十
野良仕事を終え、喉が渇いたという不知火を中へ招き入れ、茶の支度をする。
先ほどあのように大々的な求婚をされたというのに、ナマエは自分でも意外な位に平然としていた。
顔を見て、視線を結んで、まともに会話をする。
変に気負ったりせず、普段と同じようにいられるのは、不知火が醸し出す雰囲気による所が大きい。
一緒にいると居心地が良いのだ。
ナマエはこの日から、笑顔でいる事が随分と増えた。
次の日も、そしてその次の日も、不知火はナマエのもとを訪ね、いつしか毎日決まった時間にナマエの家を訪れる事が当たり前になっていった。
不知火はその間ずっと、ナマエに愛する気持ちを伝えるのを忘れなかった。
そして折に触れては“早く嫁に来い”と言ったが、ナマエは軽くあしらうばかりで応じようとはしなかった。
それは、不知火の自分に対する思いが一過性のものでないかを見ていたのと、いまいちこれといった決め手を欠いていた、という所に理由があった。
不知火の事を好ましく思うが、しかし。
ナマエは、このように悩むなど自分らしくない、と、毎日彼のいない所で溜め息を吐いていた。
誰でも何でもいいから、手放しで彼の胸に飛び込めるように背中を押して欲しかった。
そうした日々を幾日か過ぎたある日。
この日は朝から里の空を灰色の雲が分厚く覆った。
空気も湿っていて、何となく重たい。
こりゃあ、じきに降るな。
白飯を勢い良く掻き込んで、不知火はそんな事を思った。
今の雨は寒さはないが、出来れば打たれたくない。
空模様はナマエの家に行くまで保つかどうかといった様子である。
咀嚼をしながら空の向こうを眺めていると、そのうちに遠雷が聞こえてきた。
『!』
音を耳にした瞬間、不知火は膳の残りを慌てて口に放り込み、汁物で飲み下した。
そこへ丁度侍女が食後の茶を持って現れたのだが、彼はそれを一気に飲み干し、出掛けて来る、と言い残して足早に部屋から出ていった。
この僅かな間にも、遠雷は段々と近付いてきている。
屋敷を飛び出して全速力でナマエの家を目指す。
以前彼女は、雷が苦手だと言っていた。
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