君が恋に落ちるまで


「俺に好きな人ができるまでだったらいいよ」

彼にそう言われた時からずっと、私は「その日」が来るのを恐れている。



その笑顔に、恋をした。

大学3年生の後期、友達が誰一人一緒に履修してくれなかった日本史のクラスで彼に出会った。
同じ学部の男の子だとは一方的に知っていた。背が高いし、顔も綺麗でかしましい女子トークに名前が上ることも少なくない。
だけど、ただでさえ人数の多い大学で、履修も重なっていなかったから全くもって関わりなんてなかった。
それがここにきて急に学籍番号で組まされたペアワークの相手として彼が現れたのだからとても驚いた。経済学部の王子だ!と恐れ慄いたが、その気持ちはすぐに、後で友達に自慢しよう!という野次馬的な気持ちに取って変わる。

「国見英。よろしく」

愛想のかけらもない自己紹介だったけど、彼のクールさは聞き及んでいたので特に気にはならなかった。
こちらも、定型文の自己紹介をすれば「知ってる」と、興味なさそうに返される。私を知っていたことに驚いたが、まぁ同じ学部だし、と特に深く突っ込まなかった。
初めて聞いた下の名前は、"英"と書いて"あきら"と読むらしい。綺麗な名前だと思ったので、そのまま素直に伝えたら「べつに」と3文字で切り捨てられた。うーん、仲良くなれる気がしない。
そんな不安たっぷりのスタートだったけど、ペアワークのお題は「自分が江戸時代のなかで面白いと思うところを調べて10分間以内でペアの子に話しなさい」というものだったのでほぼ個人作業だな、とホッとした。

翌週、調べてきたことをなんとか要約して国見くんに話した。
私が選んだのは、「江戸時代来日した外国人の記録を通して見た日本」だ。最初こそ国見くんはつまらなそうな顔をしていたけど、私の渾身の面白ポイントを披露したところ「ははっ」と笑い声を上げる。
イケメンの笑顔の破壊力たるや。
キューピッドはそのタイミングを見計らって私の心臓に矢を放ったらしい。キュン!と心臓が収縮する感覚。そして、熱くなる顔。あれ、これ、まさか、恋?
国見くんの顔が直視できない。
自分の膝を見つめる私に、国見くんは「着眼点、面白いと思う」と言ってくれた。どうしようすごく嬉しい。
国見くんは、藩札をメインテーマにその多様性や落とし穴を上手くまとめて話してくれた。
彼の発表を絶賛する私に「そんなに褒めなくても…」と若干引きながら、国見くんは少し微笑んでいた。微笑んだ顔もとても素敵だった。

それからの私はというと、キャンパスで国見くんに会えば何かと声をかけ、お昼時にはランチに誘い、課題の相談と称しては彼に話しかけた。
明らかに恋する乙女だ。
友達には「あんたがまさか王子に惚れるとは思わなかった」と驚かれた。話題に上っても興味なさげだったじゃん、と。
笑顔に惚れちゃったというと、「モテない男子みたい」とバッサリ切られた。酷くないか。
そして、年末思い余って彼に告白しあっさりとフラれた。
それでも諦められなかった。なんでそんなに好きなのかはわからなかったけど、ここで諦めちゃダメな気がした。
進級した4年生の春。2回目の告白。あえなく惨敗。この頃はもう国見くんも私に遠慮などなく、扱いはだいぶ雑だった。「やだ」ってフラれたし。
それでも、私は国見くんが好きだった。
気怠げな雰囲気も、少しキツい言動も、顔が綺麗と言われることがあんまり好きじゃないところも、そして「ばーか」って笑う顔も。

そして夏、3度目の告白。

「苗字も大概しつこいね」
「…ごめん」
「はぁ…いいよ」
「え?」
「付き合うんだろ?」
「え!いいの?!」
「俺に好きな人ができるまでだったらいいよ」

そう言って、国見くんはシニカルに笑う。
一方の私はブンブンと首がちぎれそうな勢いで彼の言葉に頷いたのだった。

友達には「そんなの良くない!」と大反対されたが、期間限定でも彼女という特別な存在として側にいられることが嬉しかった。
浮かれてニコニコと緩んだ顔の私に、国見くんは「顔緩みすぎだろ」と額をペシっと叩く。それすらも嬉しかった。

国見くんが、英くんにかわり、苗字が名前に変わった頃、少しだけ私たちの関係も近づいた。

初秋、英くんと一緒に行きたい!と渋る彼を誘ってコーヒーチェーンの新作を飲みに行った。
店内は人が多くて座れなかったからテイクアウトして近くの公園で飲むことになり、英くんはベンチに座って無言でコーヒーを啜る。私はその横でドリンクの写真を撮って、ストローに口をつけた。

「ん、甘い!」
「そんなの見ればわかるだろ」
「甘いのは分かってもどのくらい甘いかは飲まないとわかんないでしょ。英くんだって甘いの好きじゃん!」
「そこまでの甘さは求めてない。そんなホイップ盛り盛りの飲んだら豚になるぞ」
「英くんの意地悪…」

美味しいのになぁ、とチューチュー吸っていると、ふと英くんが動く気配がした。
なんだろうと、ストローから口を離してそちらを見ると至近距離に英くんの顔。そして、唇に柔らかい感触。

「…あっま」

ゲェ、という表情で英くんは舌を出す。
私は、キスされたことに驚きすぎてただただ英くんの顔を見ていた。
付き合ってはいるけれど、英くんは私を好きじゃないし、手を繋ぐとか、キスとか、そういうスキンシップ的なものは諦めていた。それが急に距離を詰められたものだから思考がストップしてしまう。

「なにその顔」
「え、いや、そのビックリして…」
「へぇ」
「そういうことするんだなって」
「お前俺のことなんだと思ってるわけ」
「かれ…しです」
「わかってんじゃねえか」

そう言って微笑んだ英くんに、あれ?私が思うよりちゃんとカップルぽいことしてくれるの?とまた驚いてしまう。
そして、心の隅っこで「もう少し英くんと一緒にいられますように」と願ってしまった。

いつ来るかわからないさよならを思って。


大学を卒業して、英くんは銀行の総合職として、私はメーカーの事務職として就職した。覚えることはたくさんあったけど、比較的のんびりした職場だったからなんとかやっていけている。英くんは、資格の勉強やらオペレーションやらと私より覚えることがたくさんで、部屋に行くたびに本や資料が増えていく。大変そうだなぁと思うけど、私にできることは休日にお部屋を片付けて、英くんが勉強してる間に洗濯してご飯を作ることくらい。通い妻?家政婦?どちらだとしても、英くんが少しでも楽になるなら何でも良かった。

台所から英くんの様子を伺うと、小難しそうな教材を見ながら「根抵当ってなんだよ。なんで根っこが生えるんだよ」とぶつぶつ怒っていた。文句を言う顔も素敵だなぁと思うあたり私も大概どうかしている。

「英くん。そろそろご飯できるよ」
「ん、わかった」

そう声をかけると、英くんは読んでいた教材を閉じる。テーブルの上を片付け始めたのを確認して、器におかずを盛り付けた。片付けが終わったのか、後ろから私の頭に顎を置いて手元をのぞき込む英くんは「うまそう」と私を抱えるようにお腹の前で手を組んだ。そんな時いつも、愛されていると錯覚しそうになる。
するりと、英くんの手が下腹部を意味深に撫でる。

「名前、今日泊まっていくんだよな?」

いつもより少し低いその声に、体が期待感に震えた。

英くんと初めてそうなった時、彼はひどく酔っぱらっていた。高校時代の部活仲間との飲み会で先輩に随分飲まされたらしい。
ベッドに押し倒されて英くん越しに天井が見えた時、夢でも見ているのかと思ってほっぺをギュッと抓ってしまった。

「何してんの」
「夢かなって」
「ばーか」

英くんは優しく笑うと、口づけながら私の服に手をかけた。
ある意味夢だと思った。アルコールにのまれた英くんが見せた夢。
たった1度だけかもしれないけど、きっと一生忘れられない1度。
だけど、そんな予想に反して体を重ねることはキスと同じく私たちの当たり前になった。

ちゃんと恋人してるんだね、と交際当初大反対していた友達も1年以上続いている私たちを見て意見を変え始めていた。一方的な好意で成り立っている私たちは恋人と呼んでいいんだろうか。という疑問が頭をよぎる。
でも、そのことを考えたって、一度も答えが出たことなんてない。
しっとりと汗ばんだ体をシーツに横たえる英くんはスヤスヤと穏やかな寝息を立てている。
その背中を見ながら、何故だか泣いてしまった。


年度の途中で窓口から渉外へと配置転換されたことで、英くんは忙しさを増した。先輩について取引先を接待したり休日出勤をしたり。少しずつ2人のリズムがずれていく。しょうがないこととはわかっていても、寂しさは拭えなかった。
ローンの相談会があるからと、英くんが休日出勤をした日曜日。その日はやることもなくて、服でも見ようかと駅前をブラブラしていた。
なんでそっちが気になったのかはわからない。だけど、何かに誘われるように車道の向こう側の歩道に視線をやる。

偶然か必然か。そこには英くんがいた。
そして横には、同僚だろうか、英くんの務める銀行の制服を着た女の子が歩いていた。時間的にランチにでも繰り出す所なのかもしれない。おもむろに、女の子がショーウィンドウを指さして何事か話した。すると英くんは、少し照れたような顔で何か言い返して笑う。そして、それを受けた女の子も楽しそうに英くんの二の腕を叩いた。
ショーウィンドウにはウェディングドレス。
ブライダルサロンの前で楽しそうな二人は、まるで恋人同士のようだった。

頭をがつんと殴られたような衝撃。

私はどこか慢心していたのだ。頻繁に笑顔を見せる方じゃない彼が私の前ではよく笑ってくれる事に自信を得ていた。英くんはいつか私を好きになってくれると。
そして今、その慢心も打ち砕かれた。英くんが他の女性の前であんな風に笑うなんて。
分かっていたはずなのに。
「好きな人」の登場でこの関係はいつか終わるんだって。
それ以上2人の姿を見ていられなくて、その場で泣き出しそうなのをぐっと堪え、2人に背を向けて逃げるように駆け出した。

英くんは、その日以降も特に変わった様子を見せなかった。
気が向いた時に私を抱きしめ、キスをし、体を重ねる。肌に馴染んだ毛布を手放し難く思うように、私のことも手放し難く思ってるんだろうか。
別れを告げられるとばかり思い、戦々恐々としていた私は少し拍子抜けしてしまう。

だけど第二波はすぐに訪れた。
お風呂上がりに大きめのクッションに座ってスキンケアに勤しむのが夜の私の日課だった。このクッションは英くんのお気に入りで、うちに来ると必ず占領されてしまう。英くん用でもう一個買うかな、なんて考えていると携帯が着信を告げた。画面を見れば大学時代の友人の名前が表示されていた。
電話なんていつぶりだろう、と画面をタップして携帯を耳に当てると懐かしい声がする。

「名前、急にごめん。えっと、元気かなって思って」
「うん、元気だよ」

当たり障りない挨拶、お互いの近況を話した所で、電話の向こうで何か言いづらそうにしている空気を感じた。ハッキリと意見を言うタイプだから珍しい。

「あのさ…、名前、国見くんと別れたりしてないよね?」
「別れては、ない…かな」
「そうなんだ!ならいいのごめん。変なこと聞いて」
「もしかして…何か見たの?」

思い当たる節はあった。

「いや、その…」
「大丈夫だから、教えて」
「……その、ね、駅ビルの、ジュエリーショップで国見くんが女の子と指輪見てて、私てっきり名前だと思って声かけようとしたら知らない女の子で……好きな人ができるまでって話聞いてたから、まさかと思って」

名前が泣いてるかもしれない。そう思ったらいてもたってもいられなかった。と友達は言う。


「そっかぁ」
「別れてないって聞いて安心した。早とちりしてごめん」
「そうとも言えないんだよね」
「え…」
「多分、好きな人なんじゃないかな」

私も見たの。女の子と一緒にいる所。と言えば彼女は嘘でしょ。とショックを受けた。

「私、名前が付き合い始めた時国見くんのこといけすかないやつって思った。けど、名前が幸せならいいって思ってた。カップルらしく過ごしてるとこ見て、国見くんも名前のこと好きになったんだって信じてた」

でもこんなのはあんまりだと電話の向こうで彼女は泣いた。
そんな彼女をなだめて、ありがとうと言って電話を切る。
私の幸せを願ってくれる友達がいて、幸せ者だと思えた。

もう直ぐ付き合って2年目の記念日が来る。
そこがきっと、サヨナラのタイミングだろうなと真っ暗になった携帯を見てギュッと目を閉じた。



2年目の記念日は、初めてのデートで行った場所に行きたいと言った。英くんは特に不思議がる様子もなく二つ返事で了承してくれた。
お気に入りの服を着て、英くんが褒めてくれたメイクをして待ち合わせ場所に行く。英くんは先についてたようで、いつも通り無気力そうに立っていた。あれで銀行員って言っても信じて貰えないんじゃないかな。背が高いからか、Tシャツに7部丈のパンツというシンプルな格好が様になっている。

「英くんお待たせ」
「いや…。それつけてんの」
「うん」

英くんが言うのは誕生日にくれたネックレスのことだ。シンプルだけど上品なデザインで気に入っている。渡された時は、英くんに「大袈裟」と言われるくらい感激してしまった。

「いんじゃね」
「…ありがと」

褒められてちょっと照れてしまった。
丁度初めてのデートで見た映画の新作が公開されていたので、それを見ようと映画館に来た。前と同じく、英くんがチケットを買ってくれていた。お金はもちろん受け取ってくれない。前作を見た時は私が感動して泣いてしまい、グズグズの顔を見て「不細工」と笑われたっけ。いろんな思い出がフラッシュバックする。懐かしい。

映画を見てる間、当たり前のように英くんは私の手を握っていた。それも、初めてのデートと同じだった。

カフェで遅めのランチを食べて、それからショッピング。
生き生きと英くんの服を選ぶ私に「自分の見ろよ」と英くんはちょっと呆れていた。
そうは言うけど、私は私で英くんが「これ、どう。着てみれば」と言ったスカートを買った。これを見る度、英くんのことを思い出しそうだ。

日が傾いてきた頃、城趾から沈んでいく夕日を眺める。
少し沈黙の後、私は口を開いた。

「英くん」
「なに」
「あのね、今まで私のわがままに付き合ってくれて本当にありがとう」
「…急になんだよ」
「だからね、もう終わりにしよう」

そう告げると、英くんの眉間にグッとシワが寄った。

「何で…俺がフラれなきゃなんねぇの」
「共通の友達には、私が振られたっていうから」

大丈夫、と言うけど、英くんは納得してない顔をしている。

「…好きな奴でもできたのか」

その問いかけに無言で首を横に振った。

「じゃあ何。お前、そんな簡単に俺のこと諦められるのかよ」
「…時間が経てば何とかなるよ」
「名前とって俺は、時間が経てば忘れられるくらいの存在だったわけ?」
「っ、」

そんなわけない。きっと一生忘れない。
こんなに好きになった人は後にも先にもいない。
ぶっきら棒なようで優しいところも、無気力そうなのに仕事に一生懸命なところも、美味しいもの食べた時一瞬嬉しそうな顔するところも、私の名前を呼ぶその声も、全部全部大好きだ。


言葉に詰まった私を見て、英くんは「別れたい理由。ちゃんと説明しろよ」と詰め寄る。こんなにすんなり別れてくれないとは思ってもみなかった。

「…好きな人、できたんでしょ」
「はぁ?」

英くんは意味がわからないと言う顔で私を見る。

「好きな人ができるまでって約束だったし、英くんが何も言わないから、私っ」

そこまで言ったところでまた言葉が詰まってしまった。
油断すると泣きそうだ。

「好きな人なんていない」
「え、」
「何勘違いしてんのか知らねぇけど」
「でも、女の子とブライダルサロンの前にいたの見たし。友達だって女の子と指輪見てたって言ってて」
「お前なんでそんな最悪なとこばっか押さえてんの」

はぁ、とため息を吐いた英くんは、手で顔を覆う。

「あれは!ただの職場の先輩!既婚者!ブライダルサロンは「今の彼女と結婚するの?」って揶揄われてただけだし、指輪見てたのは、その」

普段見ない勢いでそこまで言い切った英くんは、少し口籠って視線を彷徨わせる。そして、「あーもう!」と鞄をガサガサ漁って何かを取り出した。そして、小さなケースからきらりと光る何かを手に取った。

「手ぇ貸して」
「わっ、」

右手を掴まれてきらりと光る輪っかが薬指に通される。光を受けて輝くそれは、間違いなく指輪だった。

「それを一緒に選んでもらってた」

ブスッとした顔で言われたセリフがとても信じられなかった。

「2年目の記念。ジルコニアだけど」
「英くん…」
「最初にあんなこと言った俺も悪いけど、俺がずっと好きでもないやつと付き合い続けると思ってんの?」
「…振るのがめんどくさいのかなって」
「ほんとお前ばか」


んなわけないじゃん。と英くんは呆れ顔だ。

「3回目告白される前くらいには好きになってた。でもなんか2回もフッたくせに今更好きとか言えなくてあんな言い方した。…悪い」

まさか、2年も信じてると思わなかった。とバツが悪そうに視線を落とす。

「…信じてたよ。いつかサヨナラするって」
「しない」
「え?」
「しないって言ったんだよ」

そのジルコニア、ちゃんとダイヤにする。と英くんは言う。

「別れるとか言うなよ」
「…うん」
「名前。こっち見て」

促されるままに英くんの顔を見る。

「好き」

真剣な瞳だった。
ポロリ涙が溢れ出す。夢でも見てるんだろうか。そんな私に指輪の感触が現実だと告げる。英くんは泣き始めた私の涙を優しく指で拭ってくれた。

「俺に好きな人ができるまでじゃなくて、俺が死ぬまで一緒にいてよ」
「….死ぬのは、英くんより先がいいな」

看取るより看取られたい、と泣きながら言えば、「お前ってほんとばか」と、嬉しそうな笑顔。

「俺は名前に看取られたい」

そう言った英くんは、ギュッと私を抱きしめて「どっちが長生きすんだろうな」と面白そうに笑った。私もその背中に腕を回して「2人で確かめよう」と返す。
英くんは私が恋に落ちた笑顔で「そうだな」と笑い、私を優しい眼差しで見つめたのだった。


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