グランドラインのとある島、その中心区画には二万坪にも広がる遊郭が存在する。
路地裏の娼館や、街の一角に集った歓楽街などとは比にもならないそこは、周囲を高い塀にかこまれ、出入口は大門と呼ばれる場所ただひとつのみ。男なら誰でも出入りできるが、一般の女は通行証が必須だ。
一般ではない女とは、塀のなかで暮らし、働く、遊女のこと。
たいした娯楽も無い、自由はもっと無い。
広くも狭いその世界に在るのは、金と男と女。たったのこれだけ。


美しすぎる愛は危険だ

古びてはいるものの、重厚感ある立派なつくりの木造建屋。二階の出窓に腰をかけ、外を眺めるひとりの女がいた。
時刻は朝の六時。夜をともにした馴染み客を見送り、入浴をすませ、就寝前の心休まるひとときだ。
真っ赤な長襦袢の衿は大きくはだけ、透きとおりそうな白い肌と胸元、ゆるやかに曲げた足の太ももが無防備に、早朝のひんやりとした空気にさらされている。
はるか遠くを見つめていた女の視線がふと移った。
建物のすぐ下を見たその目が、すこしずつ、ゆっくりと見開いていく。視線の先を追うと、通りにひとりの男が立ち尽くしていた。
特徴的な、着物のような衣服をまとい、まるで女性のように髪を結わえ赤い紅をひいたその姿。切れ長の目は憂いを帯びながら力強くもあり、そのへんの上級遊女よりもずっと美しい容姿をしている。
視線を交えるふたりは、言葉を発したり、身振り手振りなどで意志を伝えあう様子はない。
ただただ黙って、時が止まったように見つめあった。

どれくらい経ったころか、女はわずかに唇の端をあげ出窓からすっと離れる。


「ねえさん、お布団の準備ができました!」
「ありがとう」
「あーあ。わたしもまだ寝たいなぁ」
「これから朝ごはんを食べてお稽古でしょう?」
「お稽古はつまらないからイヤ。ねえさんのおそばにいたいよ」
「じゃあお稽古して、はやく一人前になることね。さ、もう行きなさい」

口を尖らせて不満げな顔をみせる禿(かむろ)の頬を女がそっと撫でると、太陽のようにまばゆい笑顔でおやすみなさい、と告げて部屋をあとにした。

もっとも格式高い最上格の遊女を、ここでは花魁と呼ぶ。いくつも建ち並ぶ遊郭の、ほんの数人のみがその地位を得られ、なかでも群を抜いているのがこの女、ナマエだ。


◇◇◇


花魁の支度は夕方四時のころはじまり、同時にその時間帯がもっとも慌ただしくなる。これから客の元へ行く、花魁道中が待っているからだ。
他の遊女は昼も、格子の中で待機する「見世」に出るが上級遊女は夜のみ。もちろん見世になど絶対に出ない。

「ナマエ、今日の客は白ひげンとこの隊長さんだよ。何番隊だか知らないけど名はイゾウ」

遣り手の婆はやたら機嫌のいい声色で、世話役にかこまれて身支度を整えるナマエの元にやってきた。

「イゾウさんなら十六番隊ね」
「さすがだねぇそんなことまで頭に入ってんのかい」
「このご時世だもの、大海賊はよく話題になる。隊長と副隊長くらいだったらひととおり覚えてるわ」
「その調子で頼むよ。立派な上客になるだろうからね」
「はあい」

燈をともす時刻になると、いよいよ花魁道中だ。
黄金色に赤、紫、白、など鮮やかな花が散らばった色打掛け。前結びされたボリュームたっぷりの帯も、黒塗りの冗談かと思うくらい高さのある下駄。
花魁は、どれほど豪華に着飾るかで格を見せつける。禿、振袖新造、下男を従え目抜き通りを優雅に、ゆっくりゆっくり練り歩くその美しい姿に誰もが足をとめ、羨望のまなざしで魅入った。


「イゾウだ」
「ナマエと申します」

まっすぐナマエを見据えるイゾウとは反対に、ナマエは目を見ることもなく、やや下を向いて挨拶を交わした。
この場所で、ましてや花魁相手ともなればそうそう簡単に帯をほどくことなんてできない。
最低でも三回は通わなければいけない、と言われていて、最初の「初会」では、格の高い遊女は出された料理や酒にも手をつけず、客と視線を合わせるどころか言葉も交わさない。席すら離れて座るほどだ。それでも客は、揚げ代と言われる高い料金を支払う。
二度目の「裏」では初会よりいくらか話ができるものの、対応はさほど変わらず。三度目の「馴染み」でようやく床入れができるものの、また「床花」という別途料金が発生する。
それらを支払える者だけが花魁を指名できる、と思ったら大まちがい。花魁は客を気に入らなければ断ることもできるのだ。

例に漏れず今夜の初会、宴はたいして盛り上がらず。真っ赤な壁にかこまれた座敷には、やたらと調子のいい楽器音がただただ流れていて、ふたりは会話どころか席まで遠く離れている。
片手に煙管、もう片手でお猪口をかたむけ、ごく時折箸を口に運ぶイゾウのなにげない仕草はどれもとっても洗練されていた。
海の荒くれ者には到底見えない、とその場にいたナマエ以外の誰もが思っただろう。
遊び方を知っているのは大前提。なおかつ偉そうにせず、感じがいい。洒落ていて上品。でも嫌味じゃない。こういう粋な男がここでは好かれるのだ。

宴がはじまって三時間近く経ったとき。
ナマエは目配せで新造を呼び、なにかを耳打ちした。新造はそそくさと廓芸者たちの元へ行き、また耳打ち。すると、ナマエとイゾウ以外の者は行儀よく挨拶をして座敷を去っていった。
イゾウは戸惑いを見せる様子もなく、これまでと変わらずお猪口をかたむける。
しばらく静寂が続いたのち、伏せていたナマエの目がようやく前を向いた。

「…………今朝、顔を合わせたときから。今夜はあなたからお呼びがかかると思っていました」

かたちの良い大きな目は、何色とも言いがたい神秘的な色に染まっている。それに捕えられたイゾウは、いつかどこかの海域で見た、オーロラと呼ばれている大気の発光現象を思い出した。

「初会で口をきいてもらえるなんて、珍しいこともあるんだな」
「……ええ」
「それとも優越感を与える手管なのか」
「……裏町の娼婦じゃあるまい、そんな安いことはいたしません」
「……失礼、気を悪くさせちまったな。冗談のつもりだった」

会話の最中も、沈黙のときでさえもお互いじっと相手を見据えている。一秒たりとも、逸らさない。

「どうぞ明日も、その次も……ご贔屓に」

その言葉をきいたイゾウは、わずかに唇の端をあげて座敷を去った。


◇◇◇


「まさか本当にいらしてくださるとは」
「安っぽいのはおれのほうだな」
「嬉しいですよ。海の男はふらっとどこかへ行ってしまうと思っていたので」

二度目の指名。昨夜の去り際のように挑発的に唇をゆがめるイゾウは、懐からするりと煙管を取り出した。
今夜は最初から、廓芸者も新造もその他使用人等もいない。しかし、座敷にあがるはずだった者たちの金もきっちり払うとのことだった。通常ならそれすらも許されないことだというのに、ナマエの口添えが加われば誰も逆らうことはできない。

「なあ……おれァ堅苦しいのは好かねェんだ」
「…………」
「本当のお前さんはそんなんじゃねェだろう」
「と、言いますと」
「今のお前さんは美しいが退屈だ」
「…………」
「おれの見込み違いか、それとも三度目の馴染みになるまではおあずけってやつなのか」
「…………解釈はご自由になさってください。これで見切りをつけるも結構、三度目まで待つのも結構」

うすく笑んだナマエは、それ以上口を開くことはなかったが「うら」でここまで接することも珍しい。それくらい、簡単に手が届かない存在なのだ。
しかし三度目、四度目、を過ぎても床入れになることはなかった。イゾウは求めることもなく、ナマエも理由を訊ねない。席もとなり、会話も初会に比べれば交わすようにはなったものの、触れあう気配は皆無。
遣り手の婆は、いい加減気味が悪くなってきたよ、と戸惑いながらも揚げ代がどんどん店に入ってくることを喜んでいた。

「みんな不思議に思っていますよ」
「おれを?」
「ええ。なにか裏があるのでは、と」
「それを本人に言うお前さんもお前さんだな」
「七度目ともなれば冗談くらい言います」
「七度も通ってるってのに冗談止まりか」
「あら意外。思いのほか欲はあるんですね」

反射的に短く笑ったイゾウ。繕っていない、彼の素が感じられるようなものだった。

「欲、とはちがうが……ひとつ訊いていいか」
「どうぞ」
「お前さんは、なぜ此処にいる?」

慣れた手つきでお銚子を手に取ったナマエは、イゾウのお猪口に酒を注ぐ。

「……両親も健在、家も裕福なほうだったと思います。この世界によくある、身売りされて……なんて劇的な物語はありません」
「へェ」
「子どものころ、偶然目にした花魁があまりにも美しくて。憧れて、飛び込んだ」

それだけよ。
そう最後に付け足したナマエは、これまでのやや控えめで、馴染み相手にしては他人行儀な雰囲気が一切消え失せた。
ふたりがあまりにも当たり障りのない会話、接し方しかしていなかったため忘れていたが、彼女は最上格の「花魁」だ。
優秀な女海兵のような凛とした強さ。麗しい人魚のような儚さ。海賊のようなしたたかさ。イゾウが世界中を旅しても、見たこと感じたことのない女の色香。なにもかもが別格だった。
馴染みになった者だけが、その真の魅力を理解する。
まさに「花魁」になるために生まれてきた女。


「そっちのほうが随分と劇的だと思うけどな」
「美しく華やかに化粧を施して、着飾り、男を虜にする技術と肉体、知識も教養もあり、芸も一流。そうした最上級の女の称号が欲しかった」

妖艶に笑む男女がふたり。

「子どものころから美しいものを極端に好んでたわ。あなたも同じでしょう? 目をみたときにわかった」
「ああ、おれも分かったよ。だからその日のうちに会いに来た」

言い切ったイゾウはナマエの頬に手を添え、熱のこもったまなざしで、瞳のなかのオーロラを見つめる。

「最上級に伸し上がった気分は?」
「悪くない。相手だって、あなたのようにいい男だけを選べるしね」
「それも冗談か」
「さあ」

くすくすと笑うナマエ。
イゾウはそつなく距離を縮め、そのまま唇を奪った。

「いつまで籠の中にいるつもりだ」
「さあ」
「おれと来る気は」
「さあ」
「いくらでも払う」
「失礼しちゃう。私を甘く見てるの? 花魁、特に私の身請け金はそうそう払える値段じゃない」
「なら攫うか」
「海の男の発想ね」

ふたたび重なる唇は、先ほどよりも深く、そして熱がある。

「あなたがあまりにも美しくて、どうしても手に入れたかった」
「おれも同じだ」
「もし会いにきてくれなかったら、私があなたを探しに行ってたくらいに」
「ここを抜け出して、か」
「さあ。……ああそう、そのまえに、床花をいただける?」

やはりこの女、花魁になるために生まれてきた。
しかし少し先の未来、その姿は海賊船にあるかもしれない。


fin.

江利加さんへ


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