何か環境を変えたくて転職をした。 そう言うと大抵ネガティブに受け止められるのだけど、前の職場に大きな不満があったわけではない。いや、全くないわけではなかったけど。少しでも良い方向に行けばと思ってのことだし、実際今ハッピーなので私としてはポジティブな転職だった。 職歴の浅さがネックだったけれど幸いにも大手の電機メーカーに事務職として採用してもらうことができた。新しい上司も同僚もとても良い人たちで、どうにかやっていけそうだ。契約社員からのスタートだけど、目立たず騒がず真面目に仕事をこなして、ゆくゆくは正社員になれたらいいなと思っている。職場の雰囲気にも大分慣れてきた今日この頃。今後の展望に想いを馳せつつお手洗いに向かっていた私は、不意に曲がり角から現れた大きな影に悲鳴を上げてしまった。 「わあっ!!!」 「えっ」 よくよく見ると大きな影の正体は大柄な男性社員で、私は驚いて叫んでしまった恥ずかしさや申し訳なさから早口で「すみません!!」と謝罪しお手洗いへ駆けた。 どうしよう向こうも私の叫びにめちゃめちゃびっくりしてた。用を足し手を洗いながらやってしまったと肩を落とす。目立たず騒がず、なんて言っていた矢先にこれだ。わあってなんだわあって。わ、に濁点がついて濁ったわあだった。見たことない社員だったけど、次顔を合わせたりしたら気まずい。 でもまあ、そうそう会うこともないかなあとタカをくくり自席へ戻った。叫んじゃったの他に人がいないタイミングで良かったと思いながら、作成途中のファイルを立ち上げる。表の調節ってなんでこう一発でパパっとできないんだろう。なんて自分のスキルのなさを棚に上げて黙々と作業をすすめていく。どのくらい時間が経っただろう、あらかた表も仕上がったところで「すみません」と声をかけられた。「はい」と椅子を回して後ろを向けば、そこにはさっき曲がり角で遭遇した社員が立っていた。ヒュッとのどから変な音がでる。 「あれ、さっきの…」 私の顔を見た男性ははっとした表情で私をまじまじと見る。柔和そうな顔だが、見上げるほど背が高い。 「あ、あの先ほどは大変失礼を…」 ぺこりと頭を下げると「いやこちらこそ驚かせたみたいで、申し訳ない」とにこやかに返された。あれ、いい人っぽい。 「いえ、あの私が悪いんです本当にすみません」 「いやいや」 「わ、私昨日ジュラシックな映画を見ちゃって、その…物影から恐竜が出てくるシーンと重なってしまって、えっと、体格が立派でいらっしゃるから」 恥を忍んでこちらに非があるのだと告げる。なんとなく見たくなって昨日の夜家にあるDVDを引っ張り出してみてしまった有名な映画。親にもビビりなのに急にどうしたのとは言われたが本当になんとなくだ。案の定不意を突いて登場する恐竜たちにビビり上がってしまったわけなんだけど。 おそるおそる顔を伺うと、先ほどまでの柔和なほほえみを崩さないままの彼は「いやぁ、キリンだとかゴリラだとか言われたことはあるけど、恐竜は初めてだな」と笑う。あ、許してくれたっぽい。もともと気を悪くした感じでもなかったけど。 「で、俺はなんの恐竜なんですか」 「え、」 「具体的なイメージがあるのかなって」 あ、許されてないぽい。優しそうな見た目とはどうも違うみたいだ。そうは言われても具体的なイメージがあるわけじゃない、だけど言うまで解放されそうにもないなと腹をくくる。 「えぇ、ブラキオサウルスですかね」 「なんで?」 「大きくて草食で優しそうだから…?」 「草食ねぇ…」 私の返答に彼はつるりとした顎を撫でながら面白そうな笑みを浮かべる。なんで初対面の人とこんな話してるの私。いや、私のせいだけど。彼の視線が私の胸元に落ちたかと思うと「苗字さん」覚えておきます。と微笑まれる。思わず社員証をバッと手で覆うも時すでに遅し。「そんなにおびえなくても取って食ったりしませんよ草食だから」と言われてしまった。してやられた気分。 「あら、昼神さんどうしたの」 外出から戻った先輩社員が私たちに声をかける。そこで初めて目の前の彼の名前を知った。ぶら下げた社員証が裏返っていたから名前が全く分からなかった。「ルーパーファイル1箱欲しいんですよ」と先輩社員の田辺さんに昼神さんは微笑む。 「あぁ、ルーパーね。苗字さん。悪いんだけど渡してあげてくれる?」 そういわれて「はい…」と立ち上がる。ちょっと田辺さんにバトンタッチできるのではと期待してしまった。備品倉庫へ連れ立って向かう道すがら「苗字さんて、前からあの部署にいました?」と尋ねられる。「いえ、私中途で今年からなんです」そう答えると「あぁ、だから見たことなかったんだ」と彼は納得したように頷いた。 「あそこウチにしてはのんびりしてていい人ばっかりって聞くし、良い部署に配属されましたね」 「はい、ありがたいです」 彼の言葉を肯定しながら、目的の備品を探す。手持ち無沙汰なのか、昼神さんは言葉を続けた。 「苗字さん中途って言ってたけどいくつなんですか」 あ、女性に失礼でしたね。と昼神さんは恐縮したが、特に不快感は感じなかった。爽やかさのなせる技かもしれないなと思いながら質問に答えると、昼神さんは驚いた顔で声を上げた。 「えっ!もしかして○年生まれですか?」 「はい」 コクリと頷けば「同い年だ」と彼はニッと笑った。 「えっ!同い年?!」 驚きで大きな声を出してしまう。さっき反省したばかりなのに学習能力低くないか私。 「そんなに驚く?」 「いや、その、大きいから年上かなって」 その落ち着き払った様子も年上に思わせているように思う。 「大きさで年齢決まんないでしょ」 爬虫類じゃあるまいし。と昼神さんは笑う。よく笑う人だなぁ。 「あ、俺恐竜だから?」 「やだそれもう忘れて下さい!!」 からかいを含んだ声に思わず見つけた備品の箱をガッチリした胸に押し付ける。 「お探しの備品の箱!」 そういって恥ずかしさを誤魔化すように備品使用簿にヒルガミとカタカナで書いた。漢字でどう書くかなんて知らないし。するといつの間にか横に立っていた彼が手元を覗き込んでいた。「お昼の昼に神様の神。幸福の福に、新郎の郎。昼神福郎です」覚えといてね苗字名前さん。と昼神さん私を見下ろす。できたらもう関わりたくないなぁと思いながら、私はその場しのぎに「こちらこそ」と返事してペコリと頭を下げた。それが、私とのちの夫になる昼神福郎との出会いだとは知らずに。 |