寝顔


その日、昼神幸郎は当初の予定よりも遥かに遅い時間に帰宅した。
朝から予防接種だなんだと予約の多い日ではあったが、飛び込みで飼育人口の少ない珍しいペットがやってきたりして、果たしてこの子をどう診察したものかと先輩獣医師と頭を悩ませるなど簡単ではない対応に追われる一日だった。息つく暇もなく忙しい日というのはままあるものだ。ただ、勤務時間終了間際にやってきた急患に「残業確定」の4文字が頭を過ったのは、医療に携わる者として正解だったのだろうかと幸郎は少し自嘲した。
処置を終えて容体が安定したことを確認し、ようやっと肩の力を抜けた頃には、日はとっぷりと暮れ夜空に星が煌めいていた。あぁ、まただ、と幸郎は先輩におごってもらった缶コーヒー片手にため息を吐いた。院内の固いソファーにどっかりと座って、プルタブを開ける。また、彼女との約束を反故にしてしまった。存在すら忘れていたスマホをポケットから取り出すと、ディスプレイに浮かぶ兄姉からのメッセージをはじめ様々な通知の中に、彼女の名前を見つけた。迷わずそれをタップするとメッセージアプリが立ち上がる。『お仕事遅くなりますか?先に休んでいます。気を付けて帰ってきてね』あくまでこちらを気遣うメッセージにチリッと胸が罪悪感に痛む。今日は彼女と二人で小洒落たレストランにでも行って、帰りにイルミネーションを眺めて帰ろうと思っていた。そんなささやかなデートでも、彼女はとても喜んでくれると幸郎は知っている。もう少しわがままを言ったって叶えてあげられるよ、と思うけれど「一緒にいられるだけで嬉しい」という彼女の気持ちはありがたくもあった。

「帰ろ…」

ガコン、と空になった缶を捨てる音がひとけのない院内に大きく響く。疲れた体を叱咤して、幸郎は帰路についた。

「ただいま」

玄関を開けると部屋の電気は既に落とされていた。彼女の気配を感じられない空間で、玄関にちょこんと揃えられた幸郎のモノよりも小さな靴が彼女の存在を示していた。大きな音を立てないように意識しながら室内に入ると、ベッドに膨らみを見つけた。規則正しい呼吸も聞こえてくる。荷物を置いてそっと近寄ると、すやすや眠る名前の姿が目に入った。毎回、とまでは言わないがそこそこの高確率で彼女との約束を反故にしてしまう。理解のある彼女は仕事だから仕方ないよ、と言うけれど、こうして眺める寝顔に時折泣いた跡があることを、幸郎は知っていた。寂しい思いをさせているのだと申し訳なくなる。
カレンダー通りの勤務形態の彼女と、シフト制の自分とでは、どうしてもすれ違いが起きる。それを少しでも解消するために合鍵を渡していつでも家に来て良いと言い含めているのだ。例え寂しい思いをさせていても、名前の手を放すことができないのは、幸郎も自分でよくわかっていた。きっと名前が自分から離れようとしても、嗅覚に秀でた獣のように彼女を見つけ出す自信が幸郎にはある。言葉で説明するのは難しいけれど、小さな彼女の手が幸郎の手を取ってくれた瞬間の震えるような歓喜を幸郎は忘れられずにいた。ベッドの中の彼女は、相変わらず静かな寝息を立てていて、その寝顔も変わらず穏やかだった。自分に怯えていた頃のあの表情が嘘みたいだと、幸郎は軽く指先で頬をつつく。幸郎のベッドで、幸郎のTシャツをパジャマ代わりにして、幸郎が居なくて寂しいと泣きながら眠る名前。
「名前ちゃんて、ほんとに俺のこと好きなんだね」
言葉にしてみると、燃えるように胸が熱くなる気持ちがした。振り向いて欲しいと願って、強引に自分のそばに置いて、今となっては彼女も自分を想ってくれている。幸せだな、と幸郎は思った。名前ちゃんがそばにいてくれて幸せだと。自分だけの、変わらないもの。頬をつつかれる名前が顔をしかめたのを機に、幸郎は立ち上がり浴室へ向かった。彼女は「お湯に浸からなきゃ疲れが取れないよ」と言うだろうけど、早くシャワーを浴びて彼女の横に行きたい。折角名前が、幸郎が眠る為のスペースを空けて眠っているのだから。
明日名前が目覚めたら、まずその寝癖をからかって、一緒に朝食を作って、近場の足湯にでも行こう。そう計画を立てながら、幸郎はどこか明るい気持ちで脱衣所の扉を閉めた。





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