その時、星海光来は年末調整に関する書類を総務へと持っていく途中だった。 ソレに出くわしたのは、不運というしかない。だって彼には、何の落ち度もないのだから。 バタバタと、後ろから聞こえた足音に、ずいぶん慌てた様子だなと星海は振り返る。 「あれ、お疲れ様です」 「あっ、星海くん!」 騒がしく表れた人物は、星海が所属するチームでキャプテンを務める男の配偶者だった。 さすがに挨拶をしないわけにはいかない。だってキャプテンの配偶者ということは、星海の友人の義姉ということでもあるからだ。 彼女はきょろきょろと周りを確認して「星海くんお願い!私がこっちに行ったってあの人に言わないで!」と両手を合わせて頼んでくる。あの人、というと彼女の配偶者のことだろうか。 「良いっスけど…」 いったい何なんだ、と怪訝に思う星海に対して「ありがとう!」と感謝を述べた昼神名前は、また小走りで去っていった。その後ろ姿を見送って、星海も再び総務部を目指した。 「失礼します」 無事に総務に書類を渡し終え、総務部を去ろうとした星海の前に良く見知った人物が現れる。 「光来、ちょうどいいところにいた」 「どうしたんスか」 微笑むアドラーズのキャプテンは今日も泰然とした様子で、その役割を任されるだけあると思えた。 「うちの奥さん見なかった?」 "うちの"という言い回しに故郷に居る友人の顔が頭に浮かぶ。目の前の男の面差しとよく似ているせいだろうか。いやきっと、その性質もよく似通っているに違いないと、星海は思った。 「…見なかったです」 何故か頭にいつか見た幸郎が彼女に意地悪をしているシーンが過って、つい名前の肩を持った。 「そう。見たら俺のところに来るように伝えといて」 アドラーズのキャプテンはゆったりとした様子でそう答えて、名前が去って行った方へと歩いて行く。あ、そっちはマズい。と思ったものの止めてしまえば訝しがられること間違いなしだ。 しばらく迷ったがやはり心配になり、向こうにある自販機でミネラルウォーターを買うついで、と理由を見つけて福郎の後を追った。曲がり角を曲がろうとしたところで、「放して!」と言う名前の声がした。 咄嗟に壁に隠れるようにしてしまう。なんで俺が隠れてるんだ?と思いながらもそっと曲がり角の向こうを覗くと、人けが無いトイレの近くで二人が何やら揉めているのが見えた。 「心配してるだけだろ」 「もう解決したもん」 「そもそもなんでそんなことになるの」 「それは…」 問い詰める昼神に、名前が口ごもる。いったい何があったのか、と少し緊迫した気持ちになった星海は、次いで聞こえた「びっくりするだろ、ブラのホック外れたとか言われたら」という昼神の言葉にズッコケそうになった。 「背伸びした拍子に取れちゃったんだもんしょうがないじゃない」 「こっちはすれ違いざまにそんなこと言われて気が気じゃないよ」 「だからって追いかけてこないでよ」 「酷くない?付けてあげようと思っただけなのに〜」 「嘘つき。すけべな顔してる」 「バレた?」 「もうトイレで付けたから大丈夫」 「あ〜あ残念」 心配して損した、と星海は心底思った。ただのバカップルの痴話げんかかよ、とこめかみを押さえる。人が少ない場所で良かったと、何故か星海がホッとした。 「あれ、光来?」 いつの間にこちらに来ていたのか、昼神夫妻が揃って星海を見ていた。 「…お疲れ様です」 一端の社会人として、星海は何とか挨拶を絞り出した。 そして、昼神の手が名前の腰を抱いているのに気がついてしまい、幸郎の次は兄貴かよと項垂れる。そんな星海を昼神夫妻は心配げに見つめる。どこかから「光来くん、がんばってね〜」という幸郎の声が聞こえた気がした。 |