ああ、まただ。
また、この瞬間が来た。
手が、鼓動が、全身が、人を殺める感覚を欲している。
ああ、駄目だ。
思考が渦巻いていく。
嫌に乾く気がする口内が、張り付いて唾を飲み込むことさえ拒んでいるようだ。
振りかざした刀と、狂気に包まれたその一瞬の高揚。
全身を苦しいくらい駆け巡る痺れ。
それが、わたしにとって人を殺める感覚なのだと、そう思う。
湿気でまとわりつく髪を掻き分けて、食い込む爪で血が滲むほど、左腕を強く強く握った。
この精神は異常を来し過ぎている。
抑えられない、内からうねるこの汚物を捨てられるなら、自身を捨てても構わないと思った。
「それ、仕舞っとけ」
急に後ろから声がして、思わずびくりと肩が上がる。
恐る恐る振り替えると、交わる視線。
調度同じくらいの高さのそれは、全てを見透かすように、こちらをしっかりと見据えていた。
「………え」
「殺気、」
「……、」
「出しすぎだ」
「放っておいてください」
交わる視線を意図的に外して、目を伏せて言葉を伝える。
乾ききった口内は、張り付いて言葉が出にくくなっている。
息をする度に、身体の中心部が痛んで、目眩がする。
泣きたい、のだろうか。
頬が歪むような気がした。
「それは出来ねぇな」
ふぅ、と溜め息をつくように息を漏らし、凛として少しだけ寂しそうな、上手く表現出来ないような複雑な表情で、彼は数歩わたしに近づいた。
反射的にわたしは数歩、後退する。
距離は縮まらない。
縮まらせたくない。
こんな姿を汚い存在を晒したく、ない。
「下がるなら俺は同じだけ前に出るよ」
彼の瞳は、まっすぐわたしを捉えている。
それはまるでこの身体、この思考を芯まで全て暴いていくようで、泳ぐわたしの目はやり場を失っていく。
ずんと重い空気の中、少し汗ばんだ手で、シワになるほど袖を強く握る。
その小さな動作が今のわたしに出来る精一杯であった。
その様子を静かに見つめながら、彼は一度目を伏せて、そしてゆっくりとこちらに視線を戻した。
「そんで、ここに捕まえておく」
交わす間もなく、一瞬で掴まれた左腕は、状況を脳に達することが出来ないまま引き寄せられて、すぐに耳元に彼の吐息を感じた。
「震えるくらいなら、自分閉じ込めるな」
「駄目です、嫌、です」
「トキ」
「汚い」
「何が?」
「汚いんです、わたしの、全て」
この果てしなく黒い感情と感覚が、皮膚を介して彼に届いてしまう。
「汚ねぇの?」
「汚れています」
「だったら、俺もだ」
「そんなこと、」
「俺だって人斬りだぜ?」
「それでも、」
「狂気ってもんはさ、誰だって持ってるもんだ。繊細なんだヨ、お前は人一倍」
「そんな綺麗な物じゃない」
「そんなら綺麗にしてやる。俺が、」
後頭部の髪に柔かく絡んだ彼のざらざらとした指が、痛いほど優しくて。
閉ざしたい心の隙間からそれが染み込んできて。
閉ざしきれない中途半端な自身に嫌気が差したのか、それとも、彼のその温かさがわたしを刺したのか、心が痛くて堪らなかった。
「その感情掻き乱して、ぐちゃぐちゃにしてやる。それがなんなのか分からなくなるくらい」
「いやだ…」
「諦めなヨ」
「………、」
「俺ね、結構しぶといよ。まず手始めに、」
「………な、永倉、さ」
チクリと痛んだ首筋に、発生した甘い熱。
逃げたくて、苦しくて、息が出来なくて、彼の腕のなかで小さくもがいた。
「ほら、まず一回目。俺でいっぱいになったでショ」
ふっと笑った彼の前髪が頬に触れると、それはとてもくすぐったくて。
喉の奥の焦燥感が胸を抉るように痛かった。
その温もりで狂気を切り裂いて、粉々にして、そして沸き上がるこの醜い感情から伴う胸の痛みが、彼を想う切ない痛みに変わったら、それはどんなに幸せなことだろう。
明日と言う日常の延長ですら不確かなこの世界で、わたしは少しだけ心に光を溶かした。
20130922
title((人魚))
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