銀の空中ブランコが、照明を受けて煌めいている。

公演中のサーカステントでは、その光だけが頼りだ。月明かりのようにどこか心許なく、それでいて厳かな光。多くの人々が抱く期待を私に知らしめ、何処にも逃げ場などないのだと釘を刺すかのような光。けれどそれは、不安と同じだけの心地良さを孕んだ、絶妙な緊張感を連れてくる。

恐怖がないと言えば嘘になる。だけどそれ以上に、楽しんでいた。
今この時だけは、ここにいる全ての人の時間が、私だけのものなのだ。

ブランコに足をかけて身を乗り出せば、それは音も立てずに空を切り始める。力だけで漕ぐのではないと教えてくれた彼は今、私を見てくれているだろうか。遠目に見える観衆の姿はどこか星のようにも思えて、まるで夜空を飛んでいるような気分になれた。

前方にあるもう一つのブランコが、着々と近づいてくる。
……もしも彼が、そこで待っていてくれたなら。

いや、待っている。彼が…シルビアが、私を受け止めてくれるのだ。
そう言い聞かせて、私は飛ぶ。

いつから始めたのかは思い出せないが、それは習慣となっていた。上手く行くよう、怪我のないよう。ある種のまじないのような意味合いを持たせて、私は頭の中に彼の姿を思い描く。
何か一つ覚える度に優しく頭を撫でてくれる、大きな手。彼がその手を差し出して、私を待っている。そうイメージするだけで、宙に身を投げることへの恐怖はあっという間に消えてしまうのだ。

伸ばした手はしっかりとバーを掴み、ブランコが再び弧を描き出す。
それを見届けた観客が、拍手と歓声を響かせた。

今日も無事に、やり遂げた。
安堵と、達成感と、得も言われぬ高揚感が胸を満たす。

ここにいる、全ての人の時間が、私だけのもの。
けれどそれを噛み締めながらも、本当に欲しているのは実のところ、ただひとつだけだった。


「今日もとっても素敵だったわ、名前ちゃん。」


舞台袖で控えていたシルビアが、いつものように微笑んでくれる。
私はこれを見る為だけに飛んでいると言ってもいい。


「ありがとうシルビア。あなたの指導の賜物です。」

「ふふ。優秀な弟子を持てて嬉しいわ。」


艶やかに口角を上げ、シルビアは私の頭をふわりと撫でる。
けれどそれに何かを答える間も無く、私は彼の背を見送ることとなった。
次は、シルビアの出番だ。世界的な有名人である彼は、ただ姿を見せただけで一際大きな歓声を浴びていた。


孤児だった私がシルビアに拾われてから、もう随分と月日が経つ。
出会った頃は駆け出しだった彼も、今となっては自分の船を持てるまでになり、世界を股にかけて活動している。青空の下で大道芸を披露したり、時にはこのように団のゲストとして公演に参加させてもらったりと、その内容は様々だ。
私はそんな彼の後をついて周り、共に芸を披露する。シルビアにはまだまだ遠く及ばないが、それでも幾らか名は知れ渡った。全ては彼のお陰である。

シルビアは、優しく清らかな人だ。かつて自分の命を繋ぐことだけしか頭になかった私にとって、それは信じられない程だった。

世界中の人々を、笑顔にしたい。彼はいつもそう言っている。
崇高な志だと私は思った。そしてそれは、自分には到底持つことのできないものだとも思う。
ひとつひとつ技を覚えてものにして、いかに出来ることを増やそうとも、私は彼のようにはなれそうにない。

ただ、上手くできれば、シルビアが笑ってくれる。
私にとっての曲芸は、その手段に過ぎなかった。

けれどそれが間違った考えだとは思わない。
シルビア自身が笑顔で居てくれるなら、彼の夢はいずれ叶うだろう。
私はそれを願っている。彼が生み出した沢山の笑顔を見ることが、私の夢なのだ。


*****


サマディーには少し長めに滞在することが決まっていた。
この国のサーカスを率いる団長は、シルビアとは長い付き合いなのだ。私共々これまでに幾度となく出演させて貰っているし、他の団員達とも仲良くしている。第二の故郷と言っても相違ない気がした。

けれどそんな日々も、間も無く一つの区切りを迎えようとしている。

特別公演の千秋楽のみを残した日、シルビアを食事に誘おうと思い、私は彼の部屋を訪ねた。
しかしノックをしても返事はない。鍵が掛かっていたので中を確かめることは叶わなかったが、恐らく出かけているのだろう。元々顔の広い人物ではあるけれど、この街には特に知り合いが多いはずだ。もしかすると先約があったのかもしれない。

少し残念に思いながらも納得して、一人で街へ出ることにした。
程なくして年の近い団員達に出くわし、声をかけられる。挨拶を交わし、その流れで事情を話せば、気のいい彼らは私を食事に誘ってくれた。一人きりでは正直寂しいと思っていたので有り難い。そこで仲間のひとりから、ある話を耳にした。

なんとシルビアが、先程サソリ退治へ向かった王子に同行したのだという。

一体どのような経緯でそんなことになってしまったのかはわからないが、ここまで来て人助けとは何とも彼らしい。砂漠で暴れる大サソリの話は、前から度々耳にしていた。心配がない訳ではないが、シルビアが武術を心得ているということも、その強さもわかっている。それにサマディーは騎士の国だ。王子が優れた武人であるというのはよく聞くし、他の同行者たちもきっと腕が立つはずだ。下手を打つこともないだろう。
明日の公演に間に合うのなら、何も問題はない。そう頭を切り替えて、私は数少ない友人達と他愛のない時間を過ごした。


シルビアが戻ったのは、翌日の昼頃だった。やはり標的は手強かったのだろうか。討伐隊は道中で野営をしたらしい。向かった場所はここからそう遠くないはずだけれど、万全な状態で挑むに越したことはないのだろう。疲れがあっては、本来の力が発揮しにくくなるものだ。
一先ず彼に大きな怪我は見当たらず、ほっと胸を撫で下ろす。

昨日のリベンジという訳ではないが、今度こそシルビアと食事を共にすることが叶った。
けれど浮ついた気持ちでいる私とは裏腹に、彼はどこか神妙な面持ちで口を開く。


「名前ちゃん…あなた、ここに残りなさい。」

「それは…どういう意味ですか?」


想像もしていなかった言葉が鼓膜を震わせた。まるで胸に鉛を捻じ込まれたかのように、気分が急降下していく。汗をかいたグラスの中で、溶けかけの氷が物憂げな音を立てた。

今夜の公演を終えれば、私たちはこの地を後にする。それが当初からの予定だった。
しかし、ここに残れと彼は言う。勿論その言葉が理解できなかった訳ではない。だからこそ嫌な予感がして、私は思わず問いかけた。どうか間違いであって欲しいと、願いながら。

けれどその願いは、瞬く間に塵となった。


「あなたはもう一人前だし、このままここの団員としてやっていった方がいいと思うの。それに…今は詳しく話せないけれど、アタシはこれから危険な旅に出るわ。そんなところに、名前ちゃんを連れて行けない。」

「そんな…急すぎます。どうして突然…?」


シルビアの考えがこんなにもわからないのは、恐らく初めてのことだった。

なぜ、今、この場所に、私を置いて行こうとするのだろうか。
確かにここのサーカス団とは懇意にしているが、今までそんなことは考えたこともない。
彼はいつからそうするつもりだったのだろう。
この国に来た時も、来る前も、そんな素振りは一切感じ取れなかった。

もしや昨日のサソリ退治が、彼に何かを齎したというのだろうか。

危険な旅に出ると言うが、旅には危険が付き物だ。これまでも幾度となく魔物と遭遇し、修羅場を潜り抜けて来た。私に戦闘技術はあまりないけれど、職業柄身体能力はそれなりにあると自負している。自分の身を守ることくらいは、できるつもりでいた。なのに、一体どうして。


「本当に急よね。申し訳ないと思っているわ。だけどお願い、わかって頂戴。団長さんにはもう話してあるから。」


留めだと言わんばかりに放たれた言葉で、その決意の固さを思い知る。
なぜ、勝手に決めてしまったのだろう。私がどうしたいか、確認くらいして欲しかった。考えれば考えるほど、不満は尽きない。けれど同時に、あることが頭に浮かぶ。

私の存在はシルビアにとって、重荷だったのではないか。

認めたくはないけれど、悲しいほど腑に落ちた。
身寄りのない私がシルビアに出会った時、彼はまだ年若い青年だったのだ。
親子というほど年が離れているわけではないけれど、親代わりのようなことを彼にはたくさんしてもらってきた。けれどそれは、年頃の若者にとっては決して楽ではなかったはずだ。
私はシルビアの人生における大切な時間を、奪ってしまっていたのではないだろうか。

そもそも彼がどんなつもりで私を拾い、今に至るまで側に置いてくれていたのか、本当のところは知らないのだ。
独りぼっちで行く当てのない私に、居場所をくれた彼が、ただ眩しかった。


「……わかりました。」


言いたいことも、聞きたいことも、山程ある。
だけど私には、頷くことしかできなかった。

膝の上に作った拳を、思わずぎゅっと握りしめる。

恐らくこれは、シルビアの優しさなのだ。
本当のことを言わないのは…お前など必要ないと突き放してしまわないのは、彼が優しいからなのだ。


「ありがとう名前ちゃん。やっぱりあなたは、いい子ね。」


俯き加減でテーブルの木目を眺めながら、彼が微笑む気配を感じた。
黒い睫毛に縁取られた綺麗な双眸が弓なりに細められるのを、容易く思い描ける。
だけど今この時ばかりは、それを見てはいけない気がした。

私と離れ離れになるのに、あなたはどうして、笑っているの。
そんな問いかけをできるはずもなく、ただ静かに奥歯を噛み締める。
抱いたことのない黒い感情が、そっと顔を覗かせた。それを悟られたくなくて、私は彼から目を逸らした。


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