空が眠る準備を始めた。
朱色の鮮やかな世界の下で、ひんやりと温度を下げていく。
顔を隠すように沈む太陽の濃い色が少し切ない、思わず見とれてしまうその色の後は、急激に群青色を取り込んで、そのまま眠りについてしまう。
それはとても、慌ただしい。
まるでその駆け足のような空の移りは、わたしの鼓動のようで、今日あったあの高鳴りを思い出す。
痛くて、苦しくて、温かくて。
喉と胸が狭くなっていくのを感じた。
「好きな子がいるんだよね」
頬を掻きながらそう言った彼は、完全に横を向いていた。
だから、それが誰に対しての感情なのか、理解できずに聞き流してしまった。
否、聞き流してしまいたいと咄嗟に反応した脳内が、都合の良いようにその言葉に触れまいと予防線を張ったのかもしれない。
「ふーん」
「トキちゃん」
「なに」
「随分興味なさそうだね」
「そんなことないよ」
「誰のことか、とかさ。聞くんじゃねぇの、普通」
「聞いてほしいの?」
まあ、きっとそうなのだろう。
わざわざ口に出してくるのだ。
その“好き”について、彼は話したいと思っているのだと思う。
けれど、誰かへの“好き”なんて、そんなこと出来ることなら聞かないでいたい。
わたしは、彼に密かに想いを抱いている。
子どものように感情を真っ直ぐに受け止めてしまう彼の儚さと、優しさと、いつも温かいかさついた指先と、控えめに顔を出す襟足の後れ毛。
挙げたらきりのない沢山の彼を形成するものが、わたしは堪らなく好きで。
隣に座るだけで、彼に温められたわたしと彼の間の空気が、とても愛おしくて。
彼の近くにいられるのなら、今のこの関係のままでも構わないと思っていたから、胸の奥の感情を伝えようと思ったことはなかった。
「うん」
「………、誰のことですか」
「ちょっとさー」
「なによ」
「こうもうちょっと感情を込めて頂きたい」
「………、なんで」
「いや、だってさ、丸っきり興味無さそうって、脈ねぇの突き付けられてる感じがする」
「………は?」
「ちょっとくらいは意識しててくれないか、とか期待はしてるわけで」
「………どういうこと」
「好きってこと」
「………」
「聞こえなかった?」
「………、いや、あの」
「なんだよ」
「………だって、」
想っているのはわたしだけだと思っていたから。
「つーか、俺結構頑張って態度に出してたつもりなんだけどねぇ」
「……あの、」
「好き」
「………ッ」
「好きなんだよ」
温かいものが目尻から零れて、輪郭に沿って流れて、消えた。
感情が追い付く前に、次々と流れ出て、視界はぼやけて曖昧な世界に変わっていく。
その中心にいる彼は、そんなわたしの左頬に手をあてて、すきなんだと、もう一度言って優しく笑った。
「………わたしも」
何度目かの彼の言葉に漸く小さく応えると、彼は勢いよくわたしを胸の中に浚ってしまった。
ああ、これは夢なのではないかと思うほど、都合のよいこの状況に、思考回路は麻痺していくようだ。
喉の奥が乾くように鈍く痛んで、左の頬が温かくて、降ってきた唇が意地悪なくらい優しくて。
ただただ、目を閉じてそれを受け入れることで精一杯だった。
それなのに、彼はその後も何度も何度も好きだと呟くものだから、その度にわたしの心臓は壊れてしまいそうなほど、速く、速く走った。
立っているのがやっとなくらい、頭の芯はくらくらと揺れている。
「やべぇ。どうしよう」
「な、に?」
「反則だろ」
「え?」
「失恋確定かと思わせといて何よそれ」
「………びっくりして、気持ちと思考が追い付かなかった、から」
「ねぇ、トキちゃん。俺、好きすぎて息がうまく出来なくなってきた」
「ばか」
いつの間にか、闇に覆われた空を包んだ冷たい空気が、しんしんと部屋へと流れ込んでいた。
足下から冷たくなってくるのは、きっと、空が寝息を立て始めたからだ。
おやすみなさい、大切な今日。
小さくそう呟いて、わたしはゆっくり戸を閉めた。
願うことは、ただひとつ。
明日も、明後日も、その先も。
1日の終わりが愛おしいくらい、彼を思っていられますように。
20131030
title ((人魚))
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