訪れる街全てを魅了しては去っていく謎の旅芸人…シルビアの来訪を謳う特別公演は、この日を持って終了となる。そしてそれは、彼との別れを意味していた。

事情は既に団長から他の団員達へと伝えられており、皆快く迎え入れてくれた。
きっとここでなら、上手くやっていけるだろう。私の曲芸を、ここにいる誰もが認めてくれている。それは何物にも代え難く、喜ばしいことだ。だけどそう思えば思うほど、悲しみが積もっていく。

曲芸師としての私を作り上げたのはシルビアであるはずなのに、私がその道を歩めば歩むほど彼から遠ざかってしまうように思えてならない。なんて、皮肉なのだろう。

今日もまた、空中ブランコに足をかける。

何があったって、結局のところ私はこれしか知らないのだ。他の生き方を、知らない。例えどこで捨て置かれることになっても、それだけは変わらないだろう。本当に、皮肉だ。

照明が、何故だかいつもより熱く感じた。

大きく身を乗り出して、月夜のようなコントラストの中を揺れ動く。
…大丈夫。私はひとりでだって、飛んでみせる。そう言い聞かせて、前方に待つもう一つのブランコを睨むように視界に捉えた。…けれど。

そこに彼の姿を、もう二度と思い描けない。

改めてそれに気づいてしまった途端、体が酷く強張った。
照明も、私に向けられるたくさんの眼差しも、何もかもが、突然恐ろしくなった。

他の生き方を知らない。だけど私の曲芸は、彼の…シルビアの為だけに存在していた。あまりに盲目だと自分でも思うけれど、それが私にとって、生きるということだったのだ。

これから私は、どこを目指して飛べばいいのだろう。
優しく撫でてくれる大きな手も、花がこぼれるような美しい微笑みも、もう私を待ってなどいないというのに。

心臓を握り潰されるような息苦しさが押し寄せた。
私の世界が暗転していく。何も見えない。何もわからない。

けれどブランコは漕ぎ出している。
ここまで来てしまったら、逃げ帰る訳にはいかないのだ。

まるで手探りするような気持ちのまま、私は宙に身を投げる。

……迷いがある時は、飛んではいけない。
そんな師の言葉を思い出したのは、その後だった。


観客がどよめくのがわかる。
精一杯伸ばした私の指先は、見事にバーを掠めていった。

重力に逆らう術を無くした体が、そのまま下へと引かれていく。
それが何故か不思議なほどゆっくりと感じられた。

きっと、助かりはしないだろう。

ここはサーカステントだ。万が一などあってはならない。
事故は、起こらないことが前提なのだ。備えなどはありはしない。
……私は、失格だ。

迫り来る死の気配に、恐怖は勿論あった。
けれど自分でも意外なほど冷静に、この状況を受け入れている。

まるで走馬灯のように、彼に関する様々な事柄が思い起こされた。
出会った頃のこと。私を拾ってくれたこと。叱ってくれたこと。褒めてくれたこと。
こんな時でさえ、私が考えるのはシルビアのことなのだ。なんて、馬鹿なのだろう。
いっそ笑い飛ばしてしまいたいような気持ちにもなるけれど、涙が溢れて止まらなかった。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
遠のく意識の片隅で、譫言のように呟いた。


*****


気がつくと、私は団の医務室に寝かされていた。
未だ覚醒しきらない頭をどうにか持ち上げて、上体を起こす。
半端ではない高さから落ちたはずなのに、どこにも痛みはなかった。


「目が、覚めたのね。」


記憶を紐解きながら自分の両手を眺めていると、聞き慣れた声が耳に届く。
部屋の隅でシルビアが、何故かばつの悪そうな顔をしていた。


「あなたが、助けてくれたのですね。」

「ええ、間一髪だったわ。」


確信めいたことが頭に浮かんで言葉にすれば、彼は苦笑と共に肯定する。
あの場で咄嗟に私を受け止めたというのは驚くべきことだけれど、シルビアにならば不可能ではないのだろう。恐らく多くの人間が肝を冷やしたことだろうが、彼の手にかかればそんなハプニングでさえもひとつのショーになってしまったのではないかと思った。
…何にせよ、私が許されざる失態を犯したことに変わりはないのだけれど。


「怒らないのですか。」


随分としおらしい様子の彼に、思わずそう問いかけてしまった。
シルビアは曲芸師としての意識を非常に高く持っている。だからこそ私がしでかしたことを、良く思うはずがないのだ。中途半端な気持ちで飛んで、死にかけた。それだけではない。観客の期待を裏切り、団の皆にも迷惑をかけた。そんなことが、そう易々と許されるわけがない。
なのにお小言の一つも貰えないのは、もう私が、彼の弟子ではないからなのだろうか。


「怒れるわけ、ないじゃない。」


返ってきたのは、今にも消え入りそうな声だった。
こんなにも弱々しい彼の声を、私は聞いたことがない。
思わず、息を飲んだ。


「本番前に、あんな話をするべきじゃなかったわ。配慮が足りていなかった。本当に、ごめんなさい。」


彼はどうやら、責任を感じているようだった。
確かにあのとき私は酷く動揺していたけれど、例えどんな心持ちであってもやるべきことはやらなければならない。それを成し遂げられなかったのは他でもない私自身の責任なのだから、彼が気負うのは見当違いだろう。しかしそう伝えても、シルビアが首を縦に振ることはなかった。


「…訳を、聞かせてくれませんか。」


このまま互いを庇い合っては無意味な押し問答が続いてしまうだけだと思い、核心に触れてやることにした。するとシルビアは忽ち苦い顔になり、曖昧な声を溢す。

ずっと共に旅してきたのに、なぜ今になって私を置いて行こうとするのか。
その答えを知るのは怖い。だけど何も知らずにいたら…彼の優しさに甘えていたら、私はこれから生きることも死ぬこともできないような気がするのだ。それはきっと、何よりも辛い。


「ねぇシルビア。もし私があなたのお荷物なら、そう言ってはくれませんか。ひと思いに、切り捨てて欲しいのです。」


未だ煮えきれない様子のシルビアに、意を決してそう言った。
恐る恐る彼の顔色を窺えば、見たことがないほど瞠目している。
これはやはり図星ということなのか、それとも。



「何を言ってるのよ!そんな訳ないでしょ!」


彼はみるみるうちに目尻を吊り上げ、勢いよく私に詰め寄る。
その声には怒気が込められていたのに、どこか泣いているようにも聞こえて、はっとした。
大きな両手が、私の頬を包み込む。それが少し震えていることに気づき、胸がぎゅうっと掴まれたように狭くなった。

私は、大きな勘違いをしていたのかもしれない。


「…アタシがいけないのよね。ごめんなさい、声を荒げちゃって。」

「いえ、私の方こそすみません。」


頬から手は離さないまま、シルビアは悲しげに瞳を伏せた。
そんな顔を、して欲しくない。そう思い慌てて謝ると、彼は首を横に振る。


「名前ちゃんは聞き分けの良い子だから、アタシはそれに甘えてちゃってたの。本当にごめんなさい。全部、ちゃんと話すわ。」


もう何度目になるかわからない謝罪の言葉を口にして、彼はこちらを真っ直ぐに見た。
明るいグレーの虹彩が、曇りひとつなく磨かれた鏡のように澄んでいる。美しい人だ。なんて、場違いなことを思った。


「サソリ退治に行った時、面白い子達に会ったのよ。」

「…面白い子?」


ベッドの傍にある丸椅子に腰掛けて、シルビアは話し始める。
やはり先日の魔物討伐の際、何らかの切っ掛けがあったようだ。


「その子達ね、勇者の伝承について調べるために命の大樹を目指してるみたいなんだけど…彼らが言うにはもしかしたら近いうち、邪悪な神ちゃんのせいで世界が大変なことになっちゃうかもしれないんですって。」

「…それはまた随分と、壮大なお話ですね。」


予想の斜め上を行く内容に、なんだか呆気に取られてしまう。そんな私の様子を見て、シルビアは困ったように笑った。彼が言い淀んでいた理由はこれなのかもしれないと、内心ひとり納得する。突然お伽話を始められたのかと思ってしまったけれど、シルビアはこんな時に冗談を言うような人ではない。一先ずは続きを聞いてみようと、彼を促す。


「今まで何度も言っているけど、アタシの夢は世界中の人々を笑わせることなの。だけどそんな悪い奴がいたら、みんな笑えないじゃない?」


…なんだかわかってしまった気がして、妙な胸騒ぎがした。
先ほど彼が言っていた、”危険な旅”という思わせぶりな単語を思い出す。
その途端に脳内で、点と点が線になった。


「シルビア、あなたまさか…」

「察しが良いわね。さすがだわ。」


パチン、と指を鳴らして得意げに口角を上げるシルビア。悪い予感が的中したことを悟り、私は思わず頭を抱えた。


「邪悪な神ちゃん、やっつけちゃおうと思うの。」


なんて真っ直ぐで、破天荒な人なのだろう。
成る程、確かに危険な旅だ。何せ、神を相手取ろうというのだから。

シルビアが出会ったという人物の言葉がどれほど確かなのかはわからないが、それが彼の心を動かしたというのなら仕方がない。


「全く、あなたという人は。」


ため息混じりに苦笑を溢せば、彼も同じ顔をした。


「だけどアタシ、全然ダメね。みんなの笑顔の為に決意したのに、名前ちゃんを傷つけちゃったわ。」


自嘲するように呟いて、シルビアは再び私の頬へと手を伸ばす。
まるで涙を掬い取るかのように、指先でそっと撫でていく。

私は泣いてなど、いないのに。
そう思い首を傾げたが、彼の拭おうとしているそれが今流れている訳ではないのだと気がついた。

落ちていく瞬間、死を覚悟したとき、シルビアを想いながら流した涙。

彼が私を受け止めたというのなら、見られていても不思議ではない。
なんだか非常にばつの悪い気持ちになったが、シルビアはただ慈愛の込もった眼差しをこちらへ向けるだけだった。


「アタシね…名前ちゃんの事になると、なんだか臆病になっちゃうみたいなの。どうしてだと思う?」


幼子を諭す時にするように、彼は私の顔を覗き込んだ。
その双眸に、呆けた顔の自分が映る。
言い知れない羞恥のようなものが突然湧いて、何故だか直視できなくなった。


「さあ、見当もつきません。」


思わず横顔を向けた私の視線を追いかけて、彼は言う。


「あなたのことが、大切だからよ。」


心臓がどきりと、一度大きく脈を打つ。それが何を意味しているか、私にはよくわからない。
身体中を、シルビアの体温が包み込む。鼻腔に広がる彼の匂いは、まるで花のようだった。


「勝手だけれど…約束するわ。危険な目には遭わせない。あなたのことは、必ず守る。だからやっぱり、アタシの側に居てくれないかしら。」


今まで一度も見たことのない、射抜くような瞳がそこにあった。
ああ、なんて、綺麗な人。優しい人。こんな人と離れるなんて、一体どうして出来ようか。


「ええ、勿論です。ずっとお側に置いてください。」


もう何も悲しくないのに、何故だかまた涙が溢れた。


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