臨也+波江(臨波臨)
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午前九時、出勤。
「(………こいつ)」
情報屋に雇われ早数日、矢霧波江は既に見慣れてしまった朝の光景に溜息を吐き捨てた。
広い室内にある高級感漂うソファに倒れこむようにうつ伏せで睡眠に浸る上司に波江は呆れるしかない。ちゃんと寝室に行けば碌に使われていない高級ベッドがあるというのに、この上司がその高級ベッドで寝ている姿を波江は未だに見たことがなかった。彼女が出勤して目にする光景は、上司が今日のようにソファに倒れているか、彼専用の椅子で意識を飛ばしているか、或いは徹夜明けかの三つしかない。その選択肢の中から云えば今日はまだ良い方だ。一応は体を休めているのだからマシである。
波江はもう一度溜息を溢し、彼を起こさないよう静かに準備を開始した。
仕事の準備ではない。矢霧波江の朝はまず上司のご飯作りから始まるのだ。
「(そう言えば昨日、サンドイッチが食べたいとか言ってたわね…)」
本人が言ったことを覚えているかは定かではないが、波江が作る朝食はこれで決まりだ。
これも秘書の仕事なのだろうかとは最早波江は疑問すら抱かない。慣れとは恐ろしいもので彼女はすっかり、この破綻的人格の持ち主である上司との生活を日常として受け入れている。彼女の朝はこれが普通なのである。
慣れた手つきであっという間にサンドイッチを作り上げ、波江は満足そうにそれを見下ろした。ついでに彼の好きな紅茶を用意するのも忘れない。
それら全て揃えたとき、波江はここで漸く上司を起こしにかかるのだ。
「臨也、起きなさい」
「……ん、ぅ…………な、み…え…?」
「私以外誰がいるの。寝呆けていないで起きなさい、朝食用意してるから」
「……んー…」
「んー、じゃない。ほら早くしなさい」
「…うんー…」
「……はぁ」
午前九時三十八分、寝起きの悪い上司を起こす。
午前十時、漸く上司起床。
「―――おはよう、波江」
「ええ」
「悪いね。毎朝起こしてもらって」
「もう慣れたわ。いいから早く食べてくれるかしら?仕事が始められないわ」
「はいはい」
慣れとは本当に恐ろしい。
まさか自分が愛する弟以外の人間に、上司とはいえこれほど面倒をみることになるなんて夢にも思わなかった。
しかも同じような毎日を過ごし続けたお陰ですっかり順応してしまい、不快感を抱かなくなってしまった自分に頭を抱える。相手は外道とも呼べる情報屋だ。そんな外道相手に自分は何をここまで甲斐甲斐しく世話を焼いているのか、波江自身にも解せないでいた。
これを慣れの一言で片付けるには、あまりにも簡素で雑すぎる気がする。
「波江」
「何かしら?」
「昨日、俺が言ったこと覚えててくれてたんだ」
「…偶々サンドイッチの材料があっただけよ」
「それでもいいよ。…ねぇ、波江」
「何?」
「ありがとう。美味しいよ、コレ」
「………そう」
世間で外道だの非道だの言われている黒幕的男が、まさかサンドイッチを作っただけで害のない笑みを浮かべてお礼を言うなんて予想出来ただろうか。少なくとも、まだ彼との生活に非日常を感じていた波江には予想出来なかった。
たった一言のお礼が、全てのきっかけだった。
そうだ、これは慣れで片付けれることではない。
彼が普段絶対に見せない何気ない行動言動をもっと見たくなったのだ。
慣れではない。
これは好奇心だった。
「それじゃ波江、今日もよろしくねー」
「給料分の働きはちゃんとするわよ」
「ふふ、頼もしいなぁ」
午前十一時前、仕事開始。
情報屋という不安定で小難しい職に就いているだけあって、仕事中の彼は案外静かで比較的真面目且つ真剣に取り掛かっている。特に裏社会からの仕事、更に言えば得意先である裏からの仕事はそうだ。
一つの小さな過ちが命取りになる。信用第一で営業する情報屋には一つの失敗でも許されることではないのだろう、と波江は真剣な面立ちで蟻のような文字がびっしり埋まった書類とにらめっこしている上司を一瞥しながらそう思った。
この顔も、男が普段見せない表情としてカウント出来る。大抵の人間が見ることが出来る彼の表情なんてごく僅かだ。悪巧みをしている厭な笑みか、偽り笑みばかり。波江自身には今となってはあまり向けられることのない笑みを彼は外で振りまいている。
それに関しての興味はなかった。その他大勢が見たことのある彼に、波江の好奇心は向かない。
「……臨也」
「んーなにー?」
「昼食はどうする気?」
「今日は十三時に池袋で仕事だから俺はいいや」
「帰宅は何時頃?」
「仕事自体は一時間もあれば終わるけど、シズちゃんに会ったら多分帰るのは夕方頃になるんじゃないかなぁ……」
その事態を想像したのか一気に顔を歪め、けれどきっと会ってしまうだろうという変な確信を持っている彼は微妙な心境を抱いて遠くの方を見据える。
かの池袋最強の持つ驚異的な察知能力を誰よりも理解しているのは、その対象である上司自身なのだろう。既に彼の纏う空気が諦めモードであった。
「…ま、死なないように逃げてくるよ」
「ついでに厄介な傷もつけてこないでくれる?…手当てが面倒よ」
「別に手当てしなくてもいいよ。それは君の仕事内容に含まれてないから」
「………」
遠回しに気にするなとでも言っているかのような口振りに、波江は僅かに眉根を寄せる。彼の視線は先程から変わらず書類に向いているので幸いにも気付かれてはいない。
もし気付かれでもしたら、何故そんな顔しているのだと彼は確実に問うてくるだろう。そんなこと問われても言葉を詰まらせ、考えあぐねることしか出来ないであろうと波江自身も予想出来た。
彼女が此処にいるのは仕事だからだ。
情報屋の秘書というのが現在の波江の肩書きである。だから波江は情報屋の自宅兼事務所である此処にいるし、毎朝彼を起こすのは仕事をするため。仕事を滞りなく進めるために波江は上司を毎朝毎朝起こす。それも彼女の仕事の一環であると数えてもいい。
―――だが、しかし。
朝食を用意する理由はそれに含まれないし、池袋に行くたび怪我を作ってくる彼を手当てする道理もない。それらには、先程の理由は通じない。何故なら彼が朝食を食べようが食べまいが、彼が怪我をしようとしまいが波江には直接的には関係ないことだ。
朝食がなくとも彼はその日の仕事に取り掛かれるだろう。怪我をしても余程のものでない限り彼は仕事に支障をきたすことはしないだろう。更に、朝食も手当ても上司の命ではない。彼は特にそのようなことを波江に言ったわけでも、促したわけでもない。
だからこそ、波江にも分からないのだろう。
いくら意外と沢山の表情を見せる彼に好奇心が湧いたとはいえ、ここまでする必要はないはずなのだ。けど、彼女が気付いたときには既に遅し。
彼女は気付けば毎日自主的に、仕事も関係なく、彼女の意思で彼の世話を焼いていた。気付けば、という無意識に近い自身の行動に波江が分かるわけがない。
だから良かったのだ。彼が、臨也がこちらを見てなくて、問われなくて。
きっと、何も言えれないのだから。
「―――…さて、俺はそろそろ行ってくるよ」
午後十二時十五分、気に入りのコートに身を包んだ上司を見送る。
この後の会話はお決まり。
「もし俺が帰る前に仕事終わったら帰っていいから」「当たり前よ」それがいつも交わされる会話の流れ。彼は自分の帰宅まで待ってろなんて言わない。波江もそれは当然のことだと思っている。
「―――臨也」
「?、何?」
「…今日の夜、何が食べたいのよ」
「………へ?」
「夕飯、貴方の食べたい物を作ってあげるわ。だから早く言いなさい」
「い、いやいや…当たり前のように言ってるけど、別にいいよ?そんなことまでしなくても。それにわざわざ俺の分だけ作るのって面倒じゃないの?」
「私のついでよ」
「…君も食べるの?」
「悪い?」
「悪くは、ないけど…」
「ならいいでしょう。分かったなら言いなさいよ」
「…じゃあ、和食で……後は君に任せる」
「分かったわ。なら貴方はさっさっと行ってさっさっと帰って来なさい。怪我も後々私が面倒だから極力しないでちょうだい」
「いや、だから波江、別に君が手当てする必要はないんだけど…?ていうか波江、どうかしたの?何で急にそんなこと…」
「……そういう気分なのよ。貴方が気にする必要はないわ」
――――けれど、何故だろうか。
波江の口が紡いだ言葉はいつもの会話ではなかった。
彼の帰宅を待つ義理もなければ理由もないのだと分かっているくせに、波江は言ってしまったのだ。夕飯を作ると、怪我もしてくるなと。しかも自分の分も作ると宣言し、遠回しに怪我の手当てはしてやると言ってしまっている。
これはまるで、彼のいつになるか分からない帰宅を待っていると言っているようなものだ。こんなこと今まで言おうとすら思いつかなかったのに、何故か今日の彼女の口はそれを簡単に紡いでいた。
可笑しな話だ。以前ならば絶対に有り得ないと思っていたのに、彼女は自ら進んでそう言ってしまっているのだから。愛する弟にしかこんなこと言わなかったはずなのに、弟以外なんてどうでもいいと思っていたはずなのに。
「と、とりあえず、行ってくるよ。もし何かあったら連絡して」
「分かったわ。………ああ、臨也」
「ん?」
ただの好奇心だった。この男があまりにも普通に笑ってお礼なんて言うから気になったのだ。
どうしようもない性格破綻者であるくせにお礼はちゃんと言うこの男の本質は何なのだろうかと、探求心が湧いた。他にはどんな顔をするのかとか、他にはどうするのとか、彼との生活の中で波江は彼について観察してきた。
弱味だろうが弱点だろうが何だっていい。この男がもっと人間らしい表情を浮かべて、どうにかなってしまえばいいと思っていた。彼が操る手駒達のように自身もそういう事態に落ちて、同じような表情を浮かべればいいと思って、彼の観察を続けていたのだ。
その観察の末がこれだ。
結果、観察対象であった筈の男にいつの間にか毒されていた。
「―――いってらっしゃい」
少なくとも、普通の挨拶を自然に言ってしまうぐらいには絆されている。
どうかしていると自分でも思うけど、絆されてしまっている事実は認めるしかない。
「うん、いってきます、波江」
この男が邪のない笑みを己に向ける限り、彼女は彼に絆され続けるのだろう。
そんなことを思いつつ、波江は池袋に赴く上司の背中を見送った。
それはある日の午後十二時半過ぎの出来ごと。
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新宿組が好きだ!
二人は臨波でも波臨でもどっちでも好き!
けど、加藤個人には波臨の方が萌えます←