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11

 コン、と響いたのはひかえめなノック音だった。集中力を阻害しない程度にかけられたクラシックの音色のなか、硬質な音は何の障害もなく目当ての人間まで届く。入りなさい、そう言う父の声を聞いて、タクヤはゆっくりと木製の扉をあけた。かつての当主がこだわってしつらえたらしいこの扉は経年劣化の痕跡も見えず、未だ美しく鈍いツヤを保っている。
 失礼します――そう言いながら足を踏み入れると、またたく間に襲いかかるプレッシャーに心が潰されそうになった。シンプルなマホガニーチェアに座すタクヤの父が――ツルバミが何かをしているわけじゃない。ただ単に、タクヤの心が怖じているのだ。今からこれを突きつけて、それが真実だったとして、果たして自分はその現実に耐えきることが出来るのか。迷いや躊躇いがないわけではなかった。何度も両足は立ち止まった。けれども後に引けなかったのは、やはりトオルが絡んでいるからに他ならない。自分は追求する道を選んだのだ。
「どうした、何か用があるわけではないのか?」
 ツルバミの語調は優しい。タクヤに視線を向けることはないが、読書の合間に意識を投げてくれてはいるようだ。パートナーであるエアームドとよく似た銀髪に覆われた目元は、一心に文字の羅列を追っている。読書のあいま、彼の左手が少し冷め始めた紅茶のカップに伸びる。こくり、飲み下したことを確認して、タクヤはゆっくりと深呼吸した。一歩、二歩と歩を進め、マホガニーデスクのそばに寄る。
「父さんに、少し訊きたいことがあってきました」
「訊きたいこと? なんだ、この前貸してやった『はなの浅葱』についてか? あれは私もなかなか読み解くのに時間がかかって――」
「トオルのことです。……トオルの、その、親のことを」
 ぴたり。ツルバミの言葉が止まった。空気が軋むような感覚を覚える。ゆるやかなメロディが耳に入らなくなったころ、タクヤは再び口を開く。
「父さんは、どうしてトオルを引き取ろうと思ったんですか。寄付をしていた施設にいたから、ひとりでいたから、憐れだから。どれも決定的な理由にはならないですよね」
「…………」
「ふと気になったんです。だから色々勝手に調べさせてもらって――辿りついた結論が、ここだったんですけど」
 タクヤが1枚のメモを掲げる。先ほどキッチンから拝借してきたそれを、ツルバミがゆっくりと視線でなぞった。やがて右下のサイン――「ミゾレ」の文字を瞳に映し、彼は諦めたように目を伏せる。ツルバミもまた、この家の光であったミゾレには強い思い入れがあるのだろう。
 それでもツルバミは目立った動揺を見せることはなく、再び手元の書籍へ目をやる。これだけで口を割るわけない、それはタクヤの予想通りだ。彼も馬鹿ではないのだから。
「それが何の根拠になるのかな」
「確かにこれひとつじゃ何の意味もありません。鍵になったのは、トオルの持っていた『お守り』です」
「お守り……?」
「施設にいた頃から持ってたものなんだそうです。なんでも、赤子の彼と一緒に残されていたものだって、そこにトオルの名前が書かれていたんですけど」
「…………」
「この筆跡と、一致してるんですよね」
 見覚えのある字だった。少し丸みのあるかたちと、ハネを省略する癖と、彼女が愛用していた細字のペン先。彼女には時おり勉強を見てもらっていて、採点や注釈を入れてもらっていたこともあるのだ。今になってぐるぐるとよみがえってくる彼女との思い出が、トオルのそれと重なってゆく。感覚も、真実も、記憶も、彼女とトオルの繋がりをこの上なく物語っていた。
「トオルの親のこと――親族のことを、父さんは何か知ってるんじゃないですか。だからあいつを引き取ったんだ。いくら懇意にしていた施設だろうと、気になった子供だろうと、そんな唐突にひとりを特別視するわけがない。何らかの、のっぴきならない理由があるはずです」
 ねえ、父さん。タクヤがそう訊ねてから、書斎は痛いくらいの静寂に包まれた。
 か細い呼吸の声すら届きそうだ。唸るようにうつむくツルバミを見下ろして、タクヤもまた息を吐く。ここまで理由を突きつけてもなお、タクヤはどこか否定の言葉を待っていた。
 沈黙が痛々しく横たわってしばらく、ようやっとツルバミはその重い口を開く。低い声はことさら音を下げて、先ほどまでの穏やかな様は薄れていた。
「……おまえの思っているとおりだよ。あの子は……トオルは、ミゾレの息子だ」
 観念したような深いため息。重く苦しいその音を聞いて、タクヤは胃が騒ぐのを感じる。言い逃げして去ればよかった、そんな卑怯な考えが頭をもたげたころ――ツルバミは懐かしむように照明へ目を向けた。先ほどまで読み解いていた書籍は、机のうえに閉じられている。
「薄々気はついていた。14年前、彼女が長期休暇をとった理由も、その後すこし影を背負っていたわけも、ああ、もちろん人には悟らせないようしていたけれどね」
「……あの人が亡くなったから、トオルを引き取ったんですか」
「そうだなあ。うん、そうなんだが、それだけでもないんだ。私は、あの子のことを頼まれたから」
「頼まれた……?」
「ミゾレの遺言のようなものだよ。正式な書面ではないし、私が立ち会ったわけでもない。ただ、彼女の母に言伝られただけなんだ。『トオルのことを頼みます』と」
 はあ、としみじみしたため息がツルバミから溢れる。けれどもタクヤは首をひねるだけだった。
 ――どうして。どうして、父に頼んだのだ。ミゾレの母が生きているならつまりその人はトオルの祖母でもあるわけで、血縁者がいるのであればそもそも施設に預ける理由はない。体を悪くしていたのならいざ知らず、ミゾレが亡くなった頃にはトオルも既に10歳とそこそこ分別のつく年なのだから、2人で暮らしていくのだって無理は少ないはずなのだ。
 祖母と、もしくは祖父母と生きていく道がトオルに残されていた。そのほうがトオルにとっては何倍も幸せな人生のはず。それなのになぜか彼は親の顔どころか血縁者が生きていることすら知らされないまま、歪んだ生い立ちを送る羽目になった。――どうして。
 タクヤの知るミゾレがたとえ上澄みだけだったとしても、それでも彼女が子供を無下にするような人間だとは思えない。彼女はあたたかい人だった。「霙」だなんて冷たい名前が似合わないくらい、むしろ雪解けを連れてくるような眩しい人。共にいた時間は短くとも、タクヤはタクヤの見ていたミゾレの姿を信じたかった。彼女は子供を捨てたりしない。そんな元凶になったりしない。トオルを歪ませる遠因に、原因に、無責任に放り投げることなんか絶対にしない。あの人はトオルを傷つけない。そう信じたかったのに、今となっては突きつけられた現実を前に、タクヤの心は強く揺らぐ。
 ミゾレ自身の人柄はもちろん、彼女の連れていたメラルバも同じくあたたかくて眩しかった。タクヤがむしポケモンを苦手としないのも、バチュルを愛でるようになったのも彼女とメラルバが根幹にある。2人のことが好きだったのだ。2人のことも、2人が一緒にいる姿も、それが何より好きだった。
 そういえば彼女を亡くしてからあのメラルバも姿を見せなくなった気がする。いったいどこへ行ってしまったのだろう、そしてこんなことも忘れてしまっているなんて。今この場に似つかわしく無い、ひどく場違いなことを考えた自分を恥じて、タクヤはふと顔を上げた。刹那、ちょうど同じくして視線を上に向けたツルバミと目があう。
 疲弊しきった彼の瞳は、けれども清らかに澄み渡ったアクアマリンの色をしている。母もこの目が好きだと言っていた。確かミゾレも、タクヤの目を見つめながら同じことを言っていた気がする。――なぜだろう、今はその瞳を見て胸が大きくざわついた。
 どこかで見た覚えがある。自分も色濃く受け継いだその瞳に見覚えがあるのは当たり前で、なのに今だけはその事実が新鮮かつ恐ろしく感じた。どうして。どうして。さっきから自分は疑問を抱いてばかりいる。どうして。なんでだ? 脳裏を埋め尽くすモヤを抱えたまま、タクヤはゆっくりと視線を下げる。目線がツルバミの左手に辿り着いた頃、その胸は再び大きく波打った。
 ――トオルだ。自分はツルバミの目の向こうに、他でもないトオルを見たのだ。そうだ、トオルも同じ色をしている。あいつもきらめく目をしていた。今まで言及するのも憚られたのは無意識の防衛本能であるのか、それとも気づきたくなかっただけか。同じ色の瞳。彼はミゾレの息子。いや、まさか、そんな。縋るように意識を逸らそうとしたのに、今度はもうひとつの根拠がタクヤのことを襲うのだ。
 トオルは左利きである。ツルバミまた左利き。長年見ている父のことだ、それは間違いないだろう。そしてトオルも同じなのだ、食事のときも、筆記のときも、掴みかかってきたときも、彼はずっと、左手で。
 途端、こみ上げる吐き気を既のところで堰き止めた。眩暈にふらついて思わず机に手をついて、未だ重苦しく口元を彷徨わせるツルバミへ目をやる。まさか、と震える声で訊ねれば、ツルバミは申し訳なさそうに目を逸らしてつぶやいた。
「そうだ、ああ、そうだよ。トオルはおまえの――」

20171112
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