんクソサム」
「そ、それなら!とりあえず宮くんのどっちか職員室までついてきてくれへん?」

再び喧嘩が勃発しそうな雰囲気に、プリント先生に渡さなあかんねん。と、名前は双子の会話に割って入りつつ、目を凝らしてハンカチにメガネのパーツを拾い上げる。眼鏡はツルが見事に折れ、レンズがヒビ割れていた。これは完全に買い替えだな、とため息がもれる。

「ほな、俺がエスコートしよか」

双子のどちらかがそう言って名前に手を差し出す。おそらく侑の様だった。
ありがとう、と手を取ろうとすると、「どけ」ともう1人が割って入る。すると、侑は「ほぉん?」と面白そうな声を上げたと思うと、「そういうことかお前、貸しひとつやで」といって手を引っ込めた。
どうやらエスコート役が、治に替わったらしい。
同じクラスなので侑より話しやすくて助かると思った。

名前の手を取って立ち上がらせた治は、そのまま手を離さずに「行こか」と階段の方へ誘う。
この視界じゃ階段怖いし助かるなぁと思いつつも、同時にファンの女の子の悋気の籠った視線を感じ冷や汗が出る。だけど背に腹は変えられない。眼鏡を踏まれたシーンの目撃者は何人もいたから、事情はそれとなく広まるだろうと思うことにした。

1、2年と同じクラスの宮治とは、あくまでクラスメイトの枠を超えない付き合いしかない。必要があれば話すし、談笑することもある。たまに調理実習で作ったお菓子なんかをチラチラとみるので、育ち盛りなんだなぁと分けてやっているぐらいの関係だった。以前、「俺、苗字さんと話しとると眠くなんねん」と言われたことがある。退屈な奴という意味だろうか、と名前はちょっとショックだった。そりゃ、特筆すべきことのない人間だろうけどと少し拗ねた心が顔を出したが、日頃イケメンだなぁと双子の侑共々目の保養にさせてもらっているので良しとした。


職員室に着くと、治はテキパキと担任に事の仔細を説明してくれ、自分のせいだから午後は名前のサポートをするとキッパリ言った。担任は二つ返事で承諾し、治は今日だけ名前の隣に移動する運びとなった。その姿に彼女は、宮くんって責任感強いんだな、と感心する。無事に進路調査票も提出し、「苗字は今日厄日やなぁ。お、宮は誕生日やったな、おめでとう」と笑う担任に労いとお祝いの飴をもらった2人は揃って職員室を出た。

「宮くん、今日お誕生日やったねおめでとう」
「おん、ありがとう。その、苗字さん、眼鏡どうすんの?買いにいくん?」
「ん、放課後行こかなぁとは思てるけど」
「ほんま?そんなら俺一緒に行くわ」
「えっ、ええよ。宮くん部活あるやろ」
「今日休みやねん。俺一緒行ったらあかん?」

ボヤけた視界で、治の表情はハッキリわからないが、しょぼんとした空気は伝わった。

「あかんくないねんけど、なんか悪いわ」
「悪くないて。俺のせいやし、見え辛い中1人で行くん危ないで」
「そ、そうやね…」

結局、治の勢いに押される形で放課後一緒に駅ビルへ眼鏡を買いに行くことになってしまった。
午後の授業は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる治のおかげで、不便さはありつつも無事に過ごすことができた。
黒板が見えないだろうから、と貸してくれたノートの文字が、できるだけ綺麗な字で書こうとした様子が伺い知れるようなかしこまった佇まいで、名前はつい微笑んでしまう。

「なんか変なとこあった…?」
「ううん、ほんまにありがとう宮くん」

クスクスと笑いながら感謝を伝えると、「苗字さんやっと笑ったなぁ」と治はどこか嬉しそうだった。確かに、今日は朝から浮かない顔ばかりだった気がする。宮くんのおかげやで、と言えば、そうか?と返された。その表情はわからなかったが声色は穏やかだった。
ノートは家に持ち帰って写して良いと言うので、お言葉に甘えて名前は治のノートを鞄に入れた。このノートを何人の女の子が羨ましがるだろう、とまるで貴重品を入れているような気分になる。無くさないようにしなければ。

放課後、片割れになにやら用事があるらしい治から、少し待っているように告げられた名前は大人しく自分の席に座っていた。友達からは、「治くんとのお出かけどうやったかちゃんと報告してや!」と別れ際に至極楽しそうに言われたが、報告っていったいなにを報告するの?何話したかとか?と1人疑問符を浮かべる。

宮くんまだかなぁ?と目を凝らして教室の入り口を見るも、姿はまだ見えそうになかった。


「ほら、あの子やで」
「あれが眼鏡踏まれた子?」
「うん。治に世話焼かれてええなぁ」
「えー、めっちゃ普通やん。わざとぶつかったんちゃう?」
「だとしたら相当あざといなぁ」
「ほんまそれ。治優しいから責任感じとるんやろ」

どこか心細く治を待っていると、クスクスと心ない言葉と共に笑い声が耳に入り込んでくる。姿はよく見えずとも悪意は伝わってきた。
うらやましいんなら、あんたらも眼鏡踏まれたらええんや!と名前は心の中で悪態をつく。悲しいかな、直接言い返す度胸は無かった。

「苗字さん?」
「わっ、」
「待たせてごめん。行こか」
「う、うん」
「どうかしたん」
「な、なんでもない」

急に治の顔が視界に現れて思わず仰け反る。イケメンの急接近は心臓に悪かった。
ドキドキを誤魔化すように急いで立ち上がると、さも当然の様に治がその手を取る。昼休みには気にもならなかった包み込むような手の大きさや体温を感じてしまって、ドキドキが余計ひどくなったように感じた。
訪れた眼鏡店で、治は物珍しそうにしながらも本人より積極的に眼鏡選びに勤しんでいた。治にいくつか試着をさせられ、その中の1つをよく似合うと強く勧められたので、まぁいいか、と名前は治が選んだフレームで眼鏡を作ることにした。
空いていたこともあってすぐ眼鏡を受け取ることができ、完成した眼鏡をかける名前に「ええなぁ、よう似合っとる」と何故か治が満足げだった。



「苗字さん、タピオカ飲まへん?」
「タピオカ?ええけど…」
「今日のお詫びにおごらせてや」
「えぇ!むしろ誕生日なんやから私がごちそうするべきとちゃう?」
「眼鏡代出させてくれんかったし、そんくらいさせてくれ」

そう言われるとそれ以上強く言うことは出来ず、ありがとうとお礼を言うしかなかった。
眼鏡を手に入れたと言うのに、未だ握られたままの手に気を取られていたのもある。もう手を引く必要はないと言った名前に、はぐれたらいけないから、と治は手を放そうとしなかった。その繋がれたままの手を引かれレジで注文するように促される。
眼鏡を買ってバイバイじゃないの?と思わぬ展開に彼女は目を白黒させた。


イートインスペースでタピオカを飲む治は嬉しそうで、本当に食べるのが好きなんだなぁとつられて頬が緩む。

「なぁ、そっちも一口くれへん?」
「え、私の?」
「おん」

その申し出に名前はどうしたものかと迷った。つまりそれは、彼女が口を付けたストローに治も口を付けるということだ。わたわたする名前にしびれを切らしたのか、治は名前の口元にズイと自分のタピオカを差し出す。圧に押されておずおずと口をつけるとミルクティーの甘さともちっとしたタピオカが口に滑り込んできた。美味しいはずなのに、間接キスのドキドキのせいで味がぼんやりとしかわからない。治はこういう事に慣れているんだろうか。
そっと名前のタピオカを差し出せば、治は躊躇することなくストローに口をつけた。吸う力の強さにカップがベコッと凹んで驚いてしまう。

「ジャスミンティーもさっぱりして美味い」
「さ、さっぱりの方が好きやねん。タピオカ自体も甘いから」

ほぉか、と治は自分のストローを吸う。
その光景に、名前はまたザワザワと胸が騒いだ。

「宮くん、早よ帰らんでええの?誕生日やろ?」

家族でお祝いするのでは、とそう聞けば「侑もどっか寄ってくるらしいし、大丈夫やで」と返される。そして続けて「その宮くんてのやめへん?」と言われた。

「俺か侑かわからへんやん」
「確かにそうやね」
「名前で呼んだらええよ」
「治くんと侑くんて?」
「アイツは宮くんでええ」
「えっ、なんで」
「なぁ俺も名前で呼んでええ?」

頬杖をついてこちらを伺う治は、自分の顔面の使い所を熟知しているように思えた。イケメンの流し目に、名前は思わず「うん」と答える。答えたそばから「名前」と治が微笑むものだから、赤くなる頬を誤魔化すようにタピオカをグッと吸い込んだ。
タピオカのお店を出て、さあ帰ろう、このお出かけもやっと終わりだと思った名前とは違い、治は何かをじっと見たかと思うと「なぁ、あれ見て」と彼女の手を引いた。

「あれ撮りたい」
「プリクラ?部活の子と撮ったりせえへんの?」
「男だけやと入られへんの知らん?」
「あ!せや、男の子だけじゃだめやったね」
「な、あかん?」
「でも、私と撮っても楽しくないやろ」
「ええやん、俺誕生日やからお願い」

そういって眉を下げられると、なんだかお願いを聞き入れようとしない自分が悪いように感じる。
今日眼鏡だし、引っ詰め髪だし、あんまり写りたくないなとしぶる名前に、「あかん?」と治は顔を覗き込んでくる。至近距離で見るイケメンは眩しかった。やはり自分の顔面の使い所をわかっている気がする。

「誕生日やもんね、ええよ」

誕生日であることを強調されてしまうと聞き入れなければいけない気がした。
名前がOKすると、治は「よっしゃ、名前行こ!」と彼女の手をぐいと引いた。


身長差のある2人では、同じ画角に収まるのに思ったより引っ付かなくてはいけなくて、しまったとは思うもののもう逃げ場は無かった。
治のキラキラした顔の横に並ぶのは気が引けたが、もうどうせなら楽しんでやろうと半ばヤケクソ気味だった。
最後の一枚になった時、シンプルにピースをする名前に対して、シャッターが下りる直前、画面の中の治が彼女の方を向いた。何を、と思った次の瞬間、シャッター音と同時に頬にふに、と何かが触れる。
落書きスペースに移動するように促す音声が流れる中、名前は頬を押さえてぽかんと治を見上げた。

「ほら、移動するで」
「う、うん」

治に腕を引かれ落書きスペースに入れば、そこに写る画像にはやはり、治の唇が名前の頬に触れている物がある。気のせいじゃ無かったと彼女は治の横顔を見遣る。視線に気がついた治は照れ臭そうに「ついはしゃいでもうた」と言った。
はしゃいでクラスメイトの頬に口付けるのか、と名前はショックを受けた。
同時にそんな風に軽く見られていたのかと悲しくなる。

「…そういうの、彼女とした方がええよ」
「彼女おらんて知っとるやろ」

確かに、今現在宮兄弟に彼女がいないのは学校では有名な話だった。
治はどこか鼻歌でも歌い出しそうな調子で落書きをしている。そんな姿を見て名前は心がもやもやして堪らなかった。

「なら、好きな子としたがええよ」
「…したで?」
「え?」

画面を見ていた治が名前の方を向く。

「俺な、今日誕生日で、気になってる子の眼鏡壊して、その子の眼鏡選んで、タピオカ一緒に飲んで、ほんでそれ一口交換して、プリクラ撮って、はしゃいでキスしてしもて、今プリクラに落書きしとる」

え、と声にする前に、プリクラ機の音声が落書き時間の終了を告げる。
出てきた写真は殆どが手付かずでそのままだったが、治が名前の頬にキスする写真だけ、「好きです付き合ってください」と書かれていた。

「これ、あの、え、治くん?」
「そのまんまや」

返事は明日でもええよ、と治はまた彼女の手を取る。
なんでそんないつも通りでいられるのか名前には分からなかった。ただ間違いなく治は機嫌が良いようだった。
そのまま駅で「ほな、また明日」と別れて電車に揺られる。心臓がずっと動悸を起こしたみたいに騒がしい。帰宅しても頭の中がまだぐちゃぐちゃで、母親にお弁当を忘れたことを叱られてもぼーっとしてしまい、余計に怒られてしまった。なおかつ名前に非がないとはいえ眼鏡の出費に関しても小言を言われる始末だ。やはり今日はついていない一日だったのだ。全部明日には夢だったって展開にならないだろうか、と名前は湯船につかりながらぼんやりと思う。
だけど、通学カバンに入っていた治のノートとプリクラが今日の出来事は夢ではないと確かに告げていた。


翌日、治のせいでよく眠れなかった名前は、また10分ほど寝坊してしまった。
まぁ昨日よりはましかと、なんとなくコンタクトはやめて治に選んでもらった眼鏡をかける。
予習も宿題も確認したし、お弁当もばっちりだ。
今日は普通に過ごせそうだとちょっと気持ちが上向きになった。
ただ、治とどんな顔をして会えばいいのかだけが分からない。返事は明日でいいって昨日言ってたけど、絶対今日じゃなきゃいけないんだろうか。このままなぁなぁで無かった事にできないだろうかと教室で頭を悩ませていると、角名と治が朝練を終えて教室へ入ってくるのが見えた。
パチリと、視線が交差する。

「名前、おはよう。やっぱ俺が選んだ眼鏡正解やな」

少し離れた距離から、教室に通る声量で治は彼女に朝の挨拶をした。

それだけで、教室をざわめかせるには十分だった。

突然名前呼びに変わっていること、眼鏡を選んだという言葉、名前に向けた治の笑顔。
それらが如実に「何かあった」と周りに教えていた。

「ちょっと名前!」と友達は興奮気味に事情を聞こうと名前の肩を揺さぶる。
クラスメイトもなんだなんだと名前たちを見る。数人の女子は名前に鋭い視線を送っていた。
角名にいたっては訳知り顔で携帯カメラを名前に向けている。
そして、名前を見つめる治の視線が、「なぁなぁにはさせへんで」と言っているように感じた。
そんな教室の喧騒に、あぁ、今日もついてない日に違いないと名前は天を仰いだのだった。


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