『2月3日が俺の誕生日なんだけど、その次の日は立春っていって春の始まりなんだよ』
小学生の時、雪だるまを作りながら教えられたその情報は、刷り込みのように私の頭に残っていた。
そのせいで、幸郎くんの誕生日を季節感を感じさせるイベントとして認識してしまっている。とはいっても、誕生日当日は節分だし、その認識も間違ってはいないはずだ。
恋人になって何度目かの幸郎くんの誕生日。
私は何故か、朝から電話で叩き起こされ幸郎くんの運転でどこかへ運ばれていた。最低限の身支度をする時間しかなかったせいで、家から出てきた私を見た幸郎くんに「寝癖ついてる」と笑われてしまった。誰のせいだ誰の。
そのせいでむくれた顔のまま「…お誕生日おめでとう」と言ってしまってちょっと後悔している。
「名前ちゃん出かけよう」って言ってたけど、どこに行くつもりなんだろう。一応防寒だけは気を付けたけど、車内の暖房がまだ完全に効いてないせいで足の爪先が寒い。
「ねぇどこいくの?」
「ん?内緒」
「そんな」
わけがわからない、という気持ちが顔に出ていたのか、幸郎くんはチラッと横目に私を見たあと少し笑った。
「まだかかるから寝てていいよ。後ろブランケットあるから使って」
そう言って、後部座席を示される。私は遠慮なくブランケットを手にして膝にかけた。幸郎くんは慣れた様子で道路をスイスイ進む。いつの間にか免許を取得していた幸郎くんと違い、私はいまだ仮免にも届いていない。なので、もし何かあっても運転を交代できない。もっとも、交代できたとしても雪道の運転は私にはまだレベルが高すぎる。いくらスタッドレスタイヤでも不安だ。運転席の幸郎くんを見ると、どこか楽しげな様子でハンドルを握っている。ナビの指示に従って右折したあと、高速の標識が見えた。そして車は滑らかに高速へと入る。いったいどこへ向かうのか気になったけれど、車の心地良い振動に私はいつの間にか意識を手放してしまっていた。
「…ちゃん。名前ちゃん」
「ん…」
「着いたよ」
そっと肩を揺らされてゆっくりと瞼を持ち上げる。起き抜けの視界は私を覗き込む幸郎くんでいっぱいだった。
「わっ、」
「おはよう」
ぐっすりだったね、と幸郎くんは笑いながら私のシートベルトを外した。
「あ…ごめんなさい…私運転してもらったのに寝ちゃった…」
「大丈夫だって」
気にしてないよ、と幸郎くんはまだ少し寝ぼけ眼の私のほっぺを雑に引っ張る。
「起きろ〜」
「いひゃい」
「ははは、変な顔」
変な顔にしてるのは幸郎くんなのにその言い草はないんじゃないかとへそを曲げていると「降りよっか」と促される。
「そういえば、ここどこ?」
「…行けば分かるよ」
薄っすらと笑って告げられたセリフに、この間見た2時間サスペンスが頭をよぎった。あの話も、車でどこかへ運ばれて、その後、確か、山の中に埋められてた。嫌そんな馬鹿な、と私は首を左右に振って怖い考えを振り払う。幸郎くんがそんなことするわけない。
でも、シンとした外の静けさが、うっすらとした不安を増長した。
幸郎くんは緩く巻いていた私のマフラーをしっかりと隙間の無いように巻きなおして、自分のマフラーはとりあえずといった体で軽く巻いた。車を降りた幸郎くんに続いて私も外に出る。冬だから当然だけど、外の空気はキンと冷たい。ぐるりとあたりを見渡すと「諏訪湖」の文字を近くの看板に見つけた。
「すわこ…諏訪湖ぉ?!」
「あ、さすがに分かっちゃった?」
幸郎くんは悪戯が成功したみたいな表情で歩き始める。どうしてこんな真冬に凍った諏訪湖に連れてこられたのか分からず、私はより一層戸惑っていた。幸郎くんについてくと、思ったより人がいることに気がつく。何を見ているんだろうという疑問は、湖面を見た瞬間に解けた。
「…御神渡り」
「そう。今朝のニュースで久々に確認されたって言ってたからさ」
名前ちゃんと見に行こうって思ったんだ、と幸郎くんはにっこり笑った。
湖面を横断するように走る氷堤は神様が通った後なのだという。テレビなんかで見たことはあっても、本物を見るのは初めてで、不思議な光景にしばらく言葉を失ったまま湖面から盛り上がった氷を眺めた。
「…幸郎くんのことお祝いしてるみたいだね」
思わずそうこぼすと「こういうの“持ってる”って言うのかな〜」と特に気に留めて無さそうな表情で言われた。
「お誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう」
「…来年もお祝いさせてね」
そっと横に立つ幸郎くんの手を握る。手袋越しだから温度は分からないけれど、握り返されたことに安心した。
「楽しみにしてるよ」
前を向いたままそう言った幸郎くんの鼻先と耳のふちは寒さのせいで赤くて、吐息は白い。
私の主観でしかないけれど、幸郎くんは冬が良く似合う。
暦上の冬の最後の日に、幸せになるようにと願いをかけられて春を告げるように生まれた人。私の世界で一番好きな人。そう思うと、胸がキュッと切なくなった。でも、苦痛じゃない。きっとこれは、愛おしさだ。
「…ッくしゅん」
どのくらいそこにいたのだろう。体が冷えてしまった私の小さなくしゃみで、幸郎くんは「帰ろうか」と私の手を引く。後ろ髪を引かれるように振り返ると、そこには変わらず静かな氷が広がるだけだった。
「なんか食べて帰る?」
車に戻った後、シートベルトを引っ張りながら幸郎くんがそう訊ねる。
私それに返事をせずに、こちらを向いた顔にそっと口づけた。外にいたせいで触れた唇はひんやりと冷たい。思わず両手で顔を包み込むようにすると頬もひんやりと冷え切っているのが手のひらから伝わってくる。私が唇を離すまで幸郎くんは無抵抗で、大人しくされるがままになっていた。
「…びっくりした〜」
「…プレゼントは帰ってからでもいい?」
「うん」
「連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸郎くんはふわりと微笑んで、エンジンをかけた。車は来た道を辿るように高速へと向かう。
「あそこ行く?こないだの蕎麦屋」
「うん。行きたい」
「決まりだね」
そんな会話をしながら、右手を幸郎くんの太ももに置いた。特に理由は無いけど、彼に触れていたかった。
ハンドルを握る幸郎くんの横顔を見ると心なしか口角が上がって見える。来年も再来年もそのまた次の年も、幸郎くんにおめでとうを伝えたい。私の手を取ってくれてありがとうって言いたい。
世界中でたった1人の、私の春告人。
隣にいる大切な人が、その名前の通り幸せでありますように、そう願わずにはいられなかった。
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