九
考えてみるとこうして完全に二人きりで時を過ごすのは初めてである。
山崎の茶碗が空になっている事に気付き、ナマエは土瓶を手に取った。
『御代りを』
『…ああ、有難う』
応えて山崎が茶碗を差し出した。
静かに“色付きのぬるま湯”が器を満たすのを見ながら、ナマエが穏やかに目を細めた。
『どうかしたか?』
満たされた茶碗を口元に寄せ、山崎はその様に尋ねてみた。
嬉しそうに茶を注ぐ様子が気になったのだ。
『いえ、』
問われたナマエは土瓶を傍らに置き、何故か面映ゆそうにしている。
彼女を見ながら熱くも無い茶に息を吹き掛け、ああ、そういえば熱くないのだった、と山崎が意識を一瞬油断させた時、
『こうしていると何だか…夫婦の様だと思いまして』
とナマエが言った。
『っ!』
ふう、と吹き出した息が思わず強まった。
弾みで茶が幾らか零れ、正座をしていた山崎の腿を濡らした。
『あっ』
『あら』
やってしまった、と思う間もなく、布巾を持ったナマエの手が山崎の腿に伸びて来た。
『!』
濡らしてしまった場所が場所だけに、そこにナマエが触れているという事が山崎を酷く狼狽させた。
腿になど普通他者が触れる事は無い。
『大丈夫ですか』
対するナマエはそういった点を全く気にしていない。
衣に茶染みが出来てはいけないと、とんとんと小気味良い拍子で水分を取る事にのみ集中していた。
『あ、ああ。大丈夫だ』
相手が冷静だとつられてこちらも心が凪ぐ。
手にしていた茶碗をゆっくりと置き、山崎はナマエに声を掛けた。
『…熱い茶で無かったのが幸いだった。
手を煩わせてしまってすまない』
『いいえ。大した事ではありませんから』
頼むより前に茶を注ぎ、己の過失を代わりに繕う。
献身的なナマエの態度に、山崎は胸が疼いた。
よし、と小さく呟いてナマエが身体を起こした。
努力の甲斐あって濡れた箇所はもう殆ど乾いていた。
そんな彼女の手を取って、山崎は柔らかく握った。
『…実は俺も、同じ事を思っていた』
ナマエが目を上げる。
目元を少し赤らめた山崎が優しい笑顔をこちらに向けていた。
『こうしていると本当に夫婦の様だ』
取った手をぐいと引っ張り、山崎はナマエを己の胸へと引き寄せた。
『!』
少し驚きはしたがナマエは大人しく彼の腕の中に閉じ込められた。
山崎の感触、温かさ、匂い。
身体全体で彼を感じられる事が嬉しい。
心のどこかでこうなる事を期待していた為、ナマエは溢れんばかりの想いで胸をときめかせていた。
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