もう僕らは、迷わずに朝を迎えられる



駅と住宅街のちょうど真ん中にある、規模の大きな公園の一角。街の喧騒から離れた場所で、キッチンカーのサンドイッチ店をはじめてもうすぐ3か月になる。
朝は通勤前の社会人や散歩中の年配者、昼は公園で遊ぶママや子どもたち、夕方は学校帰りの学生、夜は帰宅途中の様々なひと、客数は多くないけれど、層はわりと幅広い。ずっとやりたっかったことだし、それをこののんびりとした自然のなかでできるなんてとても贅沢な毎日だった。

開店はだいたい7時半前後、準備が整うとまず自分の朝食をつくる。といっても商品と同じように、パンをトーストして気分にあった具材を挟むだけ。
ごくごくシンプルに、レタスとトマトとチーズとオリーブだけを挟んだものが出来あがったところで、ここ最近よく見るようになったお客様の来店が。

「ローストビーフサンドをひとつ」
「ありがとうございます。少々お待ちください」

半月ほど前に初めて来店してから2、3日に一度は通ってくれている常連さんだ。いつも眠そうにしていて、だからなのか声はおだやか。キッチンカーの窓から見える部分だけでも、サイズがきっちり合った品のいいスーツだということがよくわかる。きっと都心の会社にでも勤めているんだろう。
毎日おつかれさまです、と思っても口にしないのは、お客様のなかには気さくに話しかけられるのを嫌うひともいるだろうと考えてのこと。憂鬱だと感じるひとが多い朝となれば、なおさら。だから接客においていちばん気をつかっているのはこの時間帯だった。暗くならず、かといってうるさくならないように、ほどよい声色と雰囲気づくりを心がけている。

商品が仕上がって、あとは包むだけのタイミングで男性は手にしていたタブレットから突然顔をあげた。

「……最近こっちに越してきたんだけどねぃ」
「あ、そうなんですね!」
「こうしたうまい店があって助かるよい」
「ふふ、うれしいです。いつもありがとうございます」

注文以外で初めて交わした言葉。
手元を気にしながら笑顔を向けると、男性もおだやかにほほ笑んでいた。こうしたやり取りがいちばん幸せな瞬間だ。
みずから口を開いてくれたということは気さくなひとなんだろう。もう少しくらい会話を広げても、嫌な気にはならないはず。

「駅の、向こう側の商店街にはもう行きましたか?」
「反対側はまだ行ってねェなァ」
「美味しい飲食店がたくさんあっておすすめですよ」
「へェ。このあたりからはどうやって行くんだ?」
「そこの手前側の道をまっすぐ行って、」
「あの道か?」
「えーっと」

近くにあったお皿に一度品物を置いて、窓から少し身を乗りだして説明する。

「……で、ふたつめの十字路を左に曲がって高架線くぐれば見えてきます! お休みの日にでもぜひ」
「ありがとな。行ってみるよい。……にしても、他店を宣伝しちまっていいのか?」

男性は、控えめにそして楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。

「美味しいものはみんなで共有したいので、いいんです」
「なるほどねぃ」
「……お待たせしました! お会計は……ちょうど、いただきます。ありがとうございました」

じゃあ、と笑みを絶やさないまま去っていく男性に、いってらっしゃいと見送る。ハードな会社勤めのころ、駅の売店のおばちゃんが朝には「いってらっしゃい」夜には「おつかれさま」と声をかけてくれるのがたまらなくうれしかったから、私もたまに真似ている。
さてと、と息をひとつ吐いて、用意していた自分用の朝食を口に運んだ。このパンは冷めてもおいしいのが自慢だ。外側のパリッとした食感から、ふわっとやわらかい内側。ジューシーでいて芳ばしいローストビーフは重くならないように作っているため、朝でもいけちゃうところが我ながら自慢だ。

「……え、いやちょっと待って。ローストビーフ!?」

野菜とチーズだけのシンプルなサンドだったはずなのに、いつのまに肉を入れた?無意識のうちに入れてしまった?いよいよ頭がおかしくなった?
自分の奇行を薄気味わるく感じたときに、ハッとした。これは私の朝食に作ったものじゃない。さっきの男性が頼んだ品物。道を教えるため一度お皿に置いて、ふたたび手に取ったときに、となりに元々置いていた自分用を手に取って包んでしまったのだ。会話に気が向いていて、まったく気づかなかった。

「やっちゃったよ……最悪だ……」

いまごろ注文とちがうものを食べて驚いているかもしれない。次に来たときに怒られるかもしれない。いや、それならマシだ。もう二度と来てくれないことだってありえる。
追いかけるわけにもいかず、できることといえばまたの来店を願うのみ。とんだ失態をおかしてしまった。





次の日、またその次の日も願いは叶わず。
信用を失ってしまったから、もう来てくれない説が濃厚になってきたときに男性は現れた。

「ローストビーフサンドをひとつ」
「あ! いらっしゃ……あの、先日は大変申し訳ございませんでしたっ……」

キッチンは狭い。直角まではいかなかったけれど、可能なかぎり深く頭を下げた。
なんの返事もないので、恐る恐る顔をあげると何のことかわからないような表情を浮かべている。

「待て待て、身に覚えがねェんだが……」
「え、いや、注文とはちがう品をお渡ししてしまった……と思うんですけど……」

あれ?勘違いだった?

「ああ!……あ、そういうことか」
「? えーっと……」
「サービスか何かと思ってたよい」
「ええっ!?」
「いつも朝からローストビーフサンドだろ? たまには野菜たっぷりな物を食べろよって気遣ってくれたもんだと」

いやいやいや、仮に黙ってそんなサプライズを私がしたとしても、支払ってる料金と割に合わないとか思うでしょう。思わないの?おだやかなひとだな……!
そんな叫びは胸の奥にしまい、経緯を説明する。

「いえ、私が、自分用の朝食に作って置いていたものをまちがえてお渡ししてしまっただけなんです。本当に申し訳ございませんでした」
「あァなるほどねぃ。うまかったから全然構わねェよい」

まったく気に留めない様子でからりと笑った男性。ミスを許されたから思うわけではないけれど、なんだかおおらかで優しい、感じのいいひと。今日のお代は結構ですと言ってもまったく譲らずに払い逃げされてしまい、ある意味また頭を抱えてしまうくらいだ。
怒ってもいなかったし嫌われてもいなくて救われたけれど、よかったという問題ではない。同じことを繰り返さないためにもしっかり気を引き締めなければ。



「いらっしゃ……わ、珍しいですねこの時間に来てくださるなんて」
「食いたくなってな」
「ありがとうございます。でも今朝のあれ、私が追いかけられないのをいいことに逃げるなんて……!」
「ははっ逃げたもん勝ちだよい」
「今度こそお代は結構ですから……って言ってもまた逃げると思うので、ひとつ提案があります」
「提案?」
「提案というか……お願いというか……。その、都合が悪くなければ、明日の夜も寄っていただけませんか?」
「都合は悪くねェが……」
「ではお待ちしてますね!」

不思議顔の男性は、なにか思いついたようにパッと表情を変えた。

「んじゃおれはひとつ質問させてもらうよい」
「……? なんでしょう」
「恋人はいるのか?」
「恋人? いませんけど……」
「へェ。おまかせでひとつ、くれるか?」
「あ、はい。ありがとうございます」

その日の夜、友人と電話をした際に一連の出来事を話すと「すごくいい人じゃない、しかも興味持ってくれてるみたいだし、その出会いは絶対逃がしちゃダメ」というようなことを何度も言われた。
まあ、たしかに、よく知りはしないけれど、知るかぎりでは、素敵なひとだ。
私自身、今は恋愛うんぬんや恋人の存在を望んでいるわけではないけれど、友人にあんなふうに言われたら変に意識してしまう。記憶をたどり、出会いやちょっとしたやり取りを何度も思い出しては、気づくと心をほっこりとさせている。私いったい何してるんだろう、と翌日の仕込みに取りかかりながらも、結局はずっと彼のことを考えていた。





翌日、朝に男性が来ることはなかった。元々毎朝来てたわけじゃなかったけれど、少しそわそわしていた私は拍子抜けした気分だった。しかし約束の夜になってもなかなか姿を見せない。仕事が忙しいのか、忘れているのか、それとも出すぎた真似をして敬遠されてしまったのか。
店じまいの時間をとっくに過ぎていたため、片づけを済ませてそばのベンチでぼんやりとスマートフォンを触る。連絡先でも知っていたらよかったのになぁ、あと一時間待って来なければ諦めて帰ろう。と思ったとき、アスファルトを鳴らす革靴の音が。

「悪い……! だいぶ遅くなっちまった……!」
「あ……!」

息を切らせて駆け寄ってきて、大きな深呼吸をひとつさせながらとなりに座った男性。

「仕事でトラブルがあって、こんな時間までかかっちまったよい……! 本当に悪かった……!」

待っててくれてありがとな、と安堵の笑みをこぼした男性を見て、心のなかで友人に、私このひとが好きかもしれない、と告げる。

「……どうし……あー……いや、ここまで待たせたんだ、怒って当然、」
「ちがいます!……あの、来てくれると思わなかったので驚いたんです」
「? 来るに決まってるだろい。約束したんだ」

この、さらりと口にする言葉はときどき心に刺さる。さらりというのは、軟派というわけではなく誠実さが垣間見えるというか、心から思っていることをただ言葉にしているだけ、というのが伝わるからだ。

「あ……お呼びした理由は、ちょっと待っててください」

本来の目的を思い出し急いでキッチンカーのなかに行って、容器の入った紙袋を取る。

「昨日も言いましたけど、お代は結構です、が通用しないのでこれを」
「なんだよい……?」
「ミネストローネを作りました。数日分はあるのでおうちで食べてください」
「え、いいのかよい……!」
「もちろん。野菜たっぷりなので少しは栄養補えると思います。ふふっ」

いつもありがとうございます、と改めてお礼を告げると、とびっきりの笑顔で喜んでくれた。

「遅くまで仕事だったのに来てくださって、ありがとうございました。明日……は土曜だからお休みですか?」
「そうだよい。土日は休みだ」
「じゃあゆっくり休めますね」
「あーもし良かったら明日でもあさってでも、あァいや。店の都合もあるだろうから近いうち」
「? はい」
「前に言ってた、駅の向こう側のうまい店。行かねェか?」
「あ……ぜひ!」

すこしだけ驚いたけれど、飛び上がりたくなるほどうれしくなったのは、もっと彼を知りたいという気持ちが大きくなっていたからかな。

「あと、名前。今さらだけど聞いてなかったよねぃ」
「ふふ、たしかに。ナマエです」
「ナマエ……いい名前だねぃ。とりあえず今日みたいなことにならないよう、連絡先を交換するか」
「そうですね!」
「おれの名前は、」

結局その日の夜も、その次の夜も、またその次も。マルコさんのことばかりを考える夜が続くなんて、このときは思ってもみなかった。



半蔵さんへ


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