さよなら
『迎えに来てくれませんか?』
「え?」

電話口から聞こえた知らない声と、聞き間違いかと思うようなセリフに思わず低い声がでた。
しまった、威圧したみたいになっちゃったかな。


週末の夜、鳴り出した携帯電話。画面には明暗修吾の名前。電話なんて珍しいと、少し引っ掛かりながらもはやる気持ちを抑えて画面をタップする。手汗で滑りが悪い。

「もしもし」
『もしもし。あー…えっと苗字さん…ですか』

携帯をあてた耳元から知らない声がする。あれ、明暗じゃない。だって明暗からだったら「俺や」ってサギまがいの第一声のはずだから。

『あの、すみません。俺、明暗さんのチームメイトでーーー』

明暗のチームメイトだという彼曰く、今日はチームメイト数人で飲んでいたそうなのだが、珍しく明暗が酔い潰れてしまったらしい。対処に困って、LINEの一番上にあったトークルームの相手である私を彼女と勘違いして電話をしたようだった。

「あー…、申し訳ないんですけど私彼女じゃなくってですね」
『そこをなんとか』
「いやでもタクシー乗せちゃえば帰れるんじゃないですか」

そう言ったけれど、チームメイトの何某さんは(びっくりしすぎて名前が飛んだ)やたらと食い下がる。

『ほんとお願いします。俺らじゃ無理なんです』

押し問答が面倒になってきたのと、明暗に会えるという期待で「わかりました」と言ってしまった私はもうほんっとうにどうしようもない。こんなの“友達”のやることじゃないってわかっているのに。



幸い近場だったので、カーディガンを引っかけて家を出る。電車で2駅。LINEで送られてきた駅近くのお店に入る。店員に用件を告げて店内を進めば、図体の大きな集団を見つけた。そしてテーブルに突っ伏す明暗も。
お店に近づいた辺りで連絡を入れておいたおかげか、おそらく電話をしたのであろう人がすぐに私に気づいてくれた。やたらと申し訳なさそうな態度で明暗を引き渡される。どうやら彼はこの集団で一番若い子のようだ。だって周りの人たちにやついてるだけで手伝おうとしないんだもん。ちょっと可哀そうになってくる。

「明暗、帰ろう」
「…おん」

酔い潰れているという割にキチンと返事を寄越した明暗がゆったりとした動作で立ち上がる。鼻を少し触ったのが目に留まった。

ペコッとチームメイトの人たちに会釈してお店を出る。足取りのしっかりした明暗と、駅へと歩きだした。
会話はない。
ピリついたこんな空気初めてだった。駅前の広場に差し掛かったあたりでピタッと足を止めた。


「名前?」
「明暗。酔ってないでしょ」

彼の眼をじっと見ると気まずそうに視線を逸らされる。さっき鼻を触ってた。気まずい時よくそうするよね。知ってるよ。何年見てると思ってるの。

「…すまん」
「なんで呼び出したの。罰ゲーム?」

はぁ、とため息交じりに問う。
明暗はガシガシと荒っぽく後頭部をかいて、何か覚悟を決めたみたいに私を見た。雲に隠れて月が無い夜。明暗の顔に影がかかっているようだった。

「…今日の飲みで、初めてお前の話を他人にした」

一旦言葉を切った明暗は短く息を吐いて続ける。

「そしたら名前は俺のこと好きちゃうかって言われた」

心臓が掴まれたような衝撃。瞬きも忘れて呆然と明暗を見る。

「…なんで迎えに来たんや」

お前俺の家知らんやろ、と明暗は言う。確かに、明暗の最寄り駅は知っていても家の場所までは知らなかった。あの若い子が可哀そうだったからだよ、と言おうとするけど上唇と下唇が接着されたみたいに口が動かない。

「この前、結婚情報紙見てた日。彼氏が迎え来てたやろ」
「ぁ、」
「結婚考えとるような相手がおるんやと思った」

そこまで話をしたところ、チームメイトの誰かしらに連絡してみろとけしかけられたらしい。「好きなら迎えに来る」と。なるほど、それで連絡役としてあの若い子が巻き込まれたわけだ。

「そんなわけない。来んと思とった。でもこうしてお前は来た」

どこか苦しそうな明暗はグッとこぶしを握る。私は頭が真っ白で言葉を紡げない。手を伸ばせば届く距離にいるのに、まるで映画のスクリーン越しに向き合っているみたいに感じる。明暗が遠い。

「俺はお前がわからん」

彼氏がおるのに、なんで来たんや。と明暗は問いかける。

どうして、こんな、責めるような視線を向けられるんだろう。どうして、試すようなことをするんだろう。酷いよ明暗。今更、私の気持ちを暴いて、引きずり出してどうするっていうの。全身から血が引いていく。冷え切って芯から凍ってしまいそう。

ぽつりぽつりと振り出した雨が頬を濡らす。黙りこくって濡れていく私に、しびれを切らしたような明暗が「一旦駅いこ。濡れる」と移動を促す。
濡れていくことなんてちっとも気にならなかった。

それよりも、この恋がもう終わるのだという現実が棘でも生えてるみたいに喉につっかえて飲み込めないことのほうが重大で、悲しくて、現実味が無かった。

雨のせいで明暗も濡れていく。あ、明暗がお気に入りだって言ってた時計が濡れちゃう、そう思った時、こんな時まで明暗のこと心配するんだって自嘲の笑みが漏れた。

こんなにも明暗が好きだったんだと思い知らされて、栓を抜かれたみたいに気持ちが溢れ出す。

「…やめる」
「名前?」
「もうやめる」
「なんや、どうした」
「もう、明暗のこと好きでいるの、やめたい」
「は、」

明暗が目を見開く。まるで、私のこと初めて見るみたいだ。誰かを好きになることがこんなに苦しいのなら。こんな思いをしなきゃいけないのなら、もうやめにしたい。また剥がれてしまったかさぶたから血が流れ出す。

「…もうっ!明暗を好きでいるのっ、やめる!!」

最後はほとんど、悲鳴みたいだった。

「あ、おい!!」

雨に濡れながら駆け出す。水分を吸った髪が、服が、しっとりと重たい。サヨナラの瞬間に雨が降るなんて、すごくお誂え向きのシチュエーションだ。

走り出してから改札を抜けた後も、一度も明暗を振り返らなかった。
きっと振り返ってしまったら、その明暗の姿が網膜に焼き付いて離れないから。

バイバイ明暗。大好きだったよ、ばか。

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