ortr | ナノ

雪の降る闇

 ――雪だ。
 北東の方角、ウノハナシティを遠目に見ながら、タクヤは小さく息を吐いた。タクヤのかすかな吐息に反応を示したバチュルたちが、みな一斉にタクヤの袂へ潜り込む。くすぐったいと笑えばうぞうぞと蠢くほんの些細なそれは、不器用なトレーナーとすなおなポケモンたちによる、不可欠で確かなコミュニケーションだった。
 くつくつと喉奥で笑いながら、タクヤは再び北東の街へ目線をやる。雪だ。雪雲が白い宝石をはらはらと散らしているようで、遠距離ではありながらもその景観はしっかりとタクヤの胸を打った。故郷には雪が降らなかった。カバタは一年を温暖な気候で過ごせる地方であり、中央部に位置する頭氷山、読んで字のごとくかの雪山以外には滅多に雪が降らなかったのだ。
 もちろんポケモンのわざである「あられ」、あられ状態にする「ゆきふらし」のとくせいなどはあれど、それでも自然現象の雪にお目にかかる機会にはほとんど巡り会えなかった。あの頃も今のように遠い空を見ては寒気の気配を感じていたか。コウヨウ地方も一部を除けば寒暖差は激しくなく、今タクヤが居を構えているロイロシティだって故郷のディラリアよりは涼しくて、けれども寒すぎることのない過ごしやすい街である。寒さにも暑さにも慣れていない自分がこの街にたどり着けたのも、それはそれでひとつの運命だったのではないかと今ならなんとなく思えた。
 目まぐるしい日々に身を置く人間でありながら、タクヤはどこか穏やかで満ち足りた気持ちを感じていた。乗り越えたという達成感なのか、疲労に感覚が麻痺しているのか、一時よりは息苦しさが軽くなった気がするのだ。あの頃には出来なかったことが出来るようになったから――なんて、結局はそんな簡単な言葉で片づけられるようなものなのかもしれない。
 雪といえば思い出す人がいる。かつてひどく世話になったとある女性、実家で使用人をしていたミゾレという人間だ。雪の名を持ちながらも太陽のように眩しかった彼女は、いま思えばタクヤにとっての初恋をかっさらった人かもしれない。けれども彼女はもういない。どこに行っても会えやしない。もう10年以上も前に亡くなってしまったからだ。あの舞い落ちる雪のごとく、溶けるように、跡形もなく消えていった。あのときじわじわと足元を蝕んだ寂寥を記憶の彼方に放り投げられているのは、きっと今のタクヤにはまた、愛しい「彼」がいるからで――
「っくし! ……なんだ、噂でもされてるのか」
 ひとつ体を震わせながら、タクヤは足早に帰路をゆく。今日はジムにも人が来なくて、早めに帰らせてもらうところだったのだ。見慣れてきた街路を歩き、なんとなく顔見知りになってきた近所の面々と会釈を交わす。やがてロイロの中心部を少し外れて辿り着いたのは、質素な平屋の一軒家だ。
 ひとりで暮らすには上等すぎるこの家は、とある一件で親しくなった少年が紹介してくれた場所だった。家主もおらず持て余している状態だったらしく、この家の管理を受け持つことを条件に譲ってもらったのだ。
 質素とはいえ住めば都――そんなことを言うのは失礼かもしれないが――行く宛のないタクヤには、否、タクヤ“たち”には非常にありがたい案件だった。越した直後は野生ポケモンが入り浸ってきて大変な目にあったものだが、元よりカバタというポケモンの多い地方に生まれ育っていたために、彼らの扱いには手慣れているという自負もあった。おかげで面倒事を起こすことも破損することもなくなんとか今日までやってきている。たまに風が強いと吹っ飛ばされそうな恐怖を覚えたりはするが、それもなんとなく楽しく思えてくるものだ。
 建てつけの悪い玄関扉を開く。開け方のコツはここ最近になってようやく身につけられた。タクヤの気配を察知したバチュルたちが一斉に玄関へ集まってきて、その微笑ましい光景にタクヤの頬はうんと緩む。くすんだ茶髪にバチュルが埋もれ、タクヤは今日の疲れがすべて吹き飛ぶのを感じた。
「ちゅっ、ちち、ちぃ」
「ん、うん。そうか。何事もなかったんだな」
「うぢゅ〜」
「わかってるって。一番に顔出さないと拗ねるもんな、あいつ」
 ぎし、と床鳴りの音を響かせながら、タクヤは廊下を進んでゆく。殊更ゆっくりと、まるで焦らすように向かった先は、寝室とする一室のそのまた奥にある部屋だ。バチュルたちにもあまり寄りつかないように言い聞かせているそこへ近づくのは、おそらくタクヤと――
「おまえも行くか、レントラー。……ん、行きたいよな」
 この部屋の主が持つポケモン、レントラーくらいのものだろう。もっとも彼は今タクヤが借りている状態で、ともにジム戦をこなす戦友のような存在になっている。ぎらつく双眸はけれど優しく伏せられて、この薄い板の向こう側にいる「彼」を案じているだろうことは明白だった。
 先日張り替えたばかりのふすまを引き、暗い部屋へと光を差し込ませる。閉め切ってこもった空気のなか、真っ暗闇に突如入った光明に目をくらませたその人間は、怯えた様を隠しもせずに震える声をもらした。あからさまにビクつくすがたを見れどもタクヤは動じたりせず、落ち着かせんとばかりに穏やかな笑みをたたえる。
「トオル、ただいま。変わりはないか」
「た……く、や、」
「今日な、全然チャレンジャーとか来なくてさ。だから早めに帰らせてもらったんだ、おまえのことも心配だったし」
 一歩、二歩と歩み寄って、タクヤは傍らに膝をつく。不安、恐怖、後悔、切迫、様々な感情に襲われるアクアマリンの瞳が、長い黒髪の隙間から覗いていた。これ以上怯えさせないよう微笑んで、労るように抱きしめれば刹那に肩口から嗚咽がもれる。背中を優しくさすってやると、迷うような手のひらがタクヤの羽織りを握りしめた。かよわい力はおおよそ成人男性のものとは思えない。
「腹、減ってないか。何か食べたいとか」
 トオルはゆるりと首を振る。
「……そうか、少し散歩でもすれば、ちょっとは腹も減るだろうが」
 もう一度、今度は少し勢いを増して。
「ああ、それじゃあ――」
 タクヤが言いかけた頃合いになって、トオルは激しく頭を振った。ちがう、ちがうと何度も繰り返す様子は子供の駄々にも近しいもので、タクヤは人知れず心臓をざわつかせる。レントラーに目配せをすると承知したと言わんばかりに頷いて、タクヤについてきてしまったバチュルを乗せてゆっくりと部屋を出ていった。すまない――そう心中でささやいた謝罪は、きっと届かないのだろうな。
「さみし、かった。オレ、今日こそおまえが帰ってこねえんじゃって思って、」
「うん」
「怖くて何度も探しに行こうと思ったけど、でも、玄関で足がすくんで」
「……うん」
「結局待ってるしか出来なくて! ……オレ、なんで、そうだ、そうだよオレ、早くおまえを――」
「トオル!」
 張ったタクヤの声に肩をびくつかせたトオルは、声にならない声をあげた。嗚咽のあいまに懺悔が聞こえる。ごめん、ごめんな、どうして、そうやって病んだトオルのひと言ひと言が、グラグラとタクヤの脳みそをゆさぶって、やがて正常な判断力を欠けさせる。
 安らいだ呼吸はまた詰まって、叫ぶように縋るしか出来なくなっていったのだ。
「大丈夫、何にも怖くない。ここには怖いものなんてないんだから、おまえは何にも怯えなくていいんだ。……何にも心配しなくていい、俺はいるから、絶対に大丈夫だから」
 トオルの背中を強くかき抱く。
 陽の光すら忘れた細い体は、今にも壊れてしまいそうなほどに脆くてボロボロになっていた。

新年初の更新がこれか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
20180108
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -