※シルビアの過去ネタバレ


【夜空に縫いとめられたようなあの星を、男は哀れんだ。

かつて旅の道標となったそれも今や、忘却の彼方に追い遣られひっそりと瞬いている。
街に明かりが一つ灯れば、星の光は一つ消えた。地上から放たれる紛い物の光が、彼らの夜を支配したのだ。
しかし空を仰ぐ者が居らずとも、一際明るいあの星だけは、変わらぬ場所で呼吸をしている。
他の星と共に消え失せることも、再び道標を担うこともできぬまま。
果てのない紺碧の中に身を置きながら、ただの一歩も動けずそこに在り続けている。

それが哀しくて堪らないのだと、男は言った。】



トントンと聴こえたノック音に、手を止める。
扉の向こうに返事をしながら、書きかけの原稿用紙を適当な所に仕舞い込んだ。
すると間も無くしてノブが動き、妙齢の使用人が顔を覗かせる。


「お嬢様、そろそろお支度をなさいませんと。」


お前はまだそんな格好をしているのか。そう書かれたような顔で、彼女はため息混じりに言う。ずかずかと部屋に入り、クローゼットを無遠慮に開けると、そこからワンピースを数着取り出し私の体に宛がった。


「紺色だとなんだか地味かしらねえ…緑の方がいいかしら。」

「どっちでもいいわ。」


ぶっきらぼうに答えると、使用人は目尻を少し釣り上げる。


「何を仰っているのですか、今日は大切な日なのですよ。お嬢様も存じておいででしょう。」


…はいはい。言い争うのも面倒で、生返事を返す。
しかし彼女の視線が鋭くなったことに気づき、渋々緑の方を選んだ。

私の家は、地元で少しばかり名の知れた商家である。
物心のついた時から、この家があまり好きではなかった。

落ち目の貴族が、藁にも縋る思いで始めた商い。それが運良く当たったらしく、今に至る。
言ってしまえば成金のようなものである。金はあるけど由緒はない。由緒はないけど金はある。それが災いして、父も母も、身の丈に合わないようなことを平然とやってのけるのだ。

屋敷のあちらこちらに置かれた調度品や美術品。真価を理解できる者などいないのに、ひごと増えて行くその品々。どこもかしこも、馬鹿の一つ覚えのような装飾が煌びやかに施されている。身に付けるものも一級品でなくては気が済まないらしく、ありとあらゆる高価な素材が使われた服やらアクセサリーやらを、両親は毎日と言っていいほど買い漁っていた。私はそれが恥ずかしかった。まるで豚に真珠だと、心の中だけで言う。
しかし両親が気にかけたのはそういった、身の回りの品だけではなかった。

彼らは娘にも、一級品であることを求めたのだ。

形ばかりの英才教育。お嬢様らしい振る舞いの仕方は勿論のこと、一つも興味をそそられない楽器やら何やらを、お構い無しに習わせられた。勉学は嫌いではなかったが、どこぞの有名な家庭教師を呼びつけ必要以上に叩き込まれた。苦しみ喘ぐ暇などは与えられない。幼少の私は沢山の疑問を抱きながらも、両親に言われるがまま切磋琢磨した。そうしていつしか、聞き分けの良いふりばかりが上手くなってしまっていた。


「さーて、できましたよ。」


私の肌に仕上げの粉を叩き込んで、使用人の彼女は鏡越しに笑う。
華やかだがやり過ぎない、絶妙な具合で施された化粧に、なんだかむず痒さを覚えた。

娘を”一級品”として作り上げた両親が次に求めたのは、その嫁ぎ先である。

自分達は大した家柄じゃない癖にそれを棚に上げ、「半端な所にお前を嫁がせてなるものか」などと豪語する。そんな彼らが持って来たのは、なんと領主の息子との縁談だった。

ソルティコを治めるジエーゴ様の名を、ここらで知らない人はいない。
領主というだけでも十分にご立派だが、かつては世界最高の騎士と謳われた物凄いお方らしく、かの大国デルカダールの兵達が数多くその門下に入っていると聞く。まさに騎士の名門だ。
ご子息であるゴリアテ様もまた、父君に負けず素晴らしい才の持ち主で、大変将来有望なお方らしい。

…全く、なんて、身に余る。
思わず溜息が溢れ、それに気づいた使用人が苦笑した。


「ほらほらお嬢様、折角おめかししたんですから笑って笑って。」

「…嫌。」


泣きたい気持ちが湧いたけど、奥歯を噛んで押し込んだ。

ああ、恥ずかしい。恥ずかしくて堪らない。
成金風情が一丁前に、領主に取り入ろうとするなんて。浅ましいにも程がある。
外面だけを取り繕った小娘が、名家のお坊ちゃんに見初められるはずがない。身の程知らずだと、笑い者になるのがオチだ。


*****


この日は先方との、初めての顔合わせだった。
親子で外出するのは随分と久しぶりの事だったが、少しも心が踊らない。

執事に通された部屋は、品を損なわない程度に豪華な装飾がなされていた。
自分達の住まいとは比べ物にならない規模の屋敷に、両親が感嘆の息を吐く。それを聞いただけでもう、帰りたくて仕方なかった。

うちの娘はこれが出来ます。これを何年習っていました。つらつらと私の紹介をする父の姿は、紛う事なき商人だった。出された紅茶に手をつけることもなく、ただ鼻息を荒くする。なんとしてもこれを売りつけよう、なんて気迫すら感じさせた。その言葉を聞くジエーゴ様は適度に相槌をくれていたが、さして響いている様子はない。…頼むからもう、やめてくれ。この空間から一刻も早く解放されることを願ったが、時計の針は驚くほど進まなかった。


「それでは、あとは若いお二人で。」


やがて見合いの常套句を残し、大人達が退室していく。
今までずっと同じ空間に居たというのに、私はこの時になって初めて彼の顔をまともに見た。

黒々とした睫毛が縁取る凛々しい目元に、すうっと通った高い鼻梁。唇は程よく薄く、整った形をしている。一つ一つが、まるで彫刻のような造形美だ。男性をこのように形容するのは正しいかわからないが、綺麗な人だと思った。とても。…とても。
相手の家柄だけで既に物怖じしていたが、まさかこれほどまでの美丈夫だったとは。自分との差があまりにも大きすぎて、居心地の悪さが膨れ上がる。
これは一体、どうしたものか。悩んだそばから彼と目が合い、私は思わず息を飲む。


「申し訳ありません…その、わたくしの父は、いつも少しお喋りが過ぎまして。」


迫り来る沈黙を押しやるように、一先ず父の非礼を詫びる。
その言葉を受け、ゴリアテ様は穏やかに微笑んだ。


「いえ、とんでもない。明るいお父様ですね。」


まるで花のような笑みに、艶のある声。なんだかクラクラと眩暈がする。
あの父をただ明るいと称するのには違和感が拭えないが、それが彼の気遣いなのか、はたまた本心で言っているのかは判別しかねた。
名家の跡取りであるこの方は、私のような者との縁談をどう思っているのだろう。
正直、気になるところである。しかしつい先ほど会ったばかりだというのに、核心に触れる勇気はない。

ところが困ったことに、次の話題を全く考えていなかった。
目の前の彼はお茶請けのマカロンを一つ手に取り、上品に咀嚼している。
…この気まずさを感じているのは、ひょっとして私だけなのだろうか。
何を考えているのか、全く読めない。

ただじっと座っている訳にもいかず、無意味に紅茶の砂糖を足した。冷めかけているので溶けにくい。白い立方体をスプーンで崩して何度か掻き混ぜ、カップをそっと口に運んだ。想像を絶する甘さに、驚愕する。
顔を顰めそうになるのを堪えていたら、ゴリアテ様が声を発した。


「なんだか、緊張してしまいますね。」


はにかんだような笑顔を携えそう言う彼は、よく見れば年相応に可愛げがある。
私と同い年だという彼もまた、家柄は違えどただの一人の青年なのだ。改めてそれに気づかされ、なんだか肩の力が抜けていくのを感じた。


「ええ、本当に。」


頬が、自然と緩んでいく。

泣きたくなるほど、ここに来るのが嫌だった。卑しい成金の娘だと、蔑まれるとばかり思っていたのだ。けれども彼は、そんな態度を微塵も見せない。私がここに居ることが当然だとでも言うように、笑いかけてくる。凪いだ大海のように大らかで、澄んだ人。不思議だった。私は今まで、彼のような人とは会ったことがない。

お互い一頻りはにかみ合った後、ゴリアテ様は何かを閃いたように「そうだ」と言った。


「折角ですから、それぞれの好きなものについてお話しませんか。」


悪くない提案だと思った。
よく知らぬ者同士、共に時間を過ごすとなれば一番に気にかかるのは話題である。
今の私達には、少しでも互いの情報を頭に入れておく必要があった。

同意すると、彼は安堵したように頷く。


「僕…実は、甘いものには目がないのです。」


”好きなもの”という漠然としたテーマに一抹の不安を覚えたが、彼から切り出されたことによってそれはすぐに払拭された。甘いもの…そうか、そういう感じか。声には出さず納得する。
ゴリアテ様はマカロンをもう一つ摘み上げて、再びはにかんだ。しかしその表情はすぐに苦笑へと変わる。


「男の癖にって、よく言われるんですけどね。」


彼の瞳が、少し曇る。
その理由がわからずに、私は首を傾げてしまう。


「なぜ、男性だといけないのですか?」


問いかければ、彼が目を瞬かせた。


「いや、その…甘味というのは一般的に、女性が好むものですから。男である僕が好んで食すのは、あまり褒められたことではないでしょう?」

「そうでしょうか。わたくしには、よくわかりません。男性でも女性でも、あまり関係ないように思えますが。」


どこか自嘲を孕んだような彼の言葉に、私は忌憚なく返答した。
薄い灰色の双眸が、零れ落ちんばかりに見開かれる。それを見て、はっとする。


「差し出がましいことを申しました。どうか忘れてください。」


非常にばつの悪い気持ちになり、慌てて謝罪した。
相手は身分のある方なのだから、余計なことは言ってはいけない。わかっていたはずなのに、彼の持つ柔らかな雰囲気が私の中に甘えを生んだ。こんなことは、許されない。胸の中で自分を必死に叱咤する。
しかしゴリアテ様は少しも嫌な顔はせず、それどころか心底嬉しそうに相好を崩していた。


「いいえ、寧ろお礼を言わせて下さい。そんな風に言ってくださったのは、名前さんが初めてです。」


そう言って、どこか満足げに手中のマカロンを口に運ぶ。
私の発言が一体どうしてこれほどまでに彼を喜ばせたのかわからないが、不快に思われていないのならばそれに越したことはない。密やかに、安堵の吐息をひとつ零した。
程なくして菓子を飲み込んだ彼は、私の紅茶を一瞥して口を開く。


「名前さんは、お好きですか?甘いもの。」

「ええ、まあ。」

「やっぱり!たくさんお砂糖をお入れになるなあと思ったのです。」

「いや、その…これは、失敗してしまいました。」


頬を掻きながら私が言うと、ゴリアテ様は事情を察したかのようにくすりと微笑んだ。
すっかり熱を失ったカップの底では、溶けきれなかった白い粒が沈んでいる。
心の平穏をなんとか手繰り寄せようと、徒らに消費された角砂糖。…両親にとっての私も、もしかするとそうなのだろうか。不意にそんな考えが浮かんだが、振り払うように彼に問うた。


「甘いものと一口に言っても色々ありますが、ゴリアテ様は何が一番お好きですか?」

「ええっ?…そうですねえ…迷ってしまうなあ…。」


瞳をきらきらと輝かせて、彼は思案する。その脳内にはありとあらゆる種類の菓子が思い描かれているのだろう。真剣に悩む彼の姿を、とても微笑ましく思った。


「タルトも好きですし、ザッハトルテも…いや、ミルフィーユも捨てがたいなあ…うーん、とても決められません!」

「ふふふ、本当にお好きなのですね。」


思わず私が肩を揺らすと、彼ははっと我に返ったような顔をした。その頬が、心なしか赤く見える。


「僕の話ばかりしてしまって、すいません。名前さんの好きなものも、聞かせて頂けませんか?」


小さく咳払いをして、仕切り直すように彼は言う。
それを受け、私も思考を巡らせた。


「そうですね…食べ物ではないのですが、本が好きです。」


両親に唯一感謝していることがある。それは、文学と出会わせてくれたことだ。

娘の教育に対し只ならぬ情熱を注いでいた彼らは、他の子供達がするような遊びを私に許しはしなかった。外に出て駆けっこをすることも、友人の家でままごとをすることも、時間の無駄だと一蹴されてしまう。そんな中で本を読むということだけが、私のただひとつの楽しみだった。


「本ですか。それは良いですね。どんなものを読まれますか?」

「主に小説です。推理物でも恋愛物でも、なんでも読みます。」


自分とは全く異なる場所で生きる者達。その物語の数々は、私に多くの希望を齎した。綴られた文字を追うごとに、世界が色づき広がる気がした。窮屈な鳥籠の中に居ながら、まるでどこまでも飛べるような気持ちになれたのだ。そうして気づけば、私は取り憑かれたように屋敷中の本を読み漁っていた。父も母も、そんな私を咎めることはしなかった。本を単純に勉学と結びつけている彼らは、私を熱心だと褒める。誰にも否定されることのない、自分自身が望む時間。それは私の生活において、非常に貴重だった。


「差し支えなければ、今度僕に何かお勧めの物を貸して頂けませんか?」

「ええ、それは構いませんが…。」


思ってもみない彼の言葉に、私は目を丸くした。

ゴリアテ様が、読書に感心を持たれる。その事自体には、特に意外性はない。
騎士の名門の跡取りとあっては、文武両道など当然のことなのだろう。
しかし彼が、わざわざ私の所有する本を読みたがることに驚いた。
タイトルや著者名を挙げるだけでも十分のように思えるが、貸して欲しいと言うのは何故だろう。こんな名家のお坊ちゃんが、他人に本を借りる必要なんてないはずだ。些か品に欠けた言い方になるが、大抵の物は容易く手に入れられるのだから。

なのに、これではまるで、また会いたいと言われているような。

…そこまで考え、振り払う。
何を、馬鹿なことを。社交辞令に決まっている。本気のはずがないだろう。


「ありがとうございます!楽しみにしていますね。」


また再び花のように笑った美丈夫に、私は曖昧な頷きを返した。


気づけば結構な時間が経っていたらしい。
ここへ来るとき案内をしてくれた執事が再び現れて、下の階に来るようにと私達を促した。
両親は、今までどう過ごしていたのだろう。ジエーゴ様とずっと一緒にいたのだろうか。不安を覚える。この縁談がどうなろうと知ったことではないが、もし破談になればその原因は私よりも彼らにあるのではないかと思う。

下のロビーに、両親とジエーゴ様が待っていた。心なしか、ジエーゴ様が疲れているように見える。気のせいだろうか。…気のせいであって欲しい。父と母が探るような視線を寄越したが、それには気づかぬフリをした。
今後については後日連絡するということで、私達親子はこの屋敷を後にする。

外まで見送ってくれたゴリアテ様が、徐に私を引き止めた。


「そのお召し物、よくお似合いですね。」


…別れ際に言うことだろうか。
変わった人だと思ったが、正直嫌な気はしない。

馬車に乗り込み、動き出した景色を見つめながら、やがて出される答えについて思案した。
私はどちらでも構わない。彼との縁談が上手くいっても、いかなくても、身の程知らずだと周囲から嗤われることに変わりはない。

けれども、何故か。
あの双眸が、あの声が、頭に焼き付いて離れなかった。

真っ直ぐに私を見つめる、澄んだ瞳。そこに一瞬だけ、僅かに落ちた影のようなもの。
男の癖に。彼の口から溢れたその言葉が、どれほどの意味を持っているのかはわからない。全て私の思い違いかもしれない。…だけど。彼の足首に、枷が見えたような気がした。何もかもが私とは正反対であるはずなのに、不思議なほど近く思えた。

…もしも本当に、彼に本を貸す機会があるのなら、どんな物語が良いだろう。
家に着くまでの道中、気づけばずっと、そればかりを考えていた。


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