「…名前ちゃん?」

大して大きな声では無かった。
本当に口からこぼれ落ちたような声量。駅ビルの雑踏の中でも、不思議と耳に入った自分の名前に、視線を落としていたスマホ画面から顔を上げれば目の前には久々に見る姿があった。
行きかう人たちの中でもやけに鮮明に目に映る彼は、所謂元カレという間柄だった。

「…久しぶりだね」
「久しぶり。元気だった?」
「元気だよ。名前ちゃんは?」
「元気だよ」

親しさとよそよそしさの混ざり合う微妙な空気感。駅ビルのBGMで流れる流行のラブソングにそわそわしてしまった。別に嫌いになって別れたわけじゃない。
ただ、あのまま一緒にいる未来が思い描けなかっただけだった。

「いつの間にか会社辞めてたから驚いた」
「あぁ、うん。転職したの」
「今どこで働いてるの」
「電機メーカーのシュヴァイデン…」
「へぇ!大手じゃん」

驚いたように目を丸くして名前ちゃんすごいね、と手放しに称賛してくれる彼。そうだ、こういう素直さのある人だった。
おしゃれをすれば「素敵だよ」、化粧を頑張れば「可愛いね」と褒めてくれる優しい人。最初はそれが嬉しかったのに、次第に私は「素敵じゃなきゃいけない」「可愛くしてなきゃいけない」と自分で自分を追い詰めてしまった。自然と彼と会うことも息苦しくなっていく。背伸びをして自分を取り繕う苦しさに、耐えられなくなった。
ちょうど転職を考えていたこともあって、悩んだ末に彼に別れを告げた。
「あなたが嫌いになったわけじゃない。でも、もう一緒に居られない。ごめんなさい」と告げた私に、「別に別れなくても良いんじゃない?」と困ったように彼は言ったけれど、私は首を横に振った。

「ごめんなさい」
「…そっか」

無理やりに名前ちゃんを繋ぎとめて嫌われるのは嫌だから、と彼は私の申し出を受け入れてくれた。その時の後ろめたさが、彼を目の前にすると再び湧き上がる。

「…ネイルやめたの?」

スッと私の右手を取った彼が爪を撫でる。ネイルもよく褒めてくれる人だった。こんな風に私の些細な変化によく気がつくのだ。触れる手の温かさは昔と変わらない。

「今は時々するくらいかな」
「そっか、なんか雰囲気変わったね」
「そう?」

その言葉に、少しドキッとした。私は今、彼から見て素敵じゃないんだろうかと考えてしまう。そんなの気にする必要もう無いのに。

「黒髪の名前ちゃんも素敵だよ」

髪を染めることをやめた私を、思いがけず彼は褒めた。

「ありがとう」

私は、“私”のままでいいのだと自然と笑みがこぼれる。

「あれ、」

微笑みあった後、彼が私の左手を指差した。

「名前ちゃん結婚したんだね」
「えっ、あぁ、実は…しました」
「おめでとう」
「あり、がとう…」

なんでだろう昔の恋人にお祝いされるのは照れ臭いというかものすごく変な気分だった。もしかしたら、彼とそうなっていた可能性もあるからだろうか。

「あ、」

そこでハタと自分の夫のことを思い出す。
そうだ、私、お手洗いに行った福郎を待っていたんだった。ずいぶん遅いな、と視線をお手洗いの方向に向けたところ、少し離れたところにその姿を見つけた。ぎりぎり私の視界に入らないくらいの距離。壁に背中を預けた彼は静かにこちらを見ていた。
こっわ…と声に出そうになる。いつからそこにいたのかと思うと血の気が引いた。血の気って本当に下に引くんだ、という気付きはきっと人生で得なくてもいいものだろう。
なんで見てるのとか、声かけたらいいのにだとか、昔の同僚だって誤魔化すべきかなだとか、弾けるポップコーンみたいに次々に考えが浮かぶ。強張った私の顔に気がついたのか、彼が「旦那さん?」と私の視線の先にいる福郎を見て尋ねた。

「うん」
「随分背が高いね。それに優しそう」
「やさ、え、優しい…かな?」

しどろもどろな私の返事に「どっちなのそれ」と笑った彼は、福郎に軽く会釈をして「お幸せに」と私の肩を軽く叩き去って行く。
その背中を見ていると「名前」と福郎がそばに来た。

「…いたなら声かけてよ」
「なんかいい雰囲気だったしお邪魔かな〜って、元カレだろ?」
「…うん」

ストレートな質問に、こちらも素直に頷いた。

「…行こうか」

気にしてなさそうな顔の割に、声のトーンがいつもより低い気がした。

「怒ってる?」

そう聞けば、福郎は特に意味もなさそうに私の右手を取って彼がしたように爪を撫でる。

「怒ってるっていうか、あの時の名前はこんな気分だったのかーって感じかな」
「お分かり頂けました?」

冗談めかして聞くと「分かりましたとも」と消化不良を起こしたような顔をしていた。

「まぁ、気分は良くないな」
「…珍しい」

分かりやすくやきもちめいたことを言う彼は、レアだった。

「昼神さん」
「なんですか昼神さん」
「今日のお夕飯好きなもの作りましょうか?」
「…もしかしてご機嫌取りしてる?」
「うん」

私の答えを聞いてニッと笑った福郎が、内緒話をするように腰を屈めて囁く。

「もっと効果てきめんな方法あるけど?」
「却下」
「早いな〜」

絶対にろくでもない事なので耳は貸さない。食い気味に却下した私に、何が楽しいのか福郎はにっこりと笑う。

「あの、さ」
「どうした」

まるで付き合いたてのカップルのように手を恋人つなぎにされてちょっと恥ずかしい。

「今日寝る前に、福郎の好きなところ教えてあげる」

福郎は、私の言葉に一瞬面くらった表情をした後、おかしそうに笑い出した。

「はは、それは楽しみ…でもそれだけ?」

急に艶っぽい色を含んだ声に、どきりとしながらも毅然とした態度で答えた。

「…そこからは有料です」
「出世払いで」
「も〜、早くいこう」
「はいはい」

繋いでいた手を放してその広い背中をぐいぐいと押す。
「力強いな〜」と笑いながら首の後ろを撫でる彼の左手に光る銀の輪。
普段は競技の邪魔になるから付けていないけれど、こうして一緒に出掛ける時なんかには進んで付けてくれていた。
そこが好きなところのひとつだって、今夜早速教えてあげようと思う。


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