沸々と煮えくり返るはらわたと違い、脳の方は随分と冷静だった。
目まぐるしく流れていく景色を車窓越しに眺めながら、これからのことを考える。話も聞かずへそを曲げて家を飛び出した私を、彼は許すだろうか。どうしていくべきかアレコレ考えても、今は分からなかった。
ただ連なる山々の緑を眺めながら、少しだけ凪いだ心で彼と出会った日のことを思い出す。
車内アナウンスが次の到着駅を告げ、新幹線は緩やかに長野駅へと滑り込んだ。



『帰ったらちゃんと話すから』

スマホ画面に表示されたメッセージを静かに眺める。話すってなにを話すんだろう。
どんな説明をされようと、今はとてもポジティブには捉えられない。きっとそれは私のホルモンバランスだとか精神面のせいもあるんだろうけれど、どうにもネガティブにしかとらえられなかった。
いつだったか知った、彼の昔の恋人。番組の中で語られた思い出に嫉妬して彼に八つ当たりをした。ちゃんと話をして解決済みだけれど、それがまたこうして俎上に上がってくるというならば話は別だ。
週刊誌の紙面を賑わせた人気タレントの密会記事。相手は現役のアスリート。
路上で向かい合って立つ二人の内、彼の顔と名前などの詳細はぼかされていたけれど、彼のコートを、靴を、バッグを、その長身を、私が見間違えるはずがない。毎日そばで見てるんだから。
涙は出なかった。
ただじっと記事を読んで、意味を理解して、飲み込むので精一杯だった。まさかないとは思うけれど、焼け木杭に火が付いたんだろうか。彼が私に告げた愛の言葉はもう輝きを失って、私は自分の気持ちを支えることができそうにもない。電気さえもつけていない部屋は静かで、私の身じろぎする音すらとても耳障りに思えた。

「はぁ…」

ここにいても埒が明かないと思った。スマホを持ち直してメッセージアプリをタップする。
そしてこういう時の定番の文言を打ち込んだ。少しくらい焦ったらいい。

『実家に帰らせて頂きます』

そう送信した後、少し考えてある場所へ電話をかけた。話を終えた後、スマホの電源を落とす。行方をくらます準備はできた。
旅行用の少し大きなカバンに数日分の着替えなどを詰め込む。歯ブラシや洗顔なんかの細々したものは現地で買おう。悲しい家出のはずだけど、なぜだろうどこかわくわくした気持ちもあった。
あのメッセージを見て、夫はどう思っただろう。彼の焦った顔を想像して少し溜飲が下がった心地がした。少しくらい私を失うことを惜しいと思ってくれるだろうか。

そうしてやってきた長野駅。
もう夕方と呼んで差し支えない時間帯で、勇壮な山々の向こうはすっかり藍色に染まっていた。わずかに空に残っている昼の名残がオレンジ色に棚引いている。実家に帰る、とはいったけど私の実家とは言っていない。なんて屁理屈を引っ提げて長野駅を後にする。駅前でタクシーを捕まえて、ようやっとスマホの電源を入れた。すると通知がビックリするくらいに入ってくる。そのほとんどが『昼神福郎』からだった。

「…すっごい電話かけてきてる」

ふふ、と他人事みたいに笑みが漏れる。友人からの連絡などに返事を返しながら、夕暮れの長野の街をすり抜けて行った。
義理の両親は私が電話をかけた際に全て説明した為事情を把握していて、気の済むまで居ていいと言ってくれている。福郎にも教えないと約束してくれており、とてもいい義両親だ。
私を気遣う様子をみせつつも、普段と変わらず接してくれることがありがたかった。お土産を手渡したりした後、少し落ち着いた気持ちになってやっとじっくり彼からのメッセージを見た。

「待って」
「落ち着いてくれ」
「電話に出て」
「名前頼む」
「不注意だったのは認める」
「彼女とは何もないんだ」
「偶然会っただけで、お互い連れもいた」
「名前」
「頼む帰ってきてくれ」

たくさん来ていたメッセージの最後を見た瞬間吹き出してしまった。どうやら相当参っているようだ。普段私の方がしてやられてばかりだから、ちょっといい気味と思ってしまった。

「あれ、お義姉さん」
「幸郎くん久しぶり」
「兄ちゃんは?一緒じゃないの」

お夕飯を食べ終わった頃、バイト終わりの幸郎くんが帰宅した。ソファーに座る私の姿に驚いた様子で、尻尾をぶんぶん振るコタロウを撫でながら福郎の姿を探す。

「実はね、家出中なの」
「えっ!?」

私の言葉に驚いた彼はなにかあったの?と興味津々にソファーに座る私の横に腰を落ち着けた。

「これ見て」

そう言ってスマホ画面に表示されたネットの記事を差し出す。

「あ〜…これは…」
「たぶん偶然か、そう見えるように切り取られてるんだと思うんだけど、腹が立っちゃって」

いたずらっぽく笑って見せると「なるほどそれで家出してきたわけかー」と納得したように頷く。

「だから、私がここにいるって内緒にしてね」
「うん」

にっこり笑った幸郎くんの顔は福郎によく似ていて、少しだけ胸がツキンと痛んだ。その時、ピンポーンと昼神家のインターフォンが鳴る。

「あ、多分俺だ」

幸郎くんが立ち上がって玄関へ出ていく。お供のコタロウもその背中を追った。
何とはなしに窓辺によって夜空に浮かぶ月を見上げる。綺麗で、切なくて、こんな時にどうしてそばにいてくれないんだろうって自分勝手なことを思った。ふと視線をずらすと、玄関の前で幸郎くんが誰かと話している姿が目に入る。控えめな雰囲気の女の子が、幸郎くんに何か一生懸命に話していた。もしかして彼女かな、と私の中の野次馬が顔を出す。そっと見守っていると、幸郎くんが彼女の顔を両手で包んでキスをした。軽いものじゃなくて、それはもうがっつりと。それこそ、彼らのそばにお行儀よく座るコタロウがミスマッチに感じてしまうくらいに。唇を離した幸郎くんに彼女はあわあわした様子で何か言っている。周りに視線を巡らせているから、誰かに見られてやしないかと不安になってしまったようだ。誰にも見られていないと思ったのか、ホッとした様子の彼女が、そっと幸郎くんに抱き着く。見つめ合う二人は、とても幸せそうだった。

おっとり長男の福郎に比べて、ちゃっかり次男って感じの幸郎くんと付き合うには随分素直そうな子だと思った。大変そうだ。幸郎くん割といい性格してるし。福郎もだけど。
内心で少し同情を覚えながらも同時に頑張ってと応援する気持ちになった。二人は仲睦まじく手を繋いで歩き出す。家まで送っていくのかもしれない。お互いに大好きオーラを放っている二人にあてられたというか、どこか瑞々しい気持ちになる。
あんな時期、私たちにあったかな。なんか基本福郎に何か言われて私がムキになって、彼がおかしそうに笑っていたような気がする。懐かしくて、今となっては眩しい思い出。
不意にスマホが震える。
画面を確認すると「おやすみ」と短いメッセージが表示されていた。彼が遠征などで家を空けていて一緒にいられない夜の習慣。こんな時すらそれを忘れない彼に、じんわりと涙が滲んだ。幸郎くんに家の中に入れられたのだろうか、いつの間にかコタロウが横にお座りしていた。

「コタロウ一緒に寝る?」

そう聞けばコタロウはその場で寝る体勢に入る。なんだかフラれた気分になってしまった。

その翌日は義両親はお仕事で、幸郎くんもどこかへ出掛けてしまったので私は1人のんびりと過ごしていた。太陽の光がたっぷり入る昼神家のリビングは暖房の力も相まってぽかぽかと心地いい。少しだけうたた寝してしまった。もちろんコタロウも一緒に。

お昼前にどこかへ出かけていた幸郎くんがひょっこり帰宅して「ご機嫌伺いでーす」とケーキの箱をテーブルに置いた。促されてそっと箱を開けると、私の好きなフルーツのたっぷり乗ったタルトが入っていた。クリームが少ないのも助かる。あれ、幸郎くんにあの事を話しただろうか、と少し引っかかった。

「買ってきてくれたの?」
「ん、ちょっとね」
「ありがとう」
「駅に迎えに行ったついで」
「…駅?」

ケーキのお金出したの俺じゃないよ。と幸郎くんはにっこりと笑う。その笑顔が、私に悪戯を仕掛ける時の福郎と重なる。ガチャリと、背後にあるリビングの扉が開く音がした。点と点が繋がって線になる感覚に襲われる。

「幸郎くんまさか…!!」
「名前」

聞こえるはずの無い声が背後からして、肩を大きな両手が掴んだ。やられた。

「昨日兄ちゃんに連絡したんだ」

あっさり白状した幸郎くんを裏切ったな!とじっとりとした目で見る。彼は気にした様子もなく「こういうのは直接話さないと」と、ど正論をぶち込んできた。

「…すみません」

私も急に長野に押しかけた手前、思わず謝ってしまった。
福郎はホッとした様子で「実家って俺の実家と思わないだろ…」と脱力していた。後ろから体重をかけられて彼の重みを感じる。福郎のそばに歩み寄ったコタロウがぶんぶんと尻尾を振っていた。嬉しそうだねコタロウ。
なんでも昨日私の実家に慌てて行ったものの、「帰ってないわよ。ケンカでもしたの?」と肩透かしを食らったらしい。いい気味だ。

「名前が怒るのはごもっともだと思うけどさ、急に行方くらますのはやめてくれよ」

心底参った様子で福郎が懇願するように言った。珍しく情けない顔をしている。

「…ごめん」
「名前一人の体じゃないんだぞ」
「えっ!?」

ドラマで聞くようなベタなセリフに続いて幸郎くんの驚いた声がした。

「えっ、どういうこと」
「あ、えっとね、実は妊娠してて…」

意識して見ないとわからないが、実は少しだけお腹が膨らんでいる。

「妊婦が勢いで飛び出してきちゃダメでしょ…」
「はい、おっしゃる通りです…ごめんなさい」

うちの親知ってるの?とこめかみを抑える幸郎くんに「うん」と頷く。昨日告げたところ初孫に沸いていた。幸郎くんは「まじか〜」としみじみと呟いている。

「テンパって明暗にも連絡しちゃったよ。うちの奥さん来てない?って」

知るか!捨てられろ!と怒鳴られたらしい。明暗さんにも後で謝らないと。

「名前、本当にごめん。街で偶然あって声をかけられただけなんだ。挨拶くらいしかしてない」

信じてくれ、と背後から私の前にまわった福郎が私の手を握って必死な様子で言葉を紡ぐ。その姿に怒っていたのがだんだん馬鹿らしくなってきた。

「私も、いきなり家出してごめん…」
「妊娠中はナーバスだからねー」

獣医とはいえお医者さんになる為の勉強中の幸郎くんが「兄ちゃん不注意すぎ」と福郎に苦言を呈する。いいぞ、もっと言ってやって。

「返す言葉もないよ…」

苦笑いする福郎は、気遣うように私の下腹部を撫でる。

「名前を裏切るような事してないって信じてくれるか?」
「…信じる」

ここまで追いかけてきてくれたことと、私を見つけてホッとした顔を見れば充分信じるに値した。それに、午前中に出た女性側の事務所コメントには否定の言葉しか載っていなかった。彼の潔白は証明されている。

「ありがとう。もうこんな事ないように気をつけるよ」

そう言って優しく頬を撫でた福郎に、思わずポロッと涙が溢れる。

「わっ、名前」

よしよし、本当に悪かった。と私を抱きしめる福郎にしがみつくように泣いてしまった。気を利かせた幸郎くんがそっとリビングを出て行く。

「名前、一緒に帰ろう」
「う゛ん」
「はは、変な声」

私を裏切らないって信じている。だけどそれでも、どこか不安だった。どんな物事にも絶対なんてないと知っているから。

「…落ち着いたか?」
「うん゛」
「お前のママは泣き虫だなー」

からっと笑いながら福郎が少しだけ迫り出したお腹を撫でる。今日のところは彼もこちらに泊まると言うので涙を拭ってもう一度だけ彼に抱きついた。

「顔上げて」

優しく囁かれた通りに顔を上げると唇が重なる。
限界まで上を向いてるから首が痛い。このキスが終わったら、幸郎くんを呼びに行って一緒にケーキを食べよう。
だけどもう少しだけ、この人に抱きしめられる事をどうか許して欲しい。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -