過去の影


柱の陰からそっと向こうの様子を伺う。私の存在に気がついていない二人は、静かな様子で話を続けていた。
言語化することのできない気持ちが私の内側で渦巻いている。あの人の顔をまた見る日が来るなんて思ってもみなかった。幸郎くんとあの人の間に流れる空気は決して親しい友達のソレじゃない。もっと淡白でしっとりしていて割り切った雰囲気。それがまた私の気持ちを乱す。
今日は幸郎くんと映画を見る予定だった。朝から張り切って髪をセットして、メイクも頑張って、服だって昨日鏡の前で1時間くらい悩んで決めた。そんな楽しみにしていたデート。
待ち合わせ場所に幸郎くんの姿を見つけて駆け寄ろうとした時、女の人が彼に話しかけるのが見えた。その横顔を見て、咄嗟に近くにあった柱の陰に隠れてしまった。心臓が急に苦しくなる。なんで。なんでいるの。
私は彼女のことを知っている。中学のひとつ上の先輩。スタイルが良くて清楚でサラサラの髪がきれいな、美人で有名な人。
幸郎くんの、ハジメテの相手。
スーーッと指先まで冷えていく感覚がした。
わかっている。私が泣こうが喚こうが事実は覆らないし、一生幸郎くんの記憶からその出来事は消えることは無い。一生、彼の頭の片隅に彼女は居座り続けるのだ。
交際する前の出来事に文句をつけてもどうしようもないと理解している。でも、理性とは別の部分が、悲しいと叫ぶ。
柱の陰から飛び出していって「幸郎くんに近づかないで!」なんて言う度胸は無い。ただひたすら、早く立ち去ってくれることを祈る。
そんな張り詰めた空気を、ポップな着信音が切り裂いた。発生源は私のカバンの中。慌てて携帯を取り出すと、画面には幸郎くんの名前が表示されていた。慌てていたせいで間違って電話を切ってしまう。うっかりマナーモードにし損なっていたようだ。結構な音量があたりに響いてしまった。
そーっと柱の陰から顔を出すと、幸郎くんがばっちりこちらを見ていた。着信音で居場所がバレるなんてなんて間抜けなんだろう。おろおろしている内に幸郎くんがこちらに駆け寄ってくる。

「名前ちゃん」
「あ…えっと、」
「遅いから心配した」
「…ごめんなさい」

だって、2人の間に入って行けなかったから。とは口にできなかった。行こう、と幸郎くんが私の手を取る。その横顔がなんだか少し、ご機嫌斜めな気がした。

「昼神くん」

いつの間にそばに来ていたのだろう。先輩が幸郎くんの名前を呼ぶ。

「まだなにか?」
「…その子が彼女?」

そう問いかけながら彼女は私のことを上から下まで観察するように見た。
そして、フフッと笑う。それが「勝った」という笑みであることはいくら幸郎くんにぼんやりさんと言われる私でもわかった。
マウントを取られた!?と衝撃を受ける私に近づいて、彼女は幸郎くんに聞こえない音量で囁く。そしてにっこり笑い「じゃあね」と去っていった。ぶわっと目に涙の幕が張る。

『昼神くん、凄く上達が早かったのよ』

何がとは言わなかった。でも、何のことかわかってしまった。
内臓が燃えてるみたいに熱い。悔しい。あの人の存在が嫌で仕方ない。

「やっとどっか行ってくれたな〜。… 名前ちゃん?」
「…帰る」
「どうしたの?」

何か言われた?と幸郎くんが肩を抱きよせる。

「…触んないで」

今は、今だけは、幸郎くんのことも嫌だった。手を振り払って足早に歩きだす。大股で歩いたって私の歩幅なんてたかが知れてるから、すぐに追いつかれた。

「映画どうするの」
「…行かない」
「…何が気に入らないのか言わないと分からないよ」

何がって、何もかもだ。
マウントを取られたことも、幸郎くんがいつも通りなことも、こんなことで腹を立てている私自身も。

「…知ってるの」

口から出た声は掠れて力が無かった。

「幸郎くん、あの人と関係持ったことあるんでしょ」

あの頃、あの人自慢してたから知ってるの。へにゃへにゃの弱々しい声で打ち明けると、幸郎くんは「えっ」と驚いた後、焦ったような顔をした。
私に知られていることを知らなかったらしい。無理も無いだろう。きっと幸郎くんは誰にも言ってないから。まさか先輩の方が口を滑らせてるなんて考えもしていなかったんだろうなぁ。

「あー…その、名前ちゃん。…ごめん」
「…謝って欲しいわけじゃないよ。付き合う前のことだし、あの頃、それを知った時も、私何とも思ってなかったの」

だってまだ、幸郎くんのこと、友達としか思ってなかったから。
俯いたまま、必死に言葉を紡ぐ。頑張らないと、泣き崩れてしまいそうだった。

「でも、今は、嫌。終わったことってわかってるけど、姿見たらやっぱりやだよぉ…」

ポロッと、ついに涙の幕が決壊した。
ポロポロと壊れた蛇口みたいに涙が零れる。
どうしようもない事にやきもち焼いて泣くなんて小さい子じゃあるまいし、と情けなくなる。きっとあの人は、こんなことで泣いたりしない。
零れ落ちていく涙を幸郎くんがハンカチを出して拭いていく。

「…あの時は、近い将来名前ちゃんを傷つけることになるなんて考えて無かったんだ」

そんな余裕もなかった。と幸郎くんは静かに思い出すように言った。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、幸郎くんを見上げる。

「…私が、幸郎くんと付き合う前に誰かと経験してたとしたら、ど「ありえない」え?」

仮定の話をしようとした途中で言葉を遮られた。

「仮定でも、そんなこと絶対起きないよ」

名前ちゃんが誰かと関係を持つ前に、俺が無理やりにでも抱いてたと思う。と幸郎くんはまっすぐな瞳で宣った。
怖い、と声に出そうになって咄嗟に堪える。久々に幸郎くんの怖いところに触れた。ヒヤリと背筋が冷える。自分がしてることを、私には仮定であっても許さないなんてわがままだと思った。

「わがままだよ…」
「俺は名前ちゃんに関してはわがままだよ」

悪びれもせずにとんでもないことを言いながら微笑む幸郎くんに何故か安心感を覚えた。わがままに私だけを求める幸郎くん。

「あの人、さっき『昼神くん、凄く上達が早かったのよ』って、言っ、うっ、うえぇ…」
「なんてことを…」

我慢できずに声を上げて泣き出した私を、名前ちゃん泣かないで、本当にごめん。と謝りながら幸郎くんが私を抱きしめる。図らずも人がいない場所に移動していてよかったと思うあたり私も意外と冷静だと思った。

「今も昔も好きなのは名前ちゃんだけだよ」
「…うん」
「全部名前ちゃんの記憶に塗り替えていくから」
「うん」

言い聞かせるような言葉にひとつひとつ頷く。

「今日は帰ろっか」

その一言で、今日はもう幸郎くんのお家に引き上げた。
私の気が済むまでギュッと幸郎くんに抱き着いて、まるで一つの塊みたいな状態で過ごした。
コタロウちゃんが心配そうにまわりをうろうろしていて、そっと手を伸ばすとペロリと指先をなめられる。可愛い。なんだか癒された気がする。アニマルセラピー恐るべし。
気持ちが落ち着いたころ幸郎くんから離れて、彼と向き合った。

「幸郎くん。許してあげる」
「随分上からだね」

そう言いながらも幸郎くんは面白そうに笑っていた。

「その代わり、幸郎くんはずっと私のだよ」
「そうきたか〜」

いいよ、ずっと名前ちゃんのでいてあげる。と幸郎くんは微笑む。
不安になることはきっと今後もあると思う。でもその度に、私たちの間にある気持ちを強くしていきたいとそう願った。



「昼神くん?」
「はい?…あ、久しぶりですね」
「今一瞬忘れてたでしょ。待ち合わせ?」
「まぁ」
「彼女だ」
「…何の用ですか」
「やだ警戒しないでよ。また遊ばない?…彼女がしてくれないことしてあげる」
「…そういうのは間に合ってるんで」
「冷たいのね。そんなに彼女が大事なんだ」
「もう俺にはあの子以外必要ないから」
「ふ〜ん。中学の時はもっとギラギラしてたのにつまんない」
「もういいですか?貴女といるところ見られたくないんですよね」
「…待ってるのって昼神くんが中学時代たまに目で追ってた子?幼馴染の」
「…よく覚えてますね」
「貴方が誰かの話をするの珍しかったし」
「……」
「幸せなのね。羨ましい」
「…電話するんでもういいですか」
「ねぇ昼神くん。貴方が思うより女の子って情報通なのよ」
「え?なんです、あ、切れた…」
「あっちの方で音が鳴ってたよ。あ、ほら居た」
「…名前ちゃん」
「行ってあげたほうが良いんじゃない?」
「言われなくとも。それじゃ」
「あーぁ、行っちゃった…。なんか妬けちゃう。少しくらい意地悪してもいいよねぇ…ふふ」




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