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ぼくの足跡

軽度の残酷描写注意

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 亡くしてしまうのは一瞬だったと思う。
「それ」は確かな悪意によって訪れた、ぼくにとっての災厄であり転機。持っていたはずのものを突然落としてしまったような、大事に握りしめていたはずの宝物が指の隙間からこぼれ落ちてしまったような感覚。恐ろしいと感じる間もなくぼくは色んなものをなくして、そしてそれが何なのかに気づかないまま今この時を生きている。それはある意味で幸せなことなのかもしれないのだ、なぜならぼくは家族を亡くした悲しみや苦しみにとらわれることが、これから先もきっとないだろうから。
 ぶすり、ずぶり、ざくり、ぐちゃり、形容しがたいけれども忘れることすら出来ないあの音。ぼくのすぐ耳元で聞こえたその音は瞬く間に重なって、一度、二度、三度、四度、数えるのも億劫なほどいくつも不協和音を奏でた。音の正体は他でもない、ぼくの家族が、見ず知らずの他人が、これまた見ず知らずの他人に刺されては倒れ伏してゆく音。その男はいわゆる通り魔と呼ばれるものだった。
 犯人は何度も何度も人を襲っては刺し続け、ぼくの父も母もその刃の餌食となった。人々は皆それぞれに腹や胸を押さえてしゃがみ込んでいる。やがて返り血で真っ赤に染まったその男がジュンサーさんとガーディによって確保された頃にはもう周辺は地獄絵図と化していて、転がる死体の数は2桁、未だ忘れられない数多の叫び声はけたたましく、足元から這い寄るようなうめき声はおぞましく。身を呈して守ろうとしてくれた母によってぼくは何の被害も受けることなく、ただひとつ言うならばそれによりお気に入りのTシャツが血まみれになってもう二度と着れなくなってしまったことが少し気がかりだった。
 ぼくのことをやけに気遣ってくれたジュンサーさんたちは、特に怯えを出すこともからげんきになることもなかったぼくをどう思っていたのだろう。それこそ精神を病んだ結果だと思ったのだろうか? 果たしてぼくは、今でもあの日のことをトラウマとして抱え込んでいるのだろうか?
 正直なところわからないのだ、「ぼく」があの日に何を思ったのか。もしかすると恐れていたのかもしれないし、泣いていたかもしれない、傷ついたかもしれない、でもすべては憶測でしかなく、ぼくはあの日のぼくに帰ることが出来ない。もはやぽっかり穴が空いたよう、あの日の記憶は鮮明なくせに朧気で、ぼくはずっとあの日の「ぼく」を客観的に見つめ続けている。ぼくであってぼくではない、その感覚は日に日に強く、そして消え失せることもなく。
 これこそが「恐怖」に他ならないのだと。気づけさえすれば楽になれたかもしれないのに。



「……雨だ」
 やだなあ、そう独りごちながら腰元のボールに手を伸ばす。中に収められたキバニアがガタガタとボールを揺らすのは雨の気配を察知したから――ではなく。ただ単に外に出してもらえないフラストレーションゆえのことで、そういえば最近は水場もご無沙汰だったなあ。とぼくは傍らのポチエナに話しかける。どう思う? そう尋ねれば、確かにそろそろ限界が近いかもしれないと、なんとなくそんなことを言われた気がした。
 よし、とぼくはひみつきちから顔を出す。入口の向こうに見えていた雨のなかへ身を投げ出すと、まだ雨足が強くないこともあってなんとなく心地よさを覚えることが出来た。ここはヒワマキシティ西部の119番道路、高い草むらに囲まれた森林地帯だ。ぼくについて出てきたポチエナも同じように雨のめぐみをその身に受けている、生ぬるさと冷たさの狭間にある雨粒は鬱屈とした気持ちをゆっくり、優しく洗い流してくれるようだ。
 ぼくが小さく息を吸い、少しだけ声を張って「ちょっといいかな!」と語りかければ、がらりと辺りの様子が変わる。がさりがさりと音を立てては揺れる草むらはあるとき大きく草を揺らして、そしてその正体はぼくの真上に真っ暗な影をかけながら姿を現した。ほどなくして聞こえてきた優しいなきごえにぼくは振り向き、背後で微笑んでいた影――大きな大きな、トロピウスの体をなでる。
 この子はぼくの手持ちではなく、れっきとしたこの場所の野生ポケモンだ。ぼくとはただの顔見知り――否、とても仲がいいというだけ。ぼくが呼べばそこいらのポケモンが出てきてくれるというこの事実はぼくがこのホウエンじゅうを渡り歩いた結果であり、実は色んなところに仲良しの子がいたりする。ミナモではこのあいだ新しいホエルコと仲良くなったし、トウカ付近だとアメタマやタネボーとも知り合えた。会えば会うほど仲良くなれる、そんなポケモンたちがぼくは大好きだった。
「じゃあトロピウス、今日もよろしくね。アジトにも寄りたいし、ミナモのほうへ連れて行ってほしいんだ」
 ぼくはポチエナをボールに戻しトロピウスの背に飛び乗る。ふわり、大きな葉のつばさを羽ばたかせたトロピウスは、瞬く間に高い高い空へと舞い上がった。
 父と母を亡くして身よりもなかったぼくは、かつて両親が遺してくれたスターミーとトドゼルガとぼくという少しいびつな3人で暮らすことを余儀なくされた。しかしまだ9つでしかなかった子供には家のひとつを保つことも出来ず、程なくしてぼくらは各地を宛もなくさ迷うことになる。そしてその過程で手に入れたのがこの広大なホウエンの各地に点在する「友だち」であり、先ほどのトロピウスももちろんそのひとりだ。とても優しい彼らはぼくたちに好意的に接してくれ、いつだってあたたかく迎えてくれる。困っていれば助けてくれるし、お腹をすかせりゃきのみをくれた。泣いているときは笑わせてくれて、怒りを鎮めることも同じく。ぼくらは彼らに救われた。だからこそぼくはポケモンにおんがえしがしたいのだ、ゆえにアクア団が掲げている「ポケモンの理想郷を築く」という思想に共感している。彼らの住み良い世界をつくり、彼らのために命を賭そう。それはぼくにとって至高の喜びであり、最大の感謝のかたちである。
「――なんて、言ったら怒られちゃうかな」
 小雨の向こうに見えてきたミナモの街並みを眺めながら、ぼくは力なくゆるむ頬を感じていたのだった。

20170312
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