重厚な扉を抜けた先、ギャルソン姿でほほ笑むウエイターに今日の疲れを癒してもらい、浮かれ気分で視線を上げる。天井で軽快にまわるファン付き照明は独創的な形をしていて、いつだったか空間プロデューサーというクリエイティブ感があるような、いまいちピンとこないような肩書きの男性が、空間演出に大切なのは照明だと言っていたことを思いだす。
なるほどねーこういうことか、とわかったような気になったところで目当ての姿を見つけた。

「遅ェ。あと一分で帰るところだった」
「約束した時間の五分前だけど」

気だるげにグラスをかたむける仕草を、横目で盗み見る。せっかく品良く着こなしたスーツも不機嫌なまなざしによって、どこかのマフィアに見えてしまうのが惜しいところ。

「あ、そうそう。来月の旅行だけど、ホテルの近くで行ってみたいところ見つけたんだよね」
「そうか。ダズに伝えて手配させておけ」
「…………。旅行のたびに出てくる文句だけど、この事務的な感じ? っていうの? なんとかしようよ。もうちょっとこう、ロマンチックな雰囲気が欲しいっていうか……!」

私たちの旅行は、日程や場所を決めてクロコダイルの秘書に伝えればすべてが手配されるシステムになっている。エアチケットはもちろん、ホテルの予約から食事の予約、車の配送など、現地で訪れる場所では最高のもてなしが待っているほどに。
それはそれで贅沢を味わえるからいいのだけれど、恋人との旅行の醍醐味と言ったら、計画時の心が躍るような気分じゃないか。

「これじゃ仕事の出張だよ……!」
「おれもお前も、そこに裂く時間がねェだろう。ダズに任せりゃまず手違いはねェしその辺のプランナーよりずっといい仕事をする」
「時間はあるよ。こういうときにタブレットでも開いてふたりで覗き込んで、和気あいあいとああでもない、こうでもない言って色々決めていくのが楽しいんじゃない」

不満を表すと、クロコダイルの電話が鳴った。
二、三言なにかを聞いて、わかった、と通話を終えればこのあとどうなるかは予想がつく。
悪いな、行ってくる。と告げられて、髪でも耳でも頬でもないような曖昧な場所に、唇が降ってくる。

「またね」
「あァ。また電話する」
「あなたのは電話じゃなくて“ダズ経由で伝言”って言うの、知ってる?」

意地わるく笑うと、クロコダイルも同じように笑ってまたひとつ、宥めるようなキスをして去っていった。


私が愛した男は、救いようもない馬鹿で、そして、どうしようもないくらい、優しい男だった


私たちの出会いは、彼が小さな会社を立ち上げる少し前のころ。出会ってからわりとすぐ付きあいはじめたと記憶している。
経営には最初こそ四苦八苦していた様子はあったものの、生まれ持った彼の才能というか手腕というか。会社はあっというまに成長して今や知る人ぞ知る企業となった。
そうしてめまぐるしく変わっていく環境のなかで、変わらずに私を選んでくれていることは純粋に嬉しい。でも、ふたりの時間はみるみる削られ、たまの約束も三度に一度はこうして邪魔が入り、朝から晩まで一緒に過ごしたのなんて半年前の旅行のとき以来。まあ仕事だから仕方ない。
そんなことよりも納得いかないのは、予告なく私にふっかけてくるワガママだ。
私の手料理フレンチしかもフルコースが食べたいとか言いだしたり、私の運転がいいから空港まで送っていけとか、それはもう些細なことから大きなことまで、すぐに実行しなければいけない状況で唐突に言いだし、とにかく散々振りますのだ。私がフリーランスでしかも自宅で仕事をしているから自由が効くものの、そうじゃなかったら一体どうするつもりなのか。
まあそれでも、なぜか、こうして文句を言いながらも離れられずにいるんだから自分でも不思議なものだと思う。

「ナマエ」
「わ、ロビン。仕事帰り?」
「ええ。一杯飲んで帰ろうと思って」

ダズと同じく、会社設立時からのクロコダイルの優秀な部下。私たちはクロコダイルを通じて親しくなり、今では彼抜きで友人と呼べる関係だ。

「ひとり?」
「そう。さっきまであなたのボスがいたんだけど」
「仕事が入ったのね。愚痴があるなら聞くわ。最近の突拍子もないわがままは何だった?」
「あ、そうそう。先週のことなんだけどね、」

自宅で仕事をしていると、傍らに置いたスマートフォンが震えた。画面を見るとクロコダイルという表示。
いやな予感がしながらも、出ないわけにもいかず。

「なあにー」
「靴を持ってきてくれ」
「ダズか他に頼んでよ。締切前で忙しいの」
「クローゼットの右上、ジョンロブ」
「ちょっ……!」

一方的に切れた画面を見つめる。
きっと朝自分で選んだ靴が気に入らなかったのだろう。コンシェルジュ付きマンションなんだから、そっちにどうにか頼むなり部下に頼むなり、いくらでも方法はあるでしょう!と思いながらも甲斐甲斐しくマンションまで取りにいき、そこからオフィスの社長室までご丁寧に届けてしまう自分に腹が立つ。

「バッカじゃないのこんなことで呼びつけて! もう絶対やめてよね」
「悪かったな。助かったよ」
「私忙しいから、もう行く」
「下に車回してるから乗って帰れ」
「そうする。じゃあまたね」

外に出て、見知った運転手と挨拶を交わし後部座席に乗り込もうとすると。大きな紙袋がすでにシートを陣取っていた。

「あれ、これって……」
「社長からです。午前中外出した帰りに見つけたようで、急に停めてくれって仰るもんだから慌てましたよ」

私が愛用している店のロゴが入ったショッパー。中身を見なくても、きっとひそかに狙っていたものにちがいない。

「……直接渡してくれればいいと思いません? まったくもう」
「でもナマエさん、すごく嬉しそうな顔してますよ。ははっ」

こういうご褒美があるなら、まあ、悪くない。いや、そうやって私が単純だから、向こうも悪気なく色々押しつけてくるのか。


「っていうことがあったの。靴だよ靴。信じられる? 子どもじゃないんだから我慢してそのまま履いてなさいよって心底あきれた……!」
「そのとき気に入ったものでないと、きっと気分が乗らないのよ」
「わかるけどさあ、まさか締切前の私に頼まなくても……!」
「ふふ、不満は尽きなさそうね」
「でもね、もう慣れた。都度文句は言ってるから、溜まってるものはそんなにないんだよ。私もけっこう忙しいし、あの人くらい多忙な相手がちょうどいいのかもーってロビンが来る前考えてた」
「そう。じゃあとりあえず、今夜は女ふたりで飲み明かしましょう」



◇◇◇


再来週に旅行を控えた日の深夜、クロコダイルの自宅にて私はこれまでにない罪悪感を抱えながら、彼の帰宅を待っていた。
日付が変わったころに玄関は開き、ふだんは出迎えもしないくせに今日にかぎっては一目散に駆けつける。

「おつかれ」
「退屈な会食だった。どいつもこいつもテメェのくだらねェ自慢話ばかり」
「あーそれはそれは」
「……おいナマエ。なにか言いたそうな顔してるぞ」
「……! そう、そのとおりなんだけど機嫌悪そうだから、今はあんまり言いたくない……!」

柄にもなくしどろもどろしていると、ぐっと顎に手をかけられて強制的に視線を合わせられる。

「風呂入ってくるから、それまでに覚悟決めておけ」

おだやかじゃない言葉だけれど、ふっと笑った顔はおだやか。
意外な気がするけれど、よく考えてみると今まで私がしたことで彼が怒ったことは一度だってない。
ほどなくしてリビングにやってきたクロコダイルは、まっすぐソファに向かって、そこに深く腰をおろす。そのあとを追って、お酒を注いだグラスを手渡すとそのまま腕を引かれて、半ば強制的に、向きあうかたちで足の上に着席させられた。
見れば、愉しげに唇を歪ませている。

「機嫌を気にするってことは……おれにとって悪い報せだろう」

首に腕をまわすと、腰に腕がまわってくる。
かるいキスを交わすと、その濡れた髪からしたたる水滴が私の頬に落ちて、すっと下に伝っていくのがわかった。

「うん。すっごく悪い。泣かせちゃうかも」
「ヴィンテージの酒でもぶちまけたか」
「だとしたら今ごろ私も泣いてる」
「うちの株を買い占めたか」
「その場合は高笑いね」
「おれを捨てる気か」
「泣いちゃうの?」
「あァ泣いちまう」
「なにそれ見たい」

笑いあって空気も和んだところでいよいよ本題だ。

「あのさ」
「ああ」
「本当にごめん……! 旅行、行けなくなったの……!」

大きな仕事の話がきて、そのプレゼン日がちょうど被ってしまったこと。ただの仕事なら辞退したけれど、ずっとやりたいと思っていた内容のためどうしても勝ち取りたい。
そう熱心に説明する私を、クロコダイルはじっと見つめていた。

「そういうわけで……本当にごめん……!」
「そのことだが、おれも外せない仕事が入ってな」
「……そうなの!?」
「あァ。今日の夕方決まったことだ」
「そっか……! や、申し訳ないなーってすごい罪悪感だったけど、そういうことなら気が楽になった」
「クハハ……おれがさっさと伝えりゃ良かったな。気を揉ませて悪かった」
「ううん。あ! でも中止にはしたくないから、また日程を改めて決めていいよね?」
「ああ。とりあえずダズに連絡しておくか」

この日からしばらく煮詰めて働き、プレゼンも成功、見事に仕事を取って、久しぶりに開放的な夜を迎えた。

「そういうわけで、タイミングが良いというか悪いというか……お互いにダメってことで旅行は延期。まだ新しい日程は決めてないんだけどねー」

今夜もキャンセルをくらった私は、ロビンとふたりでグラスを傾けていた。

「……ふふっ。ねえナマエ、これを私が言ってしまうのは野暮だけれど」
「なに?」
「たぶんこのままだとあなた永遠に気付かないだろうし、ボスがちょっと不憫だから言わせてちょうだい」
「え?」

当初予定した旅行、その日程は完璧に空けていたし守っていたから、仕事が入ったなんて絶対にありえないわとロビンは笑った。
すぐに意味が理解できず、じゃあどうして嘘をついたのだろうかと考える。

「…………え、まさか……」
「理解した? ボス……いえ、あなたの彼ってとってもやさしいのね」

キャンセルをする申し訳なさを、ああ見えていつも感じているのだろう。私がそうした負い目を感じないように、クロコダイルはあのとき咄嗟に嘘をついた。
思えば彼が約束をキャンセルしたり、途中退席したり、なにかっていうときはいつだってそのあとフォローしてくれていた。キスやプレゼントや、ダズ経由の伝言。いつだってそうだった。

「……! ねえちょっと待って、もしかしてロビンも……」

この前と、今日。たしかそれ以前にも何度か、去った彼と入れ替わるようにしてロビンがふらりと現れたことを思いだす。いつもオフィス近辺の店だし、彼とロビンの食の好みはわりと似ているから、なんの疑いもなく偶然だと思っていた。
でもそれが、私がひとりでさみしくないように、という彼のフォローだとしたら。

「ふふ、どうかしら。ひとつ言えるのは……そうであろうとなかろうと、私があなたとこうしてグラスを交わすのは自分の意志よ」

目を細めて笑った彼女を見て、すべての合点がいき脱力感に襲われると同時に、今すぐクロコダイルに会いたくなった。
今夜はあのマンションに帰って、彼が帰ってきたら愛の言葉とともに飛びつこう。そして、ああでもないこうでもない言いながら旅行の計画を自分たちで組んでみよう。



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