同じ共同獣医学部に通う昼神くんは、学部で一番身長の高い男の子だった。
バスケでもしていたのかと思いきや、バレーボールの方だという。意外だと言ったら「その反応なんか新鮮だな〜」と笑っていたのが印象に残っている。もしかして、高校まで昼神くん=バレーボールみたいになっていたんだろうか。案外高校までって狭い世界だし。彼の新しい世界の始まりに立ち会った気分は、なかなか良かった。
昼神くんは動物への愛情が深くて勉強熱心だった。バイトにも精を出していて、偉いなぁとシンプルに尊敬できる。それに、物腰が柔らかくて人当たりもいいし、真面目なだけじゃなくて冗談も言う。容量もよくて、煮詰まった課題にアドバイスをくれたりと頼りになった。次第に、彼に惹かれている自分がいた。優し気な彼の目元が素敵に感じる。周りの男子のように、彼を幸郎と呼び捨てにする頃には、完全に彼を好きになっていた。関係性は悪くないと思う。連絡をすれば、必ず返事はくれるし付き合いも悪くない。なにより彼は優しかった。
恋のときめきに胸を膨らませていたある日、バイトが長引いて帰りが普段よりも遅くなってしまった。少しでも早く帰ろうと、普段通らない道を選んだ。早足に歩いていた道中、ラブホテルの前を通りかかった時にちょうどカップルがそこへ向かっているのが見えた。お盛んなことで、と心の中で吐き捨てていると「待って、幸郎くん」と彼と同じ名前が聞こえる。思わず足を止めてカップルを見ると、幸郎が女の子とそこに入っていくのが見えた。
衝撃にその場に立ち尽くす。今見たものは本物だろうか。確信が持てない。よく似た人かもしれない。でも、あの身長はそうそういない。彼女がいるんだろうか。でも彼女とあんな場所に入るのかな。彼ならもっと、ロマンティックな場所に連れて行ってくれそうな気がする。じゃああの子は何?あの日だけの関係?そういう処理であの子といたなら、私でもいいんじゃないの。答えの出ない問答を繰り返しながら、私は週明けまで落ち着かない気持ちで過ごすことになった。
月曜日の彼はいつも通りの爽やかさで、やっぱり週末のアレは勘違いだったのでは、と思った。
「あの、さ」
「どうかした?」
「幸郎、週末の夜○○のあたりにいた…?」
「あ、もしかしてホテル入るとこ見た?」
「え、うん」
あっさりと認めたことに驚く。
「たまにはそういうこともあるよね」
何でもないように言う彼が、突然生々しく感じる。この人にも人間の三大欲求が備わっているのだと。
「あれって彼女?」
「うん」
肯定のみを私に与えて、それ以上彼は言葉を紡がなかった。強く想う相手なら、多少惚気たりするものじゃないんだろうか。マンネリ?それとももう別れそうなのかな、希望的観測だけど、なんとなくそう思った。私の付け入る隙、あるのかもれない。淡い期待が実を付けた。
再び幸郎と彼女を見かけたのは、それからさほど日が経たない天気の良い日の事だった。
川沿いの道を自転車で走っていると、河川敷に見知った姿を見つけた。斜面の下のあたりにゆったりと座って川の方を眺める後ろ姿。間違いなく彼だと思った。
こんな所で会えるなんてラッキーだと、反射的に自転車を邪魔にならないように停めて、河川敷の斜面を駆け降りる。
「幸郎!」
その背中に呼びかけると、ゆっくりこちらを振り返った彼が少し驚いたように私を見た。
「どうしたの」
「バイト帰りなんだけど、幸郎見つけたから」
降りてきちゃった、と言えば「良く気付いたね」と彼は明るく笑った。二人きりの今がチャンスなんじゃないかと思った。隣に座って口を開く。実習先の希望を同じ場所にしたいと思っていたのだ。そしたら、少しでも長く一緒にいられるから。
「ねぇ、こないだの実習先の希望なんだけど、」
よかったら同じとこ希望しない?と続くはずだった言葉は「きゃあ!」という悲鳴に邪魔された。
声のした方を見ると、同世代らしき女の人が大型犬に押し倒されている。大丈夫だろうか、と眺めていると、彼女はあはは!と軽やかに笑って砂を払いながら立ち上がる。そしてすぐに走り出した。その背中を大型犬も嬉しそうに追いかける。追いかけっこをしているのかと、そこでやっと理解した。
ふと横を見ると、幸郎が立ち上がる途中みたいなポーズで止まっているのに気がついた。
「どうしたの…?」
「助けたほうが良いかなって」
「あぁ」
そういうことね、と納得してもう一度口を開こうとした時また「わーっ!」っと声がした。見るとまた転んでしまったようで、彼女の周りを跳ねるようにぐるぐる回る大型犬の姿に彼女はまた軽やかに笑っていた。ふと、隣の気配が動いた。
ん?と思った時には「おーい、名前ちゃん」とのんびり名前を呼びながら幸郎が転んでしまった女の人へと駆け寄る。
そして、手を差し伸べて彼女を立ち上がらせた。仕方ないなぁ、と聞こえてきそうな苦笑いで砂がついた部分を手で払っている。
「痛っ、痛いよ幸郎くん」
「我慢して」
「コタロウちゃん、幸郎くんが痛いことする〜」
「ひどいな〜砂はらってるだけなのに」
幸郎は指先で彼女の鼻をきゅっと摘まんだ。くすぐったそうに笑う彼女に、幸郎もつられて笑う。あの時の彼女だ、と苦々しい想いが胸に広がった。あの子がいなければ、自分が選ばれるという根拠に乏しい自信が何故だかあった。
「またね〜」
なにやら、話をしていた彼らは、大型犬にリードを付けて立ち去っていく。彼女が私に向かってぺこりと頭を下げた。行かないで。私の話、まだ終わってないのに。二人の間の繋がれた手が羨ましくも憎たらしかった。
彼女の存在を、彼が何故あまり表に出さないのかが引っかかっていた。堂々とは聞けないから、それとなく同じ学部の男子に話を振ってみる。
「そういえばさあ、こないだ幸郎が女の子と犬の散歩してるの見たんだよね」
「あぁ、彼女だろ」
高校から付き合ってるらしいぞ、とあっさりと彼は答えた。
「えっ、」
「お前知らねぇの?有名じゃん」
写真は見せてくんねぇけどと彼は言う。
「…私知らなかった」
「あー…なんか見せびらかしたいタイプじゃないみたいだな」
あいつ、大事なものはしまっときたいって言ってたし。と言われて、心が折れた。彼が多くを語らないのは、彼女を自分だけのものにしておくためだったんだ。完敗だと思った。辛うじて願い叶わず、とかじゃなく最初から勝負にも挑めないくらいの負け。淡い期待が、砂のようにさらさらと散っていく。掌中の珠のように扱われる彼女を羨みながら、私はそっと失恋の痛みに浸った。
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