私の世界は常に誠二が中心だった。それは現在でも変わらない。
誠二の為ならばなんだって出来る。誠二は私にとって全てなのだから。


…――――しかし、いつからだったかしら。



私には上司がいる。性格は最悪で、口を開けば腹立たしく、人の不幸をニタニタと嘲笑しながら見下げる最低という言葉を具現化したような男。それが不服にも私の現在の雇い主である上司だ。
私は彼が嫌いだった。人を愛してるだなんて戯言と妄言を重ねる男に虫唾が走り、顔を顰めることはよくあった。当たり前のように人間を陥れる彼に嫌悪感を抱いたのは、当然のことだと思う。

そんな上司は当然、愛していると謳っている人間から嫌われ続けた。憎悪されていると言っても過言ではないかもしれない。主に池袋在住の、上司の顔見知りの大半は彼のことを疎ましく思っていることだろう。態度で示しているのは平和島静雄ぐらいだけれど、彼の気に入りの高校生達も平和島静雄と同じような感情を抱いているに違いない。


人間の心情を読むことに長けた彼が、己に向けられる人々の感情が何なのか理解していないはずがなかったが、彼はそれでも笑う。人間が好きだと高らかに笑い、人間を愛し続けた。

その姿にいつしか私は嫌悪を覚えなくなった。慣れたと言ってしまえば簡単かもしれないが、それとは少し違うのだと私自身が否定していた。彼が直向きに人間を愛する姿が、まるで義務的に行われているような気がして哀れみを抱いてしまったのかもしれない。そして理由を述べるならばもう一つ、何かしら事件を引き起こした彼の表情には一切の笑みがなくなる“瞬間”というのがある。ほんの一瞬、彼は表情を消す。そして変事に動転する人々を、鋭い目付きで見続ける。私はそれが酷く気になった。


その日を境に、私は気付いた時には上司の世話を自主的に焼くようになった。

自分でも驚いた。まさか私が誠二以外の面倒を見るなんて夢にも思わなかった。しかし不思議と嫌だとは思わなかったし、寧ろ当然だとすら思ってしまった。私はこの最低最悪な悪魔のような男にいつの間にか毒されてしまった、この行動全てはそれ故にだと結論付ければ案外簡単に開き直れてしまうし、自分自身も納得させられる。


世界は変わらず誠二だけ。けれど時々、毒された私の視界に彼の幻想がちらつく。



――――そして、ほんの少しだけ。

池袋に嫌われたその幻想に、少し惑わされてあげてもいいと思っただけなのだ。





おいでませ、袋!
▼この世界に彼はいないのです。





着信を受けたその携帯が、プライベート専用の携帯だということは以前より知ってはいた。実際その携帯を使っているところを見るのは初めてだったけれど。

相手が誰かなんて私が知るよしもないが、臨也が電話向こうの相手に向かって「恭弥さん」と呼んでいたことから、それが相手の名前だとは簡単に察することが出来る。
仕事時や他の人間と話すときとはまったく違う、今まで聞いたこともない柔らかい声を出すもんだからつい目を見開いてしまった。チラリと彼の姿を目の端に入れれば、その顔は至極嬉しそうだ。


臨也は数分の電話を終了したかと思えば、慌ただしく部屋を後にした。出ていく際に、今日は上がりでいい、と私に言い残して。


――――それが昨日のことだ。



「……臨也、説明しなさい。これはどういうことかしら?」

「…えっとー……どういう、こと…なんだろう?」



あはっと誤魔化すように笑い、私から目を逸らす臨也に溜息を吐きつつ、室内をぐるりと見渡す。


いつも通りに出勤した仕事場には上司の他に、見覚えのない人間が数人いた。しかも全員、この時代にリーゼントをバッチリ決めた男。そんな人間が何故かせっせと部屋中を忙しなく動き回り、荷物を整理していっているのだ。出勤した直後に、こんな異様な光景を見て受け流せるはずもなく上司に聞いたのだが、どうやら上司も今のこの状況に付いていけていないらしい。

私同様に、片付けられていく室内をただ呆けたように見ている臨也の顔は傑作だが、それを注意するほど私も余裕がない。



「折原さん」

「……哲さん…ちょっと、状況を説明してもらっていいかな」



不意にかかった声の方向に目を向ければ、スーツをきっちり着こなした落ち着いた様子のリーゼント男がいた。哲さん、と臨也が名前を呼んだことから顔見知りではあるのだろうが、だからと言って本人の承認もなしに部屋を片付ける理由にはならないだろう。

男は臨也の質問に苦笑を浮かべ、そして困ったような声色で小さく「恭さんが…」と呟いた。恭さん、という名前に最初は聞き覚えがなかったが、私の隣でぴくりと反応を示した臨也が「恭弥さん?」と男に聞き返した。
恭弥さん、恭弥さん…と頭で数回ほど反芻すれば、簡単に思い浮かぶその名前。それは昨日、臨也のプライベート専用の携帯に電話をしてきた人間の名前だ。あの折原臨也を機械越しにいるだけで、あんな風に嬉しそうに笑わせることが出来る人間。どうやら男は、その「恭弥さん」の使いの人間らしい。おそらく男だけではなく、未だに忙しなく荷物を整理する男達も同じなのだろう。


そんなことを思考しつつも、意識を男に向けていれば、男は少しだけ言いにくそうに口を開閉しながら躊躇い気味に言葉を続けた。



「なんでも、折原さんに池袋に来てほしいらしく…。折原さんの私物で必要そうな物を運んで来い、と恭さんから命じられてまして」

「……え?」

「………ですので、暫らくは池袋にある昨日の屋敷で過ごしてほしい―――と、恭さんが」



開いた口が塞がらないとは、まさにこのことを言うんじゃないかしら。男の言葉を丁寧に脳裏で繰り返し、その度に何度も行きつく一つの結論に驚くことしか出来ない。

向こうが知っているのか定かではないが、臨也が池袋に住むことは最早不可能に近い。何せあそこには彼を嫌う人間、彼を恨む人間が大勢いるのだ。その代表として挙げられる平和島静雄は、彼が池袋の地に踏み入れれば動物並みの本能で彼の居場所を正確に突き止めることが出来る。
そうなれば大惨事。彼は自販機を投げ、標識を振るってくることだろう。その度に臨也が相手をしていたのではキリがない。そして彼が臨也と喧嘩をする度、私のすることが多くなる。

――――ということは。



「(…誠二との時間が少なく、なるっ…!!)」



これは非常事態だ。有り得ない、そんなこと絶対に許せない。
今でさえ上司の無茶な行ないのせいで手を焼いているというのに、更に面倒事を増やせていうのかしら。冗談じゃないわ、いくらお金を貰ってもこれ以上は私の許容範囲を超える。

もういっそのこと、この上司を見限るべきなのかしら。そもそも上司の事情なのだから、別に私がそこまで面倒を見る必要はないわよね。だったらその事情が落ち着くまで休暇でも奪い取ろうか、それとも私だけ今まで通りここで別々に仕事をするか。

…いや、でも漸くまともな生活習慣に戻したと言うのに、また以前のような不規則な生活習慣に逆戻りされては今までのことが無駄になる。少しでも注意を怠ればご飯は食べないし睡眠もしない。それなのに池袋の街に行けば、平和島静雄と喧嘩をして傷を作ってくる。目を離せばすぐに貧弱な体を更にガリガリにさせて、白を通り越して肌も青白くなるかもしれない。



「…波江?波江さーん?」

「……倒れられるのも面倒だし、でも私を巻き込んでほしくはないし…」

「なーみーえー?さっきからブツブツ何言ってんの。顔が真剣すぎて恐いよ」

「…うるさいわね。誰のせいでこうなってると思ってるの。本当に面倒なことばかりね、貴方に関わると」

「え、何で俺怒られてんの?ていうかそんな気にしなくてもいいよ。波江さんは休みにするから」

「……貴方、行くの?それに仕事はいいのかしら」

「まぁ……恭弥さんが来てって言ってるし。情報屋の方は暫らくお休みするから仕事の心配もいらない。お得様には伝えてるし、休みの間も情報収集はするから大丈夫」

「…………」

「…随分と不服そうだね。波江はあと何に不満を感じてるのさ」



不満ですって?誰のせいだと思ってるのかしら。そもそものアンタの生活能力の無さのせいで、私がこうも気を配らないといけないんじゃない。どこの誰かしら、一週間ろくに食事と睡眠もとらずに倒れた大の大人は。

ああ、本当に碌な上司じゃないわねコイツ。



「…分かりました。仕事は当分休ませてもらいます」

「急に悪いね。またこっちから連絡するから」

「そうね。とりあえず毎日、朝昼晩の食事をとったか、それと睡眠時間を知らせなさい」

「…はい?」

「それと……そこのリーゼントの貴方。貴方もその屋敷にはいるのかしら?」

「え、ええ…はい」

「それならちゃんと食事を食べさせてちょうだい。気を付けてないと食べないから。後々倒れるようなことがあっても面倒だし」

「…いやいや、波江…哲さんに何を言って、」

「それについてはご安心ください。食事は恭さんや他の方々とご一緒することになりますから」

「哲さん!?君も何真顔で返答してんの!?」

「ならいいわ。それと食べなさすぎとか偏食にも気を使ってもらえると助かるわ」

「波江さんっ!!お願い、なんかそのお母さんみたいな発言むず痒いから止めて!」

「誰がお母さんよ、気持ち悪い。貴方みたいな子供なんてほしくないわ」

「唯一反応したところがそこかよっ!」



ぎゃいぎゃい騒がしい二十三歳は放っておいて、私は男に視線を移す。男は私の視線に気付き、その風貌からは想像も出来ないような丁寧な物腰で「お任せ下さい」と顔を緩めた。外見判断は当てにはならないらしいが、どうやら彼もその類いらしい。臨也の知り合いだというのに意外と常識的である。



「兎に角、ちゃんと連絡はしなさいよ」

「……あのねぇ波江さん、君は俺のことを何だと…」

「分かったわね?」

「……なみ、」

「分かったわね?」

「…………うん」

「分かればいいわ。あと何かあった場合も連絡しなさい、いいわね?」

「………………うん」



何故だか甚く静かになってしまったけれど、まぁいいわ。ここまで言ったのだから一先ず大丈夫でしょう。


あとは勝手にすればいい。倒れず、派手な怪我もせず、健康的な生活リズムを守れさえすれば何したっていい。私には関係のないことですもの。決して臨也を心配しているのではなく、飽く迄も私の今後の仕事に支障が出ないようにしているだけ。何度も言うけれど、私の全ては誠二であって臨也が入り込む隙間など一ミクロとしてない。



「それじゃあ臨也、気をつ――――……、」

「……波江、今…もしかして気を付けてって言いかけた?」

「…………まさか」



そのまさかを無意識に言いかけた自分を叱責しながら、私は臨也を気にかけてるわけないと自身にそう言い聞かせた。





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波江さんは色々理由付けしながら、臨也の世話を焼いてます。

これは私の為…誠二の為…よし!みたいな感じで(笑)
何が何でも、自分が臨也に甘いとは認めたくないようですww



 
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