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こわいひと

「ユズルさんは、どうしていつも笑ってるんですか」
 かちん。ロメソーダに浮かんだ大粒の氷が、グラスにぶつかって小さく音を立てた。アローラの暑い日差しのもと、ピンクのストローから口を離したチクサは少しだけ視線を落として口を開く。もごもごと何度か惑いながら、口のなかでぐちゃぐちゃになったそれをなんとか吐き出せた、のが冒頭のひと言だ。
 チクサと向かいあって座るユズルは、出し抜けな彼女の問いに一瞬だけ目を丸くした。何事か思い当たる節はあったのだろう、ゆっくりと、スプーンを刺していたヒウンアイスをテーブルに置き、チクサをまっすぐ見つめながら答える。
「怖いのが来るから」
「え?」
「暗い顔してたり、やなこと考えてたりすると、それに引っ張られてよくないのがやってくるんだよ。おじいちゃんが言ってた」
 ユズルはテーブルに肘をつく。ふう、と小さく息を吐いて、チクサの背中越しに見える人混みと、隙間に映る水平線を眺めた。空の青と海の青が混ざるそれはどこまでも続いているように見えて、きっとお互いの故郷も同じ色をしているのだろうと思わせるのは容易かった。
 偶然にもカンタイシティで顔をあわせた2人は、世間話が高じて手近なオープンカフェに足を伸ばしたのだった。ユズルは空間研究所への道すがら、チクサは宛もなくふらついていた道中、別に急ぎの用事でもないから、とユズルがチクサの手を引いたのだ。シンオウ地方とコウヨウ地方に生まれた2人はこのカンタイの空気が肌にあっているらしく、なんとなく馴染みやすいのだと話し込んだのは果たしていつのことだったか。気のいい店員にオーダーを頼み、そういえばあのときもこのカフェで同じメニューを選んだような――なんて、会話の隙間で物思いにふけっていた頃、お目当てのものが到着した。ユズルはヒウンアイス、チクサはロメソーダをそれぞれ口に含み、熱にあてられて火照った体を冷ます。白と水色のパラソルの下で味わうこのひんやりとした感覚は、なんとも癖になるものだ。
 そうして熱を逃がしていた頃、件の問答が繰り広げられたのである。ユズルはいつも笑っていた。晴れやかに、前向きに、にこやかに生きているユズルが、実は人2人の死のうえに立っていることを、今もその恐怖と戦っていることを、本当は明日にも“連れて行かれる”かもしれないことをチクサは知らない。チクサにとってのユズルはただ、底抜けに明るくて、直向きで、1人でも生きていけそうな強い人でしかなかった。時おり姉を想起させるその生き様や振る舞いが怖くて、実のところうまく彼女の顔を見ることが出来ないのは、チクサ自身の心根に深い深い傷が根ざしていることに由来する。チクサは姉のことが怖い。幼少期からずっと、虐待と呼ぶに相応しいだろう仕打ちを受け続けてきた。ひとまわりも離れていて、人に好かれて、何でも出来る完璧な姉はチクサにとって畏怖の対象に他ならない。姉がいるから家にいたくないし、コウヨウ地方にも帰りたくない、逃避の気持ちで各地方を旅行している。そんななか、逃避した先で姉を思わせる人と出会い、それなりに親しくなるだなんて誰が予想しただろう? けれどもユズルは姉と違い、チクサのことを無下にはしないし、虐げることもしない。むしろ窮地のチクサを助けてくれたくらいだ。だからこそこうやって向き合って話すことが出来るし、誘いを断ることもしない。友人だと思っている。そう、友人であるからこそ引き剥がせない姉の面影が怖くて忌わしくて苦しくて、ああやって質問を投げかけたのだ。チクサは姉がわからない。わかろうとも思えない。けれどユズルは友人で、わからないことは同じだけれどわかりたいと思っている。姉と似ているけれど似ていないユズルに理解を深めれば、もしかすると姉のことを払拭して、素直に彼女と親しくして、そして、自分も何か活路を見出だせるかもしれないと浅ましいことを考えた。けれどもユズルの答えは――
「ユズルさん、おばけとか苦手なんですか?」
「苦手っつーか……うーん、まあそうね、苦手といえば苦手かなあ」
「なんで……」
「死にたくないもん」
 きん、と空気が凍った気がした。少し低くなった声色が緊張感を増長させる。行き交う人を見つめていた金色の瞳は、再びチクサに向けられていた。みゃあ、と鳴くキャモメのなきごえは、もはや耳に入らない。
「チクサちゃんは死にたいの?」
 鋭く投げられたカウンターに、「はい」も「いいえ」も言えなかった。何にも答えられないまま、ロメソーダに浮かんだ氷が溶けて、ぱきんと割れた音を立てる。
 生きたいか、死にたいか、そう言われても頷きかねる。うなじ、手首、腕、脚、心、色んなところに残された痕が、ざわついて責めてくる気がした。生きるか死ぬかも選べない臆病者だと、仮面ばかりが分厚くなった意気地なしと、おまえなんかさっさと死んでしまえと――
「……ま、いいけどね。わかんないよねそんなの」
「え……?」
「わははっ、ごめんね。意地悪なこと訊いちゃったかな! 生きたいとか死にたいとかそういうのってさ、やっぱ一回死にかけないとわかんねーんだ、多分」
 恥じるように笑いながら、ユズルは再びヒウンアイスを口に含んだ。カップタイプで出されたそれはしっかりバニプッチの形をしていたのだけれど、話し込んでいるうちにもうただのアイスのかたまりへ姿を変えてしまっている。もったいないことしたなあ、と舌を出すユズルは、いつも通りの明るい笑みを浮かべているのに、足元から這い上がるような恐怖心をチクサは拭うことが出来ない。
 思うより先に、口が動いた。
「……あるんですか」
「うーん? なにが?」
「ユズルさんは、死にかけたこと」
 さく。刺さっていたウエハースにかじりついていたユズルは、チクサの問いに動きをとめた。再び彼女の視線が落ちる。唇についたウエハースのかけらを舐めとりながら、重たい口が開かれた。
「私はないよ、そういうのね。元気もりもり、ピンピンしてる。……ただ、私のせいで死んじゃった人のことを知ってるってだけ」
 大切な人、だったんだけど――それきりユズルは何も言わなかったし、チクサも何も言えなかった。
 ただひとつ、ユズルに対する恐怖心が、ひときわ強くなっただけだ。

20180308
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