睫毛が濡れていた。

きっと、彼女は闇に包まれた月の下、一人小さく泣いたのだろう。
うっすらと赤色を帯びた瞳が、疲れたように何処か遠くを見つめているように見える。
荒れた天気の後の葉に残る滴のように、儚さの漂うそれは、なぜだか胸を締め付けるから、嫌な予感を全身に感じて、耳を塞いでしまいたいと、情けないことを思ってしまった。





「夫婦にならないかって言われた」



ポツリと呟くように発せられた言葉は、ツキンと心臓を一突きする。
一瞬、目に力が入ったことを気付かれないように、小さく息を吸いこんでから、冷静さを装った。



「……そっか」

「とってもね、優しい人よ」

「………うん」

「きっとね、優しい毎日をくれる人。きっと、わたし幸せになれる」



そう言った彼女は、俯いて、小さな手で、胸元をギュッと握った。
その姿は幸せになれると言うには全く反対のように見えて、今にも沈んでしまいそうだ。
首筋に触れそうになったその手を空で握ってギュッと力を込めながら、ゆっくりと腕を下げた。



「それなら、どうしてそんな顔してる?」

「………笑ってる、よ」

「………そ」

「うん。笑ってる」





笑ってるよ、とまるで彼女は自身に言い聞かせるように、何度かその言葉を呟いた。
その人は、この辺で名の通る人物で、ある程度の地位も、小さな裕福さも持っていると言うのは、直接面識の無い俺でも知っていた。
その人に、彼女が見初められていることも、やんわりとこの耳に入ってはいた。
しかし、それがこうも急に実際の問題として浮き上がるなんてことは、正直考えていなかった。

きっと、彼女の将来を考えるとこの縁はとても重要な物になるだろう。
しかし、ぐるぐると回る思考は、実際のところ空回りをしているだけで、真っ白になっている。
おめでとう、なんて言葉は当然出るものではなくて、息が乱れそうなほど、心臓が痛かった。




「……ダメだ」

「藤堂、さん?」


小さく呟いた言葉は、彼女の耳に届いたらしく、彼女は不思議そうにその言葉に反応した。
伏せていた顔を俺に向けて、ゆっくりと瞬きをしている。



「ごめんトキちゃん。俺、今からとんでもない我が儘言う」

「藤堂さん?」

「俺ね、その人のところに行かせたく、ない。俺の目の届くとこにいてよ」

「………、」


「この距離に、こうやって涙を拭える距離にいてよ」

「………藤、」

「放したら俺、息、出来ない。情けねぇけど」



肩を掴んで抱き締めると、直ぐに背中に腕が回って、彼女は俺の名前を何度も呟きながら泣いていた。


「すき、なんだ。ただただ、どうしようもないくらい、すきなんだ。トキちゃんが、」



明日にも消えるかもしれない命で、幸せにする、なんて言えない。
そんな不確かな、そんな残酷なこの土台でこの感情を繋ぎ止めていて良いのだろうか。
それが、彼女を苦しめることにならないだろうか。
すきだなんて、こうやって伝えてしまって良かったのだろうか。
正解など分からないままのこの胸に、顔を埋める彼女の体温が、心臓を介して全身に溶けていく。
それだけが、俺にとっての現実であった。




「ずるいね、」


「ごめん」


「わたしが、だよ」


「どういう、こと?」


「そう言ってくれるのを期待していたの。そして浚ってくれたらいい、なんて、わたしはそう思いながら、もしそうしてくれたら、わたしは全て貴方のせいにして、投げ出してしまえるのに、って。この事実を貴方が曲げてくれたらと思って、」



そう言って泣く彼女は、とても綺麗で、とても幼くて。
とても、とても、愛おしかった。
小さく感じる彼女の息遣いが俺の心臓に直接流れて、先程とは違う心臓の痛みを感じた。


すき、だからそばにいたい。
すき、だから触れていたい。

すき、だから。
そう、すきだから。

俺と言うかごの中に閉じ込めて。
深い神経の奥の奥に、二人で落ちてしまいたい。



人は、諦められないくらい誰かに溺れてしまえることを。
人は、回りを振り切ってでも、通したい想いを持つことが出来ること。
俺は、彼女に出逢って、初めて知った。







20131006
Title ((人魚))







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