大好きだよばか
あの日からあっという間に一週間が経った。

どんな辛いことがあっても人は意外と生きていけるし笑うこともできるらしい。あれだけ泣くと目もそれなりに腫れるという経験は、今後に活かせそうもない。
食事は変わらず取れるけれど、食べる量が減った。恋によって身が細る。そんな言葉があったなと鏡を見て思った。
でもきっと、枯れた大地に僅かな水が湧き出て大きな泉になっていくように、少しずつ心も体も元に戻っていくんだろう。
あの日から今日まで、明暗から電話やメッセージが何度か来たけれど、反応を返すことはできなかった。明暗だって暇じゃない。オフシーズンも何かとバレー関係の仕事があるからきっとその内連絡も途切れるはずだと思った。「会って話したい」というメッセージに心は揺れたけれど。自分を奮い立たせてメッセージを削除した。もう話すことなんてない。

「少し痩せたんじゃない?」
「ん、少しね」

痩せた理由を知らない同僚は綺麗になったと褒めてくれる。喜んでいいのか微妙なところだけど、ひとまず良しとしておこう。

「ねぇ、名前聞いた?」
「なにを?」
「会社の前に、背の高いわりとイケメンな人が立ってるらしいよ」

楽しそうな同僚からもたらされたのは、刺激の少ない就業時間にもってこいのネタだった。

「誰かの彼氏かな?」

もうすぐ定時だもんね、と彼女は笑う。帰りにちょっと見てみようよと言う彼女は野次馬する気まんまんで、その姿に可笑しくなって笑ってしまった。しかし、わりとイケメンって表現が少し引っかかる。イケメンって断言できない何かがあるんだろうか。私も何だか気になってしまい、同僚と定時あがりの約束をしてしまった。人のこと野次馬とか言えない。
定時を迎えるなりパソコンの電源を落としてロッカーへ向かう。着替えを終えて他愛もない会話をしながら同僚と会社を出た。
聞いていた通り、会社の前には背の高い男性がいた。なるほど地面を睨むみたいに難しい顔をしているから、わりとイケメンって微妙な評価をされていたわけだ。にこやかにしてればイケメンって言われるだろうに。

「誰の彼氏だろ」

となりを歩く同僚はちらちら観察しながら面白そうに囁いてくる。残念ながら誰の彼氏でもない。

こんなところで何してるの明暗。

心臓が締め付けられたみたいに痛む。相変わらず地面を睨むみたいにしている明暗は、幸いにも私には気づいていなかった。早く立ち去ろうと歩くスピードを上げた時、私に置いて行かれそうになった同僚が「名前待って」と声を上げた。
弾かれたように明暗の顔が上がる。

「あっ、」

そして私に駆け寄り腕を掴んだ。

「… 名前」
「え、えっ!?」
「あ〜…、ごめん先に帰ってて」

同僚はビックリ顔で私と明暗を見ていた。そして「えと、じゃあ、先に帰るね?」と心配そうに立ち去っていく。これは月曜質問攻めの予感。

「…なに」
「いや、その、」
「腕、離して痛い」
「っ、すまん」

明暗が腕を放し沈黙が落ちる。

「私は、話すことないから」

そういって明暗に背を向け歩き出す。少し歩いて、明暗が私の斜め後ろを付いて来ている事に気がついた。なんだその亭主関白な夫に付き従う妻みたいな距離感。何か言いたげに、でも何も言わない背後霊は電車に乗って、私と一緒に最寄り駅で降りた。
駅を出たところでいい加減我慢ならなくなって声を上げる。

「なんの用なのストーカー」
「俺は、ストーカーするつもりとちゃうくて、こうでもせんとお前と話せんって、思て、その、すまん」
「何に謝ってるの」
「…先週、試すようなことして、傷つけた」
「もういいよ」

雨に濡れた子犬みたいな雰囲気の明暗にじゃあね、と告げ歩き出すと、慌てて彼が付いてくる。

「まだ話終わってへんて!」
「私は終わった」
「名前!」
「…なに」

冷たくしようとしても、名前を呼ばれると足を止めてしまう。惚れた弱み。

「その、俺が先週あいつらにお前のこと話した理由なんやけど」
「…うん」

今更それを説明してどうする気なんだろう。

「相談、したかったんや」
「相談?」

明暗はまるで迷子みたいな表情で不安そうに話し始めた。

「お前に彼氏がおるかもしれん、結婚するんかもしれんって、わかった時、ショックやった。実際彼氏の姿見て初めて、もう名前に会えん可能性を考えた。そん時の感情は他の友達が結婚した時とは違うモンやった」

それがいったいなんなのかチームメイトに相談したのだという。

「俺の人生に関わって、その後離れてった奴はたくさんおる。そういうもんやし、それでええと思てた」

ずっと関係が続くってあんまり無いしな、と明暗は耳の後ろあたりを掻いた。

「でも、名前が俺の人生からおらんくなるのは想像できん」

真っ直ぐ私の目を見た明暗は力強くそう言い切った。

「お前がわからんって言った時のあの顔、見たことあんねん。高校で、彼女出来たって言った時、一瞬あの顔しとったなってやっと思い出したわ。あん時は浮かれとって気にも留めへんかったけど、今まで何回、どんだけ傷つけてきたんやろって思った」

明暗の言う“あの顔“とはきっと傷ついた顔の事だろう。
高校の時、まだ上手く友達の仮面を被れなくて素直に傷ついた顔をしてしまった。それからはもうそんな失態を犯さないように必死だったけど、先週は流石に取り繕えてなかったみたいだ。
往来で立ち止まる私たちの横をこちらのことなんて気にも留めず幾人もの人が通り過ぎていく。なのに、時間の流れがやけにゆっくりに感じた。まるで明暗だけにピントが合ってるみたいに、他の景色が目に入らない。

「俺なりに、この気持ちと向き合った結果なんやけど」

明暗がボディバッグから折りたたまれた紙を取り出して私に差し出す。なんでここで手紙?と疑問に思いながら受け取った。開くよう促されて少しシワのよった紙を開く。

「これ…」

紙面を彩るりんご3個分の体重で赤いリボンをしたねこちゃん。あの雑誌に付いていた付録。記入欄の片方は「明暗修吾」の名前が書いてある。状況が飲み込めなくて婚姻届と明暗の顔を交互に見る。

「え、なんで、これ」
「名前頼む!彼氏と別れて俺と結婚してくれ!!」

幻聴だと思った。目の前の明暗は試合前の挨拶みたいに頭を下げて私の返事を待っている。
古典的にほっぺをつねってみる。痛い。これは、都合の良い夢じゃない。全身の血が沸騰したみたいだった。顔も体も熱くて仕方ない。
明暗が私に求婚している。その事実に全身の細胞が戦慄く。
深呼吸をひとつして一歩明暗に近づいた。

「あれね、彼氏じゃないの。従兄。あの日伯父の還暦祝いがあったから迎えに来てくれてただけ」
「はぁ?!おま、じゃあ」

明暗が勢いよく顔を上げる。

「うん彼氏いないよ」

はぁ〜と力が抜けたように彼がしゃがみ込んだ。へなへなって効果音がつきそうな脱力っぷり。

「てか俺そんな大事な用事がある日に名前呼び出しとったんか」
「そうやって気にすると思ったから黙ってたの」

あまりの脱力っぷりにクスクス笑うと「やっと笑ったな」と明暗はほっとしたように言った。

「これどんな顔して買ったの?」

ヒラッと彼の顔の前で婚姻届を揺らす。

「どんなって、名前が欲しがっとると思ったからやな…」
「え?」
「は、待てまさか」

信じられないと言いたげに目を見開く明暗。そのまさかなんだけど。

「ほんとに見てただけ」
「言うなっ!聞きたない」

早まった!!と頭を抱える姿にもう我慢できず本格的に笑い出してしまう。

「…それ、どうするかは名前にまかすわ」

その一言で婚姻届は私預かりになった。


それから私達は"友達"ではなく"名前と修吾"の関係になった。恋人というにはあまりに初々しさがない。まるで時間を取り戻すみたいに丁寧に時間を重ねた。

修吾に何回もはがされたかさぶたはゆっくりゆっくり小さくなって、ついには消えてなくなった。
そして、季節がひとつ過ぎた頃、私は空欄を埋めた婚姻届を修吾に差し出した。その時の修吾の顔は今まででいっちばん情けなくて、その時のことを思い出すと、私はいまだに笑ってしまうのだ。

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