書きかけの原稿用紙は、あれからずっと手つかずだ。

綴った拙い言葉の羅列を、目でなぞる。
ただそれを繰り返しているばかりで、再び筆を執る気にはなれなかった。

誰に読ませるつもりもない。どうせ続きを書けぬなら、捨ててしまっても構わない。しかしどうにも踏ん切りがつかず、持て余している。
どうかこれを、昇華させてはくれまいか。なんて馬鹿げたことを考えながら、一番好きな本の頁に挟み込んだ。栞代わりにはなるだろう。

わかっているのだ。この狭い世界しか知らない私には、誰かの胸を踊らせる物語など紡げはしないと。



「お嬢様、旦那様と奥様がお呼びですよ。」


使用人が、部屋を訪れそう告げた。理由は察しがついている。

『すぐには結婚を考えられないが、前向きに検討したい。
できれば交際から始めさせて頂けないだろうか。』
先方から届いた書状には、そんな旨が綴られていた。

この返答にゴリアテ様自身の意思がどれほど反映されているのかわからないが、事は上手く運びそうである。
とはいえまだ何も約束はされていない。所詮はただの交際だ。私はどちらでも構わないが、この関係が先方にとって無意味とされればご破算になるのは目に見えている。つまりは逃げ道を残しているということ。たった一度顔を合わせただけで、婚約へ踏み切るのはリスクが高い。同等の家柄ならまだしも、格下の成金一家が相手では慎重にならざるを得ないのだろうと思った。
けれども両親はこれが婚姻に繋がるものと信じて疑わないらしく、早くも手放しで喜んでいる。
…いっそ断られた方が良かったかもしれない。誰にも気づかれぬよう、密やかに溜め息を溢した。

しかしどうやら、彼に本を貸す機会は得られそうである。

それが嬉しいのかどうか、自分でもよくわからない。
私が本によって救われたように、彼の心も救われて欲しい…なんてことを考えている訳でもない。
ただ、私の好きな物語を、彼にも知ってもらいたい。理由はわからないけれど、不思議とそう思うのだ。互いの好きなものについて話し合ったあの時間を、何故だか続けたいと思った。


*****

二度目に彼と会ったのは、それから約半月後のことだった。

縁談の返事が来てから何度か、ゴリアテ様とは手紙のやり取りをしていた。
とはいえその内容はどれも取り留めのないことばかりで、男女の交わす恋文のような言葉は互いに一つも書かなかった。けれども私達は、交際とやらをしているらしい。…それってつまり、恋人同士ということになるのだろうか。恋などしていないのに、恋人。なんだか笑えてしまう。これではまるで、ままごとだ。

しかし私は、どこか宙ぶらりんなこの状況を受け入れてしまっている。
立場上そうする他ないというのもあるが、彼との交流は存外楽しいものだった。


「名前さん!よく来てくださいました。」


約束の時間より少しばかり早く着いてしまったが、私の姿に気づいたゴリアテ様がすぐに駆け寄ってきた。
敷地内にある鍛錬場は、門のところからもよく見える。そこでは数名の門下生らしき人物が、敵を模した人形に向かい剣を振るっていた。


「鍛錬をなさっていたのですね。申し訳ありません、少し早すぎました。」

「いえ、とんでもない。こちらこそ申し訳ありません。汗を流して参りますので、中でお待ち頂けますか?」


見合いの時に背広を着ていた彼は今、簡素な訓練着に身を包んでいる。撫で付けられた前髪が一房、額に垂れ下がっていた。身なり一つで、随分と印象が変わるものである。その姿は名家のお坊ちゃんというよりも、戦いに身を置く騎士そのものだった。やはり彼の本分はこういったところにあるのだなと改めて思う。

ゴリアテ様に呼ばれた執事が、私を屋敷の中に通した。
持参した手土産を預けていると、別室から出てきたジエーゴ様と鉢合わせる。父君がご多忙だということを手紙で伝えられていた私は、挨拶が遅れたことを謝罪した。しかしジエーゴ様はただ、「気にするな」と快活に笑う。以前ここに来た時には一度も見せなかった顔だ。彼は恐らく、私の両親が苦手なのだろうと思った。皮肉なことだが、とても気が合いそうである。


「お待たせしてすみません。」


やや暫くして現れたゴリアテ様は、普段着と思わしきシャツに着替えていた。シンプルながらも品の良さを感じさせる装いである。先程は乱れていた髪も、綺麗に整えられていた。やはり彼は、美しい人だと思う。

先日は応接間のような所に通されたが、今日はゴリアテ様の私室にお邪魔した。置かれた家具はどれも高価なものに見えるが、装飾は華美でなくシックな雰囲気を醸し出している。部屋全体がすっきりと纏められており、雑貨などの細かなものは見受けられなかった。彼はあまり物を持たない人なのだろうか。本棚の方をちらりと見遣れば、そこには剣術関連の書物が多く並んでいる。

茶請けとして運ばれて来たのは、私が持参したロールケーキだった。それを執事に聞いた彼が、頬を綻ばせる。


「甘いものがお好きだと、仰っていましたので。」

「お気遣いありがとうございます…!」


思えば食の好みを知れたのは、非常に有り難いことである。
必ずしも次があるとは限らなかったが、結果として私は手土産に迷わず済んだ。もし彼がそういったことまで考慮していたのだとすれば、恐ろしく聡明な人物である。…というのは、さすがに考えすぎだろうか。


「あと、この前お話していた本をお持ちしました。わたくしの独断で選ばせて頂きましたけれど…。」

「うわあ、ありがとうございます!独断で構いませんよ。寧ろその方が嬉しいです。」


ただの社交辞令とも思っていたが、予想以上に喜ばれたので少し驚く。お気に召すか自信がないと告げれば、「あなたが選んだものなら間違いない」と太鼓判を押されてしまった。何故だかわからないが、随分と高く買われたものである。


「なるべく早くお返ししますね。」

「お気になさらないで下さい。いつでも構いませんので、お時間のあるときに。」


元より既に読み終えたものだ。それにもう、登場人物の台詞を空で言える程には読み込んでいた。ゴリアテ様を急かす理由は、どこにもない。かといってずっと手元に戻らないのも困るのだけど、彼ほど育ちの良い人物がそのような真似はしないだろう。


「では、お言葉に甘えて…ゆっくり読ませて頂きます。」


この付き合いが今後どうなっていくのかはわからないが、少なくとも彼が本を読み終えるまでは続くのだろうと不意に思う。…あと何冊か、余分に持って来てもよかった。そんなことを考えてしまう自分が、なんだかとても意外である。

暫く雑談を交わした後、ゴリアテ様が私を庭に誘い出した。
敷地内のやや門に近い所に、柵で囲われた花園がある。初めてここに来た時からそれが気になっていた私は、彼の提案を嬉しく思った。花にはあまり詳しくないが、その存在はなかなかに目を引いたのだ。
武人達が日々汗を流す鍛錬場と、美しく可憐な花々。まるで正反対のこの二つが、同じ空間の中にある。考えてみればさほど可笑しな事でもないが、それが少し気になった。この花園は、誰の為のものなのだろう。

ゴリアテ様の後をついて、庭に足を踏み入れる。先ほど剣を振るっていた人々の姿は見当たらない。もう鍛錬を終えたのだろうか。


「名前さんは、どんな花がお好きですか?」


ふとそんな問いかけを寄越した彼に、私は苦笑まじりに答える。


「お恥ずかしながら…あまり、よくわからないのです。」


目の前に咲く花はどれも綺麗だが、名前を知っているのは薔薇やチューリップなどポピュラーなものだけだった。それらを愛でる気持ちが決してない訳ではないけれど、これといって思い入れがあるものも浮かばない。なんだか少し、気まずくなる。好きな花のひとつも挙げられない私を、ゴリアテ様はどう思うだろう。


「そうなんですか。」


つれない返事をしてしまったが、彼は穏やかに目を細めるだけだった。特に残念がる様子もなく、まるで挨拶でも交わすかのように微笑んでいる。どうやら私を連れて来たことを、後悔してはいなさそうだ。


「今まで読まれた本の中に、花に関するものはありませんでしたか?」


下手をすれば嫌味とも受け取れそうな言葉だが、不思議なもので彼から聞くとただ純粋に問われているのだと確信できる。それに何より、本に関することを聞かれたのが嬉しかった。私は記憶を手繰り寄せ、ひとつ心当たりを見つける。


「そうですね…随分前に読んだものですが、愛する人を魔法で花に変えてしまうというお話がありました。」

「へぇ、人を花に。何故ですか?」

「えっと、確か…ずっと一緒に居たいのに、相手は同じ気持ちじゃなかった。だから花に変えてポケットに入れて、運んだんです。」

「それはなんだか…身勝手な人ですね。」


くすりと笑ったゴリアテ様に、釣られて私も肩を揺らした。
それは、子供の頃に読んだ児童書の一つだった。当時は幼かったのであまり深く理解していなかったが、今になって思い返すと少し気になるところもある。確かにあの主人公は、些か身勝手だ。


「じゃあ、お菓子の話なんてありますか?」

「…ごめんなさい、それは記憶にありません。」

「そうですか、残念だなあ。」


わざとらしく肩を落としたゴリアテ様に、私は思わず声を出して笑ってしまう。今度は彼がそれに釣られた。こうして他愛もないことで笑い合っていると、家柄や身分の違いなどは思考の隅に追いやられていく。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはもうわからなかった。


「名前さんには、緑がよく似合いますよね。」


ふと、花壇へ視線を戻しながら彼が言う。


「緑?」

「あ、いえ、決して花がないという意味ではなく!」


首を傾げる私に、ゴリアテ様はあたふたと両手を動かした。言葉の内容よりもその様子に関心が向く。…なるほど、彼は慌てた時、こういう顔をするのか。本人に伝えるのは憚れるが、なんだか可愛らしいと思う。


「この間お召しになっていた服が、素敵でしたので。」


照れたように彼がそう続ける。
そういえば、前に会った時にも同じようなことを言われたのだと思い出した。
春に芽吹く若葉のような、薄い緑のワンピース。
両親は時折、私に服を買い与える。あれはそのうちの一つだった。今まで何の感慨も持てずにいたが、この人に褒められるとなかなかどうして心が弾む。


「もちろん、今日のお召し物も素敵ですよ。」


一段と大きく咲いたその笑みを、何故だか見ていられなくなって目を逸らす。
「ありがとうございます」と何とか返した私の声は、まるで蚊が鳴くようだった。


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