キスにまつわる話 偽物期
「…っ」
私が呼吸を止められる時間なんてほんの僅かなもので、すぐに息が苦しくなってしまう。唇が触れ合ってからあっという間に限界を迎えた私は、トントンと彼の胸を叩いて「放して」とアピールした。
「ぷは」
「名前ちゃんなんで息止めちゃうかな〜」
鼻で呼吸するんだよ、と以前と同じことを言われるけど、わからないものはわからないんだから仕方ないと思う。こればっかりは慣れの問題だと思う。だけど、この行為に慣れてしまうのは、それはそれでどうなんだろうという思いもあった。
「練習するしかないね」
幸郎くんは笑いながら私の髪を耳にかけてくれる。私は内心「なんで練習しないといけないの」と反発心を抱いたけれど、それを幸郎くんにぶつける勇気は無かった。
大体私は彼女役であって彼女ではない。こうしてキスをするのはやっぱりおかしいと思う。幸郎くんって、好きでもない子にキスをするの平気なんだなぁと思った。初めてじゃないからなんだろうか。幸郎くんが初めてじゃなくても、私は初めてだったし、やっぱりこういうことは好きな人とするのが良い。口で幸郎くんに勝てたことなんてないけれど、やっぱりおかしいことは訂正したほうがいいよね、と意を決して口を開いた。
「幸郎くん」
「ん?」
「…幸郎くんって、好きじゃない人とキスをするの平気なの?」
「急にどうしたの」
「やっぱりおかしいと思う」
こういうことするの、と幸郎くんを見つめる。
「嫌?」
幸郎くんは静かに私を見つめ返してくる。
「嫌って言うか…」
嫌というより納得できないの方がしっくりきた。
「名前ちゃんは俺の彼女だよね」
「ううん」
「…俺の彼女してくれるって言っただろ」
「でもそれは、“フリ”だし…」
私が食い下がると、幸郎くんはそっと両手を頬に沿えて私の顔を持ち上げる。
「名前ちゃん、“フリ”っていう中途半端な気持ちで一緒にいるんだ」
「中途半端って…」
あれ、なんか雲行きが怪しい。
「大丈夫。ちゃんと名前ちゃんも俺の“彼女”って思えるように練習しようね」
「や、やだぁ」
機嫌を損ねた、と気がついた時にはもう遅かった。既に私の顔を掴んでいた幸郎くんは、もう一度私の唇を塞ぐ。そして、ゆっくりと角度を変えて何度も口づけた。
今までは、口と口をくっつけるだけだったけど、今日は唇を彼の唇で優しく挟まれたり、なんかちょっと違う。おまけに、息継ぎの為に口を開いた瞬間に知らない感触が滑り込んだ。何か柔らかくて質量のある、少しざらついた質感のモノが私の口内を動く。
「ん゛?!」
驚く私を落ち着かせる為か、幸郎くんはそっと私の頭や背中を撫でた。そんなことされても落ち着けるわけなんかなくて、私は腕を突っ張って幸郎くんから離れた。その勢いでコロンと床に転がってしまう。
「いたい…」
「頭ぶつけたんじゃない?」
幸郎くんはあーあ、という表情で転がる私の上に覆いかぶさる。しまった、余計に逃げ場がなくなってしまった。
「口開けて」
「やだ、やだよぉ」
こんなのおかしい。こんなキス知らない。幸郎くんは、本当の彼氏じゃないのに。
私の上に覆い被さる幸郎くんは、上から光を浴びているせいか逆光みたいになっていて表情が翳って見える。
「“恋人”がすることを、名前ちゃんは全部俺とするんだよ」
今日一番優しい声色で言い聞かせるみたいに言われた言葉に瞳が潤んだ。嬉しいからじゃない。怖かった。
優しい声の主は私の顎にそっと手を添えて、昔見た眠り姫に口付ける王子様みたいな恭しさで床に転がる私にキスをした。眠り姫みたいにこれで目が覚めて、なにもかも全部夢だったらいいのに。
そう願うけれど、私は眠りから覚めることなんてなく、捻じ込まれる舌の感触に体を震わせるしか出来なかった。
キスにまつわる話A 交際中 高校生
「ん…」
「あーあ、取れちゃったね」
せっかくの色付きリップ、と幸郎くんはにこやかに言う。取った張本人のくせにどうしてそんな他人事みたいな顔ができるんだろう。
バニラの香りの、ほんのりピンクに色づくリップ。折角塗っていたのに、幸郎くんがしつこくキスするからすっかり取れてしまった。
「せっかく塗ったのに…」
「俺の前では塗らなくていいよ。どうせ取れちゃうから」
「なにそれ」
「はい、んってして」
幸郎くんに唇をんっとするように言われて、素直に応じる。すると、幸郎くんのメンソレータムのリップをぐりぐりと塗られた。
「スース―する…んっ」
特有のスースーする感じを嫌がっているとまたスタンプを押すみたいに唇を押し付けられた。
「…ん、これで俺にも付いた」
おそろいだね、と幸郎くんは笑う。幸郎くんの喜ぶポイントって、まだよくわからない。でも、その笑顔が子供の頃みたいに無邪気だったからちょっとキュンとしてしまう。キュンとした気持ちのままそっと手を伸ばして、幸郎くんを引き寄せる。
「名前ちゃ…」
ちゅっと、可愛らしい音を立ててリップを分け合った唇にキスをした。幸郎くんは目を丸くした後、ニッと笑って「名前ちゃんもう一回」とリクエストする。
「特別だよ」
「うん」
甘えるように鼻同士をすり合わせてノーズキスをすると、幸郎くんが「名前ちゃん」と私を急かす。私は大好きだよのノーズキスが好きなんだけど、幸郎くんはそこまでじゃないみたいだ。
ちゅっともう一度キスをすると幸郎くんはまた嬉しそうな顔をした。
そんな顔されると、もっとキスしてあげたい気分になるんだけど、それを知られたらちょっと面倒なことになりそうだから、代わりにほっぺにキスをしてあげた。
キスにまつわる話B 大学生
馴染んだ感触がこめかみに触れる。それは、そのまま瞼に触れて鼻先を掠めた。更に頬を撫ででついでに耳の後ろにも寄り道する。私はくすくす笑いながら彼の唇が目的地にたどり着くのを待った。
「くすぐったい」
「そう?」
じゃあキスしちゃおう、と幸郎くんは優しく笑って最終目的地である唇にキスを落とした。私は素直にそれを受け入れてはむっと、彼の唇を食んだ。
「食べられちゃった」
「ふふふ」
傍から見たらバカみたいなんだろうけれど、そんなやり取りが愛おしい。選手交代とばかりに、私も幸郎くんの額に口付ける。
そして、凛々しい眉毛と、丸い瞼に優しく触れた。幸郎くんも小さな笑い声を漏らしながらそれを受け入れる。シャープなラインのほっぺと首筋にちゅっとキスをして、いつも意地悪を言う唇に着地した。
「ん?!」
すぐに離れようとしたけれど、大きな手に後頭部を抑えられて逃げられない。苦しくなってつい開いた隙間から舌が滑り込む。
「んぅ、ちゅ、ん」
いつから、なんてわからないけれど、いつの間にか深いキスにも慣れていた。どうしたら良いかすっかり覚えてしまったけれど、たまに、どの人のキスもこんな感じなのかな、なんて思ったりする。でも幸郎くん以外の人とこんな事しないから、きっと知りようなんてないんだろう。
唇を放してぎゅっと顔を幸郎くんの胸に埋める。我ながらちょっとコアラみたいだ。
さっきまでじゃれていただけなのに、なんだか変な雰囲気になってしまった。
「名前ちゃん」
私を呼ぶ声が艶を含んでいる気がして、顔を上げられない。だってきっと、目が合えば始まってしまうから。何回したって慣れないことはあるんだって身をもって知ってしまった。
キスだけにしてって言ったら幸郎くんは聞き入れてくれるかな、なんて思いながら私はぎゅうと抱きつく腕に力を入れた。
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