今こうして缶コーヒー片手に夜の港を歩いているのも明日が休みだからであって、平日だったら考えられないこと。

遠くで海賊船が停まり出航の準備をしているようだから、あまり近付き過ぎないよう傍にあったベンチに座ってよく見えもしない海を眺めた。休みの前日だっていうのにいつもの爽快な気持ちはなく、身も心も何故だかひどく重たい。
毎朝決められた時間に出勤する為決めた時間に起きて、合間にとる昼食も決められた時間内に食べてロクにゆっくり出来ず、午後の業務をこなしほぼ決められた時間に帰宅。帰ったらなるべく早く夕食と入浴を済ませ、ほんの僅かなフリータイムを過ごすのだけれど。それすらも時計を気にして、ある程度の時間になれば翌日のことを考えてベッドに入る。

良く言えば充実、悪く言えば窮屈な日々。どうやら私の脳内は現実逃避モードに入ってしまったらしく「ああ、どこかの石油王と結婚して何に気兼ねすることもなく毎日楽しく暮らしたい」と真剣に妄想に浸る私はかなり重症だ。


「これうちのキャプテンから」

突然の声。
驚いて振り返ると、クマの着ぐるみを着た人間だかリアルクマなのか分からない、とりあえずクマが何故か私に湯気が出てる飲み物らしきものを差し出している。服からしてどうやら先程遠くに見た海賊だ。
なんだというんだ、このどこかのバーで有り得そうな状況は。


「・・・毒入り?」
「まさか!」
「ありがとう」

危険すぎるかな、と思ったけれどクマのおかげか何となく害はないような気がしたから受け取った。
その時に触れた手のもふもふ感が、信じられないくらい気持ち良くて1度引っ込めた手をまた伸ばしてみる。


「な、なに!?」
「最高の手触り!初めての感触」
「!キャ、キャプテーンッ!!」

機嫌を損ねてしまったのだろうか。
でも明らかに怒りというよりは、焦りを含んだ声を発して背中を向けて走っていったクマ。ああ、ただ慣れていないだけなのかな。そう考えながら渡されたものを飲むと、これまたコーヒー。元々持っていたやつはもうすっかり空に近い状態だったから丁度良かった。
くるっと首を横に動かすと、一人の男がこちらに向かって歩いていた。クマがさっき発した言葉と今何かを必死に訴えている様子からして、あれがキャプテンなんだろう。

ちょっと待って、私、かなりマズイんじゃないのもしかして。おれの仲間に何してくれるんだとか文句付けられたら・・・と最悪のパターンが一瞬にして脳内に浮かび、気付いたらバッグを握り締めてすぐにでも逃走出来るよう準備をしていた。
何故すぐに逃げなかったかというと、そういう奴じゃない可能性もあったから。コーヒーを頂いたわけだし、そしたら逆にお礼を言わなければ。


「そんなに怯えるな」

どうやら後者だったらしい。
男は苦笑しながら、あと2人は間に座れるくらいの距離を空けて同じベンチに腰を下ろした。
長めの足を組み、両腕を背もたれに乗せる堂々とした身のこなしはやはりキャプテンだからなのか。
話が通じそうな人間だと思えた途端さっきまでの恐怖は消え失せ、なんともすんなりと話を切り出すことができた。


「コーヒーごちそうさま。でもどうして?」
「ただ寒そうだったから」

首から下まで完全装備で外気をシャットアウトしたこの格好の、どこが寒そうに見えたのか。


「違った。退屈そう、の間違いだ。まァなんとなく気に掛かっただけだ」
「へー分かるんだ」
「当たったか?」
「外れてはいない、かな」
「誰にでもそんな日はあるさ」
「あはは!海賊に励まされるなんて初めて」

ところであのクマは仲間なんでしょ?すごく可愛い。そんな他愛もない会話をした。
私の海賊への素朴な疑問等に彼は時折ふっと笑いながら、淡々とした様子で答えてくれて、そのやり取りがなんだかすごく新鮮で。


「いっそ海に出たらどうだ」
「私?ムリムリ。すぐ死ぬのがオチ」

その後すぐに“今の仕事辞めるわけにはいかないし”なんて現実的な理由が案の定浮かんだ。たかがジョークに本気で思考を広げて、萎える結果を出す自分にいい加減うんざりする。


「おれについて来ればいい」
「足手纏いで良ければ。あはは」
「本気だぞ」


鋭い視線と弧を描いた口元を見て驚いた。この態度だと、言うとおり本気らしい。平然を装ってハイハイと流しながら私は煙草に火を点ける。オレンジ色に染まる先端を眺めながら、煙を肺に入れてそれをまた別の煙に変えて吐き出したところで、彼も同じく吐き出した。さっきの会話なんか無かったかのように似た言葉を。


「おれと海に出る気はないか?」
「・・・本気で言ってるの?分かると思うけど私にはなんの技術もない。連れていったところでメリットは何ひとつ無いよ」

缶コーヒーに煙草を叩く。
彼から貰ったほうは、まだ中身が半分残ったまま左手に握っている。


「それに仕事があるし。今私が辞めたらたくさんの人間に迷惑が掛かる。自慢じゃないけど、こう見えてそれなりの立場にいるから簡単には辞められないの」
「確かに使えない、しかも女を乗せたっておれ達にはなんのメリットもねェな。でもおまえにとってはメリットだらけだ」
「あのさ人の話聞いてよ・・・!」


「お前は自由だぞ」

咎めているのにお構い無しに話を続けて、それでいて屈託なく笑うその顔には海の素晴らしさがぎっしりと詰まっていた。
缶コーヒーにまだ長い煙草を投げ入れる私は爽快に笑っていたと思う。
仕事?築き上げてきた地位?迷惑が掛かる?もうそんなもんどうだっていいや。


色褪せた世界に色彩を
ああでも、石油王の妻になれたかもしれないのに海賊を選ぶだなんて!


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