いつか苦しみは形を変えてくれるのだろうか。
大人になって知ったのは、思い描いていた世界は現実とはとてもかけ離れていて。
それは、残酷なほど、『今』を突き付けてくる。
わたしは決まってその差に立ち止まってしまうから、絶望に似た心の空洞に、体も思考も動かないんだ。





「大人になるってとても難しいことですね」

ポツリと弱音を吐いてしまったわたしに、彼は静かにそう言った。
そうなのだ。大人になることは、難しい。
大人に守られていた小さな世界から、子どもは少しずつ自分の世界を広げていく。
そして失敗や苦悩に飲み込まれて、傷付いて、足掻いて、乗り越えることで、新しい世界がひとつ自分に加わる。
その繰り返しなのだと思う。
それが溜まっていくことで、『大人』へと成長していく。
そう分かってはいるけれど、弱いわたしには、それが苦しくて堪らない。
逃げ出したくなる。
けれど、逃げ場なんて存在しなくて、振り出しに戻されるような感覚が、決まってわたしの全てを覆う。






「気付くのが怖いこと、とてもよく分かります。知りたくなかったことも理解出来てしまうことで、良くも悪くも広がっていく世界に、身動きが取れなくなることも」

「………、」

「でもね、私は小さな頃から早く大人になりたかった。誰の手を患わせることのない力をこの手につけたかった。
それは、今も変わりません。私がまだまだ、世を知らない子どもだからかもせれません、けど」

「総司は強い、ね」

「そんなことは、……無いですよ、」


小さく笑った彼は少し困ったように首を傾ける。
下ろした髪がサラリと流れて、一度弾んで静かに落ちた。



「強くならないと、大切なものを守れないと知ったから」

「大切なもの……」

「私はね、トキさん。自分の力で守りたい。ただ、それだけなんです」

「やっぱり、強いよ」

「いいえ。強くなんてない」

「だって、……」

「ただ自己中なだけ。あなたを勝手に守りたいと思って、勝手に頼られたくて、勝手にわたしだけ見てほいと独占欲に支配されて。格好悪いくらい必死なだけです」


「わたし?」


「笑ってほしいんです。そのために世を広げなくてはいけないのなら、私は進んでそれを受け入れたい」


「………」

「好きだから」


「………」


「他の誰か、なんて耐えられない。私自身の力で守りたいんです」





冷たくなった頬を大きな手に包まれて、その温かさに鼻がつんと痛くなった。
冷たい北風が鋭い音を立てている。
落ちた葉は、カサカサと寄せ合うように集まって、急かされるように移動していく。

好きだと紡いだ彼の声だけが、そこに凛と佇んで、二人の周りを優しく包んだ。


「総、司…あの、」


その世界を壊したくなくて、でも、彼に言葉を届けたくて。
懸命に絞った声は、掠れてしまって彼に届いたのか分からない。
それでも、空気を介して繋がったように、彼はわたしの髪に優しく触れた。



「……、総」









「総司!」



わたしの声に水気が戻る前に、遠くで大きな声がして、ますますわたしの声は空気に溶けてしまったようだ。

声の主は、遠くで彼を探している。
荒々しく大きな動作をしているであろう土方さんの声がもう一度こちらに届き、彼は慌てて返事を返した。





「さぁ、行きましょう」


そして、彼はとても自然にわたしの手を優しく浚って、ずんずんと走り出す。

目に入る北風が痛いほど冷たいからか、彼の手が温かいからなのか、はっきりとした理由は分からないけれど、涙が溢れて止まらなかった。


立ち止まって、うずくまって、それでも彼が隣にいてくれるなら、少し休んでまたその先に、行けるのではないか。
そう思うわたしは、きっとまだひとりで前に進めるほど大人に近付けてはいないのだろう。


だけど、わたしは、わたしなりに自分と闘って、そして彼の隣で笑いたい。
彼が笑ってくれるなら、少しだけ強くなれるのではないか。
他人任せの思考だと、自身の負の部分が嘲笑うけれど、それと向き合うことも大事な作業だと、少しだけ思えてしまうから、彼の存在はわたしにとって、とても偉大だ。

守りたいと言ってくれた彼をわたしも少しでも守れるように。
いつかこの両手に抱えきれないくらいの強さを手に入れたい。



握られた手を握り返して、わたしは小さな扉を開いた。








20140217
title((人魚))







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