「悪いName。もうちょい時間かかりそうなんだ。中で待っててくれるか?」
「あ、じゃあ気になってた向かいのカフェにいようかな。待たれるのが気になるなら、先に帰ってますけど……」
「そんなことねェよい。悪いな」
「いいえ。急がなくて大丈夫だから気にしないでください」

仕事が終わってマルコさんの事務所に行くと、こんな状況になった。
店内に入り、マルコさんが来たときにわかりやすいよう窓際の席に座る。事務所の窓も見えるし、向こう的にも見つけやすいだろう。ドリンクを注文して待つあいだ、さっきの焦った顔めずらしいなあ、そういえば家での敬語は抜けたけれど、社外とはいえ外にいるとどうしても敬語になっちゃうなあ、とスマートフォンも触らずに些細なことをぼんやり考える。


「待ち合わせですか?」

近くはないけれど、遠くもないとなりの席から。お客さんもまばらだったため、すぐに私に向けての言葉だと気づいた。顔を向けると、同年代かすこし上くらいの男性がにこやかな表情をしている。テーブルの上にはグラス半分になったアイスコーヒーと、カバーのかかった文庫本、それとスマートフォン。
そうなんです、と同じようににこやかに返した。

「僕も人を待ってて、もうこれ3杯目なんですよ」
「え、だいぶ待ってるんですね……!」
「本も飽きたので、ここに誰か座ったら様子を見て話しかけようと思ってたんです」
「あはは。私きっと、すごく暇そうにしてましたよね」

しばらく他愛のない話をしていると、マルコさんが背後からやってきた。せっかく窓際を選んだのに、話に夢中で気づかなかったらしい。

「Name」
「あ、お疲れさまです。早かったですね」
「ああ、思ったより早く済んだよい。待たせて悪かった」

マルコさんはちらりと男性を見て、これまたにこやかに会釈をする。

「話相手をしてもらってたの」
「いえいえ、相手をしてもらったのは僕のほうですよ」

助かりました、ありがとうございますとマルコさんは感じのいい笑顔を向けた。

「なにか飲んで、ひと息ついてから帰りますか?」
「いや、またなにか起きて戻らなきゃいけなくなる前に退散だ」
「はは、ですよね。じゃあ行きましょう」

じゃあお先に失礼します、と男性と挨拶を交わしてお店を出た。

「気遣って早めに出てきてくれたんですか?」
「窓から見たら、知らない男と楽しそうにしてるから最速で片付けて出てきたんだよい」

あれ、ちょっと不機嫌ぽい。

「ええー……あ、話相手してもらってたって言いましたけど向こうの手前であって、あっちから話しかけてきたんですよ……!」
「それはわかってる。けどねぃ、気ィ許しすぎだよい」

はあ、とあきれ果てたようなため息をこぼすマルコさんを見て、助手席に乗り込みながら憤りに似た感情をおぼえる。私、そんなに変なことをしただろうか。

「お互い当たりさわりないことを話してた、ビジネスシーンでよくある会話程度ですよ。過剰反応するようなことじゃありません」
「あー……Name、」

運転席から伸びてきた手を払うように、顔を背けてしまった。
あ、今のはやりすぎた、と後悔しても遅い。マルコさんがどんな表情をしたかはわからないけれど、すこしの無音のあとエンジンがかかり車はゆっくりと駐車場を出ていく。
軽やかに変わっていく窓の外の景色とは逆に、車内の空気は鉛のように重い。マルコさんとは初めてだけれど、恋人とのあいだに流れる嫌な空気は何度も経験してきた。こればかりは一向に慣れない。
いや、それにしてもマルコさんは嫉妬深すぎる。
特別になにか秀でてるわけでもない私の、なにをそんなに心配しているんだろう。……でも、過剰反応をしてしまったのは私も同じだ。
どうしよう謝らなくちゃ、わかっていてもなかなか言葉にできず沈黙はつづく。いよいよ圧迫死でもしそうな頃に駐車場へ着いたものの、エントランスでも、エレベーターでも無言。
それを先に破ったのはマルコさんだった。
玄関からの廊下を歩きながら、まるでなにもなかったかのように。それはふだんと変わらない声色と言葉。

「先に風呂、入るか?」
「ううん。マルコさん先にどうぞ」

私もなるべくふだんと変わらないように返す。
じゃあ入っちまうねぃ、と去っていったのを機にリビングのソファにダイブ。
謎の重圧からの開放感も束の間、私はへそを曲げていたのにマルコさんは努めてふつうに振る舞ってくれた人間力の差に愕然として、今度は後悔と自己嫌悪と罪悪感におそわれる。
いま思えばそんなに腹立たしいことでもないじゃないか。状況が状況だったし、マルコさんは疲れていて、ついああ言ってしまったんだろう。どうしてわかってあげられず、あんな反論と態度をとってしまったのだろう。……こんなんじゃ嫌われてもおかしくないな。





「マルコさんごめんなさいっ……!」
「うおっ!」

いてもたってもいられなくなった私の突撃。
大きな音を立ててドアを開けると、シャンプー中だったマルコさんは身体を跳ねさせておどろいた。

「たしかに、ただでさえ疲れてるのに、待ってる私のために少しでもはやく終わらせようって一生懸命仕事して、それで終わってみたら見知らぬ男と楽しげにしてたら、気分、悪くなるよね……!それを私はあんなふうに棘のある言葉で言い返して……」
「Name」

強めに私の名前を呼ぶ声。
シャワー音で聴覚が麻痺しているのか、私を制止するためか、たぶんどちらもだろう。


「出るまで待つか一緒に入るかしてくれよい」

垂れてきた泡が目に入らないよう、マルコさんは片目を瞑りながら苦笑まじりにそう言った。


ちゃぷん、とお湯が揺れる音だけが響くなか、私たちはバスタブに沈んで向きあう。
こんなときに不謹慎だけど、かっこいい。細すぎず太すぎない抜群の肉体美は、いつ見ても惚れ惚れする。水もしたたるいい男、という言葉を生み出したひとに全力で同意だ。

「Nameが言ったとおり、過剰反応するようなことじゃないってのはわかってた。疲れて、勝手に妬いちまったんだよい。いやな気持ちにさせてごめんな」
「私こそごめんなさい」

ちいさく笑ったマルコさんに、こっち来いよい、とお湯のなかで身体を回転させられ、うしろから抱きしめられる。素肌の感触がこれ以上ないほどに心地いい。

「でもそっぽ向かれたのはさすがに傷ついたねぃ」
「あれは、つい意地張って……!」
「ははは」

振り向くとくちびるが重なった。
お湯が揺れて跳ねる音は、つい先ほどよりも強く浴室に響き、それに比例してお互いを深く求めあう。すこしのあいだだったけれど、ふたりのあいだにできてしまった溝を埋めるように。

「……Name」
「っ、……ん」

マルコさんの手がなめらかに滑っていく肌が、どんどん熱を帯びていく。


to be continued.