浮気疑惑(大人)


呼吸が止まったような気がした。
いや、実際止まっていたのかもしれない。
吸った酸素を二酸化炭素として吐き出すことも忘れた私は、ただじっと駅前のロータリーから走り去る車を見送っていた。その瞬間はまるで全てがスローモーションで、笑顔で乗り込む女性の姿も、彼女に笑顔で言葉をかける彼も、助手席のドアがパタンと閉められる様子も、鮮明に瞼に焼き付いている。
車が視界から走り去った途端、他の車の音や人の話し声が急に戻ってきたような錯覚に襲われた。
それまでは驚くほどに無音の世界で、私はただ目を見開いて立ち尽くすことしか出来なかったのだった。

あなたの助手席は私だけのものだと思っていたと言うのはわがままだろうか。
買い物帰りに夕暮れの駅前で見慣れた車を発見した。幸郎くんだ!とすぐさま気がついた私は、何してるのかな、なんて気軽に考えながらバス停へ向けていた足をそちらへ方向転換する。運転席でスマホを見る幸郎くんが見えたところで車に駆け寄ったのは見知らぬ女の人。彼女は私のはずなのに、不思議なことにギクッと体が固まってしまった。これじゃ私の方が浮気相手かなにかみたいだ。
笑顔で幸郎くんに手を振る彼女に気が付いた彼は、わざわざ運転席から降りて助手席のドアを開けた。いつも、私にしてくれるみたいに。彼女は軽く頭を下げて助手席に乗り込む。そして幸郎くんも運転席へと戻った。私には一切気がつかないまま。
彼らが視界からいなくなって初めて手首に痛みを感じた。ふと、視線を手首に向けると買い物袋が食い込んで赤く染まっていた。どうしてだろう。それがどうしようもなく惨めに思えてしまった。
なんてことない話だ。その人は誰?そう聞けばいいだけの話。だけど、最近仕事がトラブル続きだったせいで疲弊した心が、ちょうど生理と重なった時期の悪さが、今日は会えないと断られていた事実が、幸郎くんが私以外の女の人を助手席に乗せたと言う現実が、いとも簡単に私を追い詰めた。
バッグからスマホを取り出し、慣れた手つきで幸郎くんの連絡先を表示する。画面をスクロールして赤い文字をタップした。
"着信拒否"
誰かを着信拒否するなんて初めてだったけど、思いの外簡単なんだなと思った。同じようにメッセージアプリもブロックする。これもまた、想像よりもずっと簡単だった。
今の精神状態じゃどんな連絡が来たって傷つくとわかっていた。幸郎くんをシャットダウンすることも最善じゃないともわかっていたけど、自分の心を守ることが今は何よりも重要なことだった。
当たり前に鳴っていた幸郎くん専用の着信音が鳴らない夜は本当に久々だった。当然だ。拒否してるんだから。お風呂あがりに髪の毛を乾かしながらうんともすんとも言わないスマホを見つめる。「ずっと一緒だよ」って口約束なんて儚いものなんだって知りたくなんかなかった。鏡越しにこちらを見る私は、涙が溢れないようにか、やけに目元に力が入って面白い顔になっていた。それがおかしくって、ふと泣き笑いの表情に変わる。全てを失ったような気分の時も意外と笑えるんだ、と思いがけない発見をしてしまった。一体なんの役に立つのかはわからないけれど。
どんなに悲しくても仕事には行かなきゃいけない。仕事に行けるあたり、本当はまだ自分が見たものを現実だと思えてないのかもしれなかった。いつも通りの仕事を終えて職場を出る。別れ話をせずに彼をシャットダウンしたことを幸郎くんは怒るだろうか。そんなことを考えていると、スマホが震える感覚がした。弾かれたみたいにスマホの画面を確認する。拒否してる幸郎くんから連絡が入るわけないのに。

「星海くん…?」

珍しい人物からの着信に首を傾げる。どうしたんだろう、と画面をタップした。

「もしもし?」
「苗字、久しぶりだな。元気か?」

変わらない星海くんの声。ホロリ、絡まった糸が解けるみたいに涙が溢れた。泣いているのを悟られまいと、普段通りを心がけて返事をする。

「元気だよ。星海くんこそ元気?」
「おう。そりゃな」
「良かった」
「その、だな…なんか、変わったことないか」
「…何も無いよ」

探られてると思った。幸郎くんの差金に違いない。連絡が取れなくなったともう気が付いたんだ。きっと星海くんに相談したに違いない。
他愛もない話をして星海くんは電話を切った。きっと幸郎くんに報告がいくはずだ。幸郎くんはどうするつもりなんだろう。正面切って別れ話をしに来るんだろうか。
ひやり、雨粒が頬を濡らす。私は傘をさすのも忘れて駅へと重たい足を引きずって歩いた。
雨に溶けて私も排水溝に流れてしまいたかった。
獣医師として多忙を極める幸郎くんが直接会いに来るようなことはそうそう無いと踏んでいた。その時点で私は幸郎くんの気持ちを軽く見積もっていたのかもしれない。

「名前ちゃん」
「…幸郎くん」

着信拒否から数日後の金曜日。少しの残業をこなして職場を出た私を待っていたのは、嫌と言うほど見慣れた大好きで仕方ない人だった。
幸郎くんは私の終業時間を知っているとは言えどのくらい待っていたんだろう。

「わけを聞かせてもらいに来たよ」

にこやかな顔に反して声は重たい。怒っているオーラが全身から出ていた。

「…今は話したくない」
「時間をおけば話すの?」
「…多分」
「多分ってなに。うやむやにするつもり」
「違うよ」

ピリピリした空気に泣き出しそうになる。でもグッと堪えて幸郎くんと対峙した。泣いたって解決しないってわかってる。

「…送るよ」
「いい」
「名前ちゃん?」

私のために仕事に都合をつけてくれたことは察していた。でも車に乗りたくなかった。助手席を見たくない。

「乗りたくないの」
「今日はわがままだね」

ため息混じりの声にカッとなってしまった。

「わがままなの?他の女の人が乗った助手席に乗りたくないのはわがままなの?」
「は?」

私の大きな声に、幸郎くんはビックリしたように目を見開く。ボトムのポケットに入れていた手を出して何か思案するみたいに口元を覆った。

「…もしかして、他の女の人を乗せたって怒ってたの?」

無言で幸郎くんを下から睨みつける私に彼は、「そういうことか〜」と脱力したように笑い出す。

「着信拒否にブロックまでされて何事かと思ったら、あははっ」
「わ、笑い事じゃないもん」
「いやもう、名前ちゃん俺のことすっごい好きだな〜」
「なによぉ…」

心底おかしそうに笑い始めた幸郎くん。わけがわからない。

「どこで見たの?」
「駅前…」
「俺のこと浮気野郎だと思ったんだ?」

口をへの字にして頷く。幸郎くんはまた笑って「残念。俺は名前ちゃん一筋」と言った。

「お義姉さんを駅に迎えにいったんだよ」
「おね、え?おねえさん…?」
「兄ちゃんの奥さん」
「お、くさん…それじゃあ….」

空いた口が塞がらなかった。
それじゃ、私今日まで完全に独り相撲してたってこと?!と顔から火が出そうだった。

「うん。勘違いだね」

やーい!と聞こえてきそうな表情で幸郎くんが真実を告げる。「あ、証拠写真見る?」とのお言葉付きで。
お尻のポケットからスマホを取り出した彼が、何か操作をして私に画面を向ける。画面にはタキシード姿のお兄さんとお兄さんに寄り添うようなドレス姿のあの日見た女性が写っていた。

「…帰る」

よろり、と歩き出した私の肩を、ガシッと大きな手が掴む。

「みすみす帰すと思う?」

いいえ、と答えるまでもなく駐車場へと引っ張って行かれた。

「浮気の疑いも晴れたし乗ってくれるよね?」

にっこり笑う幸郎くんが今日ほど怖い日があっただろうか。助手席のドアを開けて、レディファーストされる。尻込んでいると「早く」と急かされたので、慌てて助手席へ収まる。
幸郎くんもすぐに運転席へと収まった。そしてすぐに「着信拒否とブロック解除して」と言う。私はカバンを漁ってスマホを取り出し、手汗に滑る指で設定を元通りにした。

「解除できた?」
「うん…きゃあ!」

私の返事を聞くなりこちらに体を近づけた幸郎くんが椅子のレバーを引いて助手席の椅子を限界まで倒した。つられて私も仰向けに倒れる。鞄が足元に転がり落ちる音がした。

「俺すっごい傷ついたな〜」
「あの、幸郎くん本当にごめんなさい」
「そんなに信用なかったんだ」
「そう言うわけじゃ、」
「じゃあ何?」
「…ごめんなさい」

私に覆い被さるようにしながら、にっこりと明るい声で言う内容は全然明るくない。お怒りは絶賛継続中らしい。

「お詫びになにしてもらおっかな」

楽しそうに言いながら幸郎くんの手が内腿に触れる。それがなんの合図かよくわかっていた私は、咄嗟に「こんなところでダメだよ!」と首を横に振った。

「そう?案外バレないんじゃない」
「だ、ダメだよ」
「じゃあ何処ならいい?」
「それ、は…幸郎くんのお家とか…」
「俺の家ならいいんだ?」
「うん」

私が首を縦に振るのを見た幸郎くんはニヤッと意地悪く笑って「言質取った」と体を起こす。
誘導尋問だった、と気づいた時にはもう遅い。

「あ、そうだ」

幸郎くんはふと思い出したようにまた私に覆い被さって優しく唇を重ねた。その温もりをまたこうして受け止められることがどうしようもなく胸を熱くする。

「幸郎くん…」

両手を伸ばして幸郎くんを引き寄せる。そして私から唇を押し付けた。ごめんね、とか大好きだよ、とか気持ちを込めたキス。

「帰ろっか」
「うん」

倒した椅子を戻して、転げたカバンを拾う。
拾う時に屈んだせいで襟元から転がり出たネックレスを見て幸郎くんが微笑んだ。

「俺のこと浮気野郎って怒ってたのに俺があげたネックレスしてたんだ?」
「…怒ってたけどそれでも好きだもん」

一縷の望みをかけるように、お守りみたいにこの数日間身につけていた。幸郎くんはそっとネックレスに触れたかと思うと、すぐに車のエンジンをかけた。



「ん…」

眩しいものが瞼を刺激した気がして、ゆっくり目を開ける。自分の部屋のものではないけれどよく知った色の寝具に、そうだ幸郎くんのお部屋だ、と昨夜のことを思い出した。どうやらカーテンの隙間から差し込む太陽光が瞼を刺激していたようだった。

「さち、ろく、」

名前を呼ぶとケホッと軽い咳が出た。喉が枯れている。昨日たくさん「ごめんなさい」と「好き」を言ったからかもしれない。

「あ、起きた?」
「ん、」
「起きあがんなくていいよ」

体きついだろ、と幸郎くんがベッドへ腰掛ける。きつい原因幸郎くんなんだけどなぁ。

「幸郎くん」
「なに」
「大好きだよ」
「ありがとう」

俺は愛してるけどね、と幸郎くんは笑う。その顔はもう怒ってはいないようだった。その辺は昨日ちゃんと話をしたし怒ってなくて当然と言えば当然なんだけど、ホッとしてしまった。

「今更、放してなんかやらないよ」
「…うん」
「名前ちゃん意外と嫉妬深いから気をつけないとだ」

そう言って笑う幸郎くんの腕をペシッと叩くけどノーダメージって感じだった。

「もし次俺に疑いを持った時は、どんなに気持ちが荒れてても1人で抱えないで俺に全部ぶつけにきてよ」

拒否されるのが一番堪える。と幸郎くんは私の心臓の音を聞くみたいに耳を胸元に当てた。

「わかった」

ぎゅ、と幸郎くんの頭を抱えると「そういや光来くんに謝らなきゃな〜」と軽く言うものだからハッとする。そうだ、星海くん。わざわざ電話までくれたのに全て私の勘違いだったなんてどう謝ったらいいんだろう。

「なんて言えば…」
「そのままで良いんじゃない?」

あわあわ、とする私に対して幸郎くんは落ち着き払っていて「大丈夫だよ」と宥めるようにキスをした。
その後、幸郎くんと2人で星海くんに電話をかけたところ「ほんっとうになんなんだよお前ら!」とお怒りの声を頂いてしまった。
本当にごめんね星海くん。今度帰省した時に美味しいものをご馳走するから、どうにかそれで手を打って下さい。





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