この恋は、ちょっと甘すぎた
あまいこと、にがいこと、人生というやつはどちらがどれくらいの割合を占めるだろう。
昔は、日ごとに泣いては笑ってを繰り返すめまぐるしい毎日を送っていた。だけどいつの頃からか、苦いことは事前に察知して上手く逃れる術を身につけた。甘いことはどうしてかさっぱり降りかかってこなくなったから、ドラマや映画や本のなかに求めた。
「いらっしゃいませ」
「ホットのドリップひとつ。サイズはトールで」
「かしこまりました。お持ち帰りですか?店内でお召し上がりですか?」
「あー、ここ電源は……」
「ございます。そちら六人掛けのテーブル席か、右奥のテーブル席、手前のソファ席、それとあちらの窓に面したカウンター席にご用意してます」
「じゃあ店内でいただくよい」
「かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
朝起きて仕事をして帰宅を繰り返す毎日は良くも悪くも平凡。恋は、しばらくしていない。
◇◇◇◇
珈琲豆の香りが漂う職場。
お客様は多種多様で、いつものドリンクに氷なしの水を付けるだとか、フォークはいるけどナイフはいらないだとか、ドリップの量やカスタマイズの仕方など本当に人それぞれ。私もそれなりに長く勤めているので、大抵のことには困惑せず対応できると思っていたけれど今日は違った。
時計を確認してバックヤードに入り、エプロンを外す。
「お疲れ様でしたー。お先に失礼します」
「お疲れ様!明日は休みだっけ?」
「はい。あ、ちょっと一杯飲んでから帰ってもいいですか?」
「もちろん。お客さん少ないから好きなとこ座りなー」
たまに、こうしてお客さんに混じって店内で過ごすことがある。豆の勉強をしたり、本を読んだり、タブレットでネットサーフィンをしたり。自宅でも出来ることだけれどあそこは他の誘惑が多い。いつの間にかテレビに夢中になっていたり、寝転がってうたたねが始まったりするから何かに集中したいときはこの場所が一番だ。
ソファ席に座って先日買った期間限定タンブラーを傾けつつ、まだ帯がついたままの小説を取り出すと。
「その本……」
「え?」
「先週出たやつだろい?」
「え、ああ、はい」
「全部読んだか?」
声を掛けてきたのは、つい先ほどドリップの注文とともに電源場所を聞いてきた男性。私がそのときの店員だと気付いて話しているのか、そうでないのかはよく分からない。
「いえ、昨日買ったばかりなので」
「おれは読んだ。はっきり言って駄作だな。時間の無駄だよい」
「えっ?!」
「ンな退屈なの読むなら、断然こっちのほうが良い」
あまりにはっきりした物言いに驚愕してしまう。
なんだこの人。と思っていると一冊の本を鞄から取りだし、私のテーブルに滑り込ませてきた。表紙はたぶん書店で見かけたことがある。小説だろう。最初のページと、そこから何枚か捲って文字をさあっと追いかけた。
「……恋愛ものですか?」
「そうだよい」
「もしかしてこれの作者……さん、ですか?」
「いや。出版元の編集者だよい」
ああーそうなんですねとなんの捻りもない返事をしながら手中の本の行き場所を考えた。このまま本格的に読み進めるべきなのか、お返しするべきなのか。どんな意図で渡してきたのかさっぱりわからないから、なにが正解かと悩んでしまう。
そんな私に気付いたのだろう。
「その本はもらってくれると嬉しいよい。ついでに読んでくれたらもっと喜ぶ」
「いいんですか?ありがとうございます。読みますね」
「自信作なんだ。もっと話題になってもいいと思ってるんだけどねぃ」
「あ、でもこの本は書店で見かけるし存在は知ってましたよ」
「でも読んでねェだろ」
「ま、まあ……そうですけど」
「ははっ冗談だよい。じゃあおれはこれで」
宣伝できたせいか、満足げに笑んで店を出ていった。
記憶をたどる限り見かけたのは今日が初めてだし、ここは都心から外れた郊外だ。たまたま外回りかなにかの途中で来店したのだろう。そんな頻繁に、ううん、下手したらきっともう会うこともない。
そう思っていたのに、数日後彼はあっさりとまた来店したのだ。
「いらっしゃいませ。……あ、」
「……驚いた。店員だったのか」
「そうなんです」
「雰囲気違うから気付かなかったよい」
気付いてなかったのか。と思う。
ホットのドリップひとつ、と前回と同じ注文に続いて、読んでくれたか?と期待のこもった視線を向けてきた。あの日から丸一日はテーブルの上に放置していたけれど、なんとなく暇なとき手に取ってみたらおもしろくて今では持ち歩くまでになっていた。そういう意味も含めて、あのまま放置しないで良かったと心底思う。
「いただいた本読んでますよ。まだ序盤ですけどこの後の展開が気になります」
「だろ?中盤からいっきに話が進むんだけどねぃ、そこから……あー……今日何時で上がりだ?」
「え?」
「仕事、何時まで?」
「あ、えーと……六時、です」
「あと一時間か。その後の予定は?」
「いえ特に……」
「んじゃそこの席で待ってる。詳しく解説したい部分があるんだよい」
「え!?ああ……はい」
勢いに流されて頷いてしまったけれど、よく考えたら変な展開だ。見ず知らずの人に所持していた小説を貶され、別の作品を押しつけられ、後日その解説を聞かされるなんて。
一時間経過してエプロンを外した後、先日と同じ場所に座っていた彼の隣に腰を下ろす。待ってましたとばかりに私がどの部分まで読んだのかを聞きだし、ネタバレを避けて話をする姿がなんだかあまりにも夢中で。ほんの少しだけ、いいな、と思ってしまった。
「あ、そうだお名前……」
「ああ。言ってなかったねぃ。マルコだよい」
スーツの内ポケットを探る素振りを見せるから、私もバッグから名刺入れを取り出した。場所が場所なだけあってどうにもかしこまってしまう。
「あのーそちらの世界はよく分からないんですけど、マルコさんは昔からこういう小説を担当されてるんですか?」
「恋愛ものは今回が初めてだよい。最初は惚れた腫れたなんてアホらしいと思ってたんだけどねぃ。作家があまりにも良い作品仕上げてきたんで今ではすっかり夢中になっちまってる」
「あはは、そうなんですね」
「これはな、今までにない恋愛小説だよい。当初は間違いなく話題になって、すぐに映画化やドラマ化の依頼がくると思ったんだけどねぃ」
「でもじわじわ人気が広がっていく作品もたくさんあるじゃないですか」
「ああ。そうなるといいよい」
「まだ最後まで読んでませんけど、私は好きですよ。この作品」
嬉しそうに顔をほころばせたマルコさん。なんだか少年のように純粋な笑顔につい目を奪われてしまった。一瞬抱いたちいさな感情に内心驚き、喉が渇いたわけでもないのに慌ててタンブラーに手を伸ばす。
今日のバニララテはやけに甘い。そんなことを思った。
◇◇◇◇
お客様の入店があるたび、なにかを期待した視線を向けてしまう自分に呆れる今日この頃。
再会したあの日からちょうど一週間が経つから、そろそろまた来てくれるんじゃないか、なんてことを考えてしまう。こんなちょっとした出来事で恋心のようなものを抱いてしまうなんて、いい歳して馬鹿みたいと思う反面、いくつになっても恋したいんだ、と抗う自分もいたりする。
残念ながらその日は現れず、ああこのままもう会えないかなと気分が沈みはじめた翌日の、勤務時間終了間近にマルコさんは来店した。
「あ、いらっしゃいませ!」
「読んだか?」
「全部読みましたよっ。もう最後、驚きました!」
「だろ!?今日も同じ時間に終わるか?」
「はい、あと十分ちょいです」
「飯行こう、飯食いながら感想聞くよい」
あ。なんかじわじわ進展してる感覚。上手くいけばもっと距離が縮まり、もっと上手くいけば付き合えたりするかも。なんて前向き思考が存分に発揮される。
さっきまでグレイがかって見えていた景色が途端にカラフルに色づいて気分を高揚させた。
「で、あの部分の描写で、あーこの恋は実らないパターンだなって思ったんですけど」
「だろ?そこの表現が上手いんだよなァ」
「そうなんです!最後うまくいったうえに、信じられないどんでん返しがあったから衝撃でしたよー!なにこれ!?って目を疑いました!」
「あそこ実はな、最初は違う展開だったんだよい」
「え、なになに。気になります!」
小説の話はもちろん、それ以外のことも話題になった。マルコさんはあの店の近所に住んでいるらしく、でも混みあっている印象が強くて今まで入店を避けていたとのこと。たまたま入ってみたらそうでもなく、雰囲気も良くて気に入ったと言っていた。
まるで女友達とお喋りをしているときのように時間はあっというまに過ぎ、気が付いたらあと一時間ほどで日付が変わる時刻になっていた。
「遅くまで悪かったねぃ」
「いえ、こちらこそご馳走になってしまって。ありがとうございました」
「送ってくよい。近所って言ってたよな?」
「あーでも、」
「遠慮すんな。こんな時間に一人で帰すわけにはいかねェよい」
自宅はマルコさんの家とは逆方向の場所にある。ちょうどお互いが、私の職場を挟んでいるような位置関係。食事した場所もその近辺を選んだため、一緒にいられるのはあと十分と少し。
外を歩きだしたマルコさんはさっきまでと変わって、急に静かな空気をまとい始めた気がする。いや、店内の喧騒から逃れたからそう感じるのかもしれない。
「夜は冷えるな」
「そうですねー。それにしても誰も歩いてない……」
「この時間だしなァ。同じ都内でも都心とは違うねぃ」
出会ってから今までで、一番当たり障りのない会話。違和感をおぼえて黙りこくってしまい、妙な沈黙が流れる。これは一体なんだろう。
「あーなんだ、その、読んでもらえて良かったよい」
「いえ、こちらこそ。勧めてもらえて良かったです」
沈黙。立ち止まる足。交わる視線。顔に伸びてきた手。あの小説の主人公たちのように静かな夜道で、私とマルコさんは唇を重ねた。離れてからも沈黙は流れ、たまらずに私から口を開く。
「……えっと、ここで大丈夫です」
「いや危ねェから家の前まで……って今言うと妙なことを起こすと思われるだろうねぃ」
「この角曲がってすぐなんで大丈夫ですよ!それじゃあ今日はありがとうございました」
背中を向けた瞬間に思ったのは、ちゃんと笑えていただろうかということ。普通だったら嬉しいはずの出来事なのに胸が引き裂かれそうになっているのは、輪郭にそっと添えられた左手、薬指から貴金属の冷たさを感じ取ったから。いつも付けていたのだろうか。いつも私は右に並んで座っていたから気付かなかったのだろうか。
最悪だ、とぽつり呟いた言葉がむなしく暗闇に消えていく。
「久しぶりにときめいたんだけどなー……ていうか相手いるなら変なことしないでよ……」
誰も聞いていないのを良いことにありのままを吐きだす。独り暮らしの便利なところだ。
奪ってやろうなんて大逸れたことはもちろん、相手いたの?や、どうして言ってくれなかったの?どうしてあんなことしたの?と追及するのも気が引けるから何もしない。そもそもほんの少し良いなと思っただけ。入れ込む前に気付いて良かった。
馬鹿だな、と呆れ笑いをこぼしながらあまり好きではないブラックコーヒーを作り始める。傷ついたことも忘れるような、とびきり苦いやつにしよう。
◇◇◇◇
姿を見なくなって二週間ほど経った頃だろうか。私が休みの日に来店しているのかもしれないし、むしろあまり会いたくないと思っていたから都合が良かった。このままずっと来なくても良いくらいの気持ちでいたのに、また終業時間近くにマルコさんはやって来た。
「いらっしゃ……ああ、こんにちは!」
「久々だねぃ」
「そうですねぇ。お忙しいですか?」
何事もなかったかのように振る舞うのは、私の小さなプライド。
「ああ。毎日バタバタだよい。ドリップひとつ貰えるか?」
「大変ですね。お持ち帰りですか?店内でお召し上がりですか?」
「持ち帰りで」
ちくりと心臓が痛む。ああ、もう私を待ってくれることは無いんだな、と考えすぎかもしれないけれど多分女なら誰だってそう捉えてしまうと思う。
「あー、それとな……今月いっぱいで、関西に引越すんだよい」
ちくり。また痛んだけれど大丈夫。平静を装うのには慣れてるでしょ、と自分に言い聞かせて別の自分を演じる。少し驚いて、少し残念そうに、でも声のトーンは落とさずに明るく振る舞うんだ。
え?そうなんですか!?……残念です。
この時期だから異動でねぃ。
もし、近くに来ることがあれば寄ってくださいね!
そう告げれば、ああ、とマルコさんは薄くほほ笑む。
「……もうちょい早く出会えてれば良かったねぃ」
ちいさな呟きを私は聞き逃さなかった。
あのキスは、からかったわけでもあわよくばという気持ちがあったわけでもなく純粋なものだったと伝えるような言い方。本の話をしていたときのように真剣な瞳をしていたから、たぶん嘘ではないのだろう。でも嘘か本当かなんてことはどうでもよくって、そんな狡い台詞は言ってほしくなかった。
返事はしない。温かいドリップコーヒーを手渡して、御礼を告げる。じゃあまた、無難な挨拶を交わしてその背中を見送った。
「お先に上がります。お疲れ様でした」
「お疲れさまー」
「お疲れ!」
あまくてほろ苦い恋はまるであの物語のようだ。あんなふうに最後どんでん返しが起これば良かったのに、なんて浅はかなことを思いながら足早に帰宅する。
今夜は苦さをふんわりと包んで消し去ってくれるものを飲みたい。流れ落ちたこのしずくも泡に沈めてくれる、あまいあまいハニーラテがいい。
thanks/砂時計式.