「名前ちゃん」
背後から聞こえた柔らかな声に、ギクッと身体が反応する。私は錆びたブリキのおもちゃみたいに、極めてぎこちなく振り返った。
そこには、想像通り幸郎くんが立っていた。彼は口元に緩やかな笑みを浮かべたまま「ここにいたんだ」と歩みを進める。
「え、と…幸郎くん、あの…」
頭をフル回転させて言い訳を探す私の目の前まできた幸郎くんは、目線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。それでも、体格が良いせいでどこか威圧感めいたものは残ったままだった。どう言い訳しようという焦りと、私は悪くない、という気持ちが交錯する。目の前の幸郎くんが怖い。だって、微笑んでいるように見える幸郎くんの目は一切笑っていなかった。
今日は幸郎くんと一緒にお昼を食べる予定だった。
お決まりの非常階段の踊り場で待っていたけれど、幸郎くんは現れない。私はだんだん心細くなって、幸郎くんの教室へ行ってみようと立ち上がった。すると、視線の高さが変わったせいで向かいの校舎が目に入る。
特別教室が並ぶ場所、そこに見慣れた姿を発見した。何かを話しながら歩く幸郎くんに「まさか独り言…?」と目を凝らす。するとその隣に彼の体に隠れるような小柄な人影を見つけた。誰かは分からない。
だけど、ひらりと揺れるスカートが女の子であることを証明していた。私のこと待たせて、のんびり女の子と歩いていることにムッとする。大方こちらへ向かっているんだろうけど、私を待たせていることを何とも思ってないんだろうか。そう思うと、手すりを掴む手にぎゅうっと力が入った。
ちくちくもやもやする気持ちになった私は、お弁当を掴んでどこかへ行ってしまおうと画策する。木を隠すには森の中、灯台下暗し、そんな言葉が頭に浮かんだ。
少し立ち止まって考えた私は、よし、と一歩踏み出す。人に紛れるなら学食かとも思ったけれど、きっとそこじゃすぐに見つかってしまう。昼休みいっぱい幸郎くんから逃げ切りたかったから、非常階段を一階分降りて下の踊り場に座った。灯台下暗し作戦だ。いくら幸郎くんだって、一個下の階にいるなんて思わないだろう。私はそこで一人寂しくお昼を食べ始めた。
「あれ?」
少しして、上の階から幸郎くんの声がする。ビクッとしたけど、気配を消すようにジッとした。
「名前ちゃんどこ行ったんだろ」
そう呟いた幸郎くんがどこかへ去って行く音がする。私のクラスへ行ったのかもしれない。ちょっとだけ心が痛んだ。拗ねて子供みたいなことをしている自分が馬鹿に思えてくる。素直に「幸郎くんのこと待ってたんだよ」って言った方が良かったんじゃないかな。楽しくないことを考えながら食べるご飯は美味しくなんてない。
ご飯を食べ終えてもやることなんてないから、しゃがんだまま踊り場の柵の隙間から学校の敷地内に植えられた木々を見つめるくらいしかない。風に揺れる葉がざわざわする音が、私の気持ちと重なってどんどんブルーな気分が強まる。
幸郎くんが現れたのは、流石に寂しくなってきたときだった。ご機嫌では無さそうな様子の幸郎くんは、私に手を伸ばしてぐにっとほっぺを引っ張る。
「心配するだろ」
「…おえんぁあい」
「なんて?」
「ごえんああぃ」
「え?わかんないんだけど」
ほっぺを引っ張られてるせいで上手く話せない私に、幸郎くんはわざと意地の悪いことを言う。私の目が潤んできた所で、やっと手を放してくれた。
「かくれんぼの理由を聞かせてもらえる?」
「…待ってたのに…女の子といた」
正直に打ち明けると、幸郎くんは虚を突かれたように目を見開いて「やきもち?」と尋ねる。
「ち、ちがう」
「やきもちだ〜」
先ほどまでとは打って変わって嬉しそうな様子の幸郎くんは後退りする私を追うようにこちらにやって来る。直ぐに柵に背中が当たって動けなくなった。しかも幸郎くんが私の顔の両側にある柵の支柱を掴んだせいで、閉じ込められたみたいになる。しまった。逃げる方向を間違えた。
「今日日直だからペアの子と授業の後片付けしてただけだよ」
それで戻るの遅くなったんだよね、と幸郎くんはにこやかに告げる。
「日直?」
「そう日直」
「えぇ…」
なにそれぇ、と脱力してしまう。私、一人でから回ってただけってこと?
「俺が他の女子といるの嫌なんだ?」
その言葉に拗ねた顔をして無言で頷く。
「うわー…持って帰りたい」
「なにを?」
「ん?こっちの話」
幸郎くんがおいで、と両手を広げた。私は遠慮気味に抱き着いた後、思い切って顔を押し付けるみたいにギュッと彼に引っ付く。
「あんまり可愛い事すると本当に持って帰っちゃうぞ〜」
そんな名前ちゃんはしまっちゃおうね、と幸郎くんがぎゅっと強く私を抱きしめた。
「苦しいよ」
「聞こえないな〜」
「聞こえてるじゃん」
「ほんと、名前ちゃんには敵わないや」
私が幸郎くんに勝てたことなんて一度もないんだけど、何故かたまに幸郎くんは私には勝てないと言う。詳しく掘り下げてみたい気もしたけれど、それよりももう少しだけ、幸郎くんにくっついていたかった。
あのね、幸郎くん。私、幸郎くんにならしまわれちゃったっていいって思ってるんだよ。
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