どうしてこうなってしまったのだろう、そう幾度となく静雄は心中で呟いた。
彼の視線の先にいるのはかつての宿敵―――折原臨也がいる。臨也は窓の外を見下ろしているだけで、静雄が傍にいるにも関わらず見向きもしない。
その顔に、静雄が大嫌いだった嘘っぽい張りつけられたような笑みはない。臨也は無表情のまま、ただただ濁った双眸で新宿の街を見下ろしていた。
「…臨也」
静雄が名を呼ぶ。けれど臨也はピクリとも反応を示さず視線は変わらず窓の外。
以前は静雄が呼べば厭らしい笑みを浮かべ、静雄の勘に障る言葉の数々を並べていた。けれど今はそれがない。折原臨也を象っていた嘲笑と御託は彼の感情と共に欠落し、残ったのは恐ろしいほど整った眉目端麗な容姿と様々な知識と情報だけであった。
別に臨也は笑えなくなった訳でも話せなくなった訳でもない。表情を作る顔の筋肉は正常であるし喉も潰れている訳ではない。四肢もきちんとあるし目も耳も機能している。彼の体に異常は何もない。
しかし臨也は失ってしまったのだ。
笑う理由と話す理由、感情を表面に出す理由。彼にはもう、何かをする理由はなかった。
勿論、かつての宿敵と殺し合いをする理由もかつての宿敵を怒らせる理由もなくなったのだ。
「君は飽きないね。俺のところに来ても何もないと言うのに」
ぽつりと零れた臨也の言葉に、静雄は思い切り眉を顰める。
それは自分がすぐ側にいるのに見向きもしない臨也に対して腹が立ったのではない。彼がこちらを見ないのは何度もここに足を運んでいる静雄には既に分かりきったことだ。
静雄を不快にさせたのは、臨也の声にまるで感情を感じなかったことだ。以前のような自分を苛立たせる声ではない。中身のない虚無感しか残らない薄っぺらな声。それが今の静雄にとって一番の不快感であった。
けれど全ての理由を失った臨也にとって静雄の機嫌などどうでもいいことだ。彼が笑おうが怒ろうが悲しもうが、今の臨也にとってはどうでもいい。気にする理由がないのだから。
「……俺は別に何かをしようと思って手前のところに来てるわけじゃねぇ」
「そう」
「………っ、」
臨也のその一言によりあっという間に会話は終了する。その間も臨也は静雄の方を見ないし、もしかしたら一言二言の会話をしている最中ですら意識を向けていないのかもしれない。
それが溜まらなく嫌だと思ってしまうなんて、以前の静雄には考えられないことだろう。それどころか当時は臨也の表情一つ一つが気に食わなかったし、無駄に動く口を見る度に怒りが込み上げていたほどだ。
しかし今こうして当時の自分が幾度となく願った現実にいざなると、湧き上がるのは喜びではなく悲しみだった。
黙れと何度臨也に言ったか、死ねと何度臨也に言ったか、お前の顔なんて見たくないと何度臨也に言ったか。数え切れないほどの罵倒を繰り返し、当時の静雄は兎に角折原臨也という宿敵が自分の視界から消え去ればいいと本気で思っていた。
―――実際、折原臨也が静雄の視界から消え去ることはない。
けど折原臨也は、静雄に不快感を与えていた笑みも言葉もしなくなった。そして彼が池袋に……静雄のところに赴くことはなくなった。
それでも静雄の視界に折原臨也が消えないのは、あろうことか今度は静雄自身が折原臨也のところに足を運んでいるからだ。これは臨也の意思ではなく静雄の意思であり、彼の意思が結果としてあれほど嫌がっていた宿敵を自らの視界に入れることになっている。
臨也の視界に、平和島静雄という個人が入ることがないのだと認めたくない一心で、静雄は何度も何度もかつての宿敵の部屋を訪れた。
「臨也」
「何かな」
「新羅が明日、手前の様子見に来るっつってたぞ。多分セルティも一緒だ」
「そう」
「あと、門田も近い内に来るって」
「そう」
「舞流達も手前に会いたがってた」
「そう」
「幽も休み取れたら絶対に行くからよろしくだとよ」
「そう」
「それと手前ンとこの助手がいい加減に仕事しろって怒ってた」
「そう」
返ってくる答えは全て機械のように繰り返されるだけの一言だった。
友人である新羅の名前を出しても、その新羅の恋人であるセルティの名前を出しても、懐いていたはずの門田の名前を出しても、肉親である舞流達の名前を出しても、静雄とは違い比較的友好な関係であった幽の名前を出しても、唯一の仕事仲間である助手を出しても、臨也の反応は変わらないし返ってくる答えも変わらない。
無表情も変わらない。誰の名前を出したところで臨也のリアクションは皆無に等しい。
きっと静雄がどれだけの名前を出しても、臨也から返ってくる答えも表情も変わらないだろう。
あれほど愛していると謳っていた人間がどんなアクションを起こしても、きっと臨也は無反応だろう。
「―――なぁ、臨也」
「何?」
静雄は望んでいた。
自分の嫌いな宿敵の表情から自分の気に入らない笑みが浮かばなくなること、自分の勘に障る言葉の数々を紡がなくなること、自分の平穏を邪魔する存在が消えてしまうこと。静雄は心から願い、誰よりも折原臨也の存在を疎ましく思っていた。
その現実は叶った。
でも、それに対して悲しみを抱く自分自身。
それは予測していなかった矛盾。
そしてその矛盾は今更になってとんでもない事実を、静雄に突き付ける。
「頼むから……っ、“俺”を見ろよ…!」
消え去ればいいと願っていた過去の自分を殴りたい。
そして、どうしてあの時に自分の本心に気付けなかったのだと後悔した。
消えてしまえばいいなんて真っ赤な嘘だ。臨也の笑みも臨也の言葉もなくなればいいなんて嘘。その存在が自分の視界から消え去ればいいなんてもっと―――嘘。
臨也が静雄の視界に入るのではなく、静雄が臨也を視界に入れているのだと。
誰よりも折原臨也の存在に執着していたのは紛れもなく自分自身なのだと。
本当は自分だけを見て欲しいと願っていたのだと。
「“いつかね”」
――――今更気付いても、臨也の視界にもう静雄の姿はなかった。
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静←臨からの静→→臨。
と見せかけて、静(→→)←臨からの静→→臨。
臨也が臨也でなくなって一番悲しいのはシズちゃんだと良いという加藤の妄想。