「名前、チョコ頂戴」

にこやかに告げられたセリフと差し出された手に、私は一気に体が冷たくなるのを感じた。それはなにも2月の気温のせいじゃない。
バレンタインという恋人たちのビックイベントを私が今この瞬間まで忘れていたからだった。

言い訳をさせて欲しい。私だってずっと忘れてたわけじゃない。2月に入った時は覚えていたし、恋人にチョコを買わないとなぁなんて考えていた。だけど2月は逃げるでお馴染みの2月はやることが多い。やれ、来年度の計画だ、今年度の予算残高の使い道だ、とあれこれ奔走している内に14日になっていたというわけだ。

目の前の恋人は相変わらずにこやかで、その様子が余計に私の背筋をひんやりとさせる。わざわざ昼休みにチョコ回収に来るくらいだ、楽しみにしていたに違いない。
私は持っていた最近お気に入りのベーカリーのビニール袋に手を突っ込み、ふわふわのパンではなくひんやりと硬い感触を手で掴んだ。

「ど、どうぞ」

2月限定のチョコスプレッドの瓶を手に乗せられた福郎は、きょとん、とした顔をしている。あっけにとられたというか、予想外、というか、そう言う表情。初めて見る顔だった。
今朝、お昼のパンを買いにベーカリーに立ち寄った時に期間限定の文字につられて買ったチョコスプレッド。楽しみにしていたけれどここは仕方ない。なんでチョコスプレッド見てバレンタインのこと思い出さなかったんだろう、と自分の能天気さを呪っていると、きょとん顔からにっこりと余所行きの笑顔になった福郎が口を開いた。

「ありがとう。名前の頭のてっぺんからかけて使えばいいのか?」
「すみませんでした。バレンタイン忘れてました。許してください!!」

笑顔で言い放たれた言葉に、対応間違った!!と心臓が縮み上がる。流石に誤魔化せなかった。しげしげと瓶を眺めているのが怖い。

「許すも何も別に怒ってないよ。名前に塗って使うの楽しそうだな〜」
「いや、パンに…塗って…」

怒ってんじゃん!とは流石に言い返せなかった。立場が悪い。
チョコ塗れになるかどうかの危機だった。いや、何なのその危機。

「怒ってないけど、ちょっと傷ついた」
「ごめんなさい…、その、ちゃんとチョコ用意させて下さい」

眉を下げて切なそうな表情をする福郎に、良心が痛む。好きな人を悲しませるなんて、私何やってるんだろう。これじゃ彼を大切にしていないみたいだ。
福郎はチョコスプレッドの瓶を軽く投げてキャッチする動作を繰り返している。まるで、投球前のピッチャーみたいだ。そう、それこそ決め球を投げる前のような。いや、今の例えは良くないかもしれない。バレーで例えるべきだった。

「チョコはいいよ」

現実逃避にごちゃごちゃ考えていると、福郎がおっとりとした調子で話し始める。

「それよりも、俺のお願い聞いてくれないか?」
「おね、がい?」
「そう、お願い」

にっこりと聞こえてきそうな顔が、この前の試合でファンサービスをしていた時の表情に重なる。でもあの時は、こんなに圧を放ってはいなかった。
首を横に振るという選択肢は、果たして私に用意されているんだろうか。首を横に振ったが最後、チョコ塗れの未来が訪れる予感しかしない。

「…わかった」

そんな未来絶対回避したい私は頷くしかなかった。

「ありがとう。じゃあ、また連絡する。ホワイトデー楽しみにしてて」

そんな末恐ろしい言葉とともに福郎は去って行く。一体お願いとして何を要求されるのかと思うと落ち着かなかった。とんだバレンタインだと私は去って行く彼の後ろ姿を眺める。あ、チョコスプレッド返してもらえばよかった。
そう思った時にはもう遅い。後悔はいつだって、先に立ってはくれないのだ。


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