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10

 人の心に触れるというのは、かくも疲労を伴うものなのだ。
 初めての感覚に気だるさを覚えながら、タクヤは慣れたシーツに身をうずめる。トオル、と無意識にもれたつぶやきは空気に霧散して消えた。
 彼の暗雲を前にした。飲まれてしまうとすら思った。身がちぎれそうに痛んでしびれて、あんなものをずっと抱え込んでいた彼の孤独に思いを馳せた。結局それは同情の域を出ないもので、近しい経験に覚えのないタクヤは同調することが出来ない。
 だから受け止めようと思った。せめて力になろうとした。近い場所に居なかったのならこれから近づけたらいいと、そう思って出した提案は一蹴されてしまったが、それでも少しは近づけたかな、なんて驕りが顔を出す。
 重苦しい息を吐いて、タクヤはゆっくりと身を起こす。あれから3日が経った。けれども疲労感はあまり和らいではくれず、寝ても覚めても身体が重い。バチュルや家族にも心配をかけてしまっているのだが、どうにも解消できないのでその場しのぎの言葉でしか安心させることは出来なかった。否、むしろ心配を増長させてしまっているだけかもしれない。申し訳ない気持ちはある。そして、今までトオルにはこんなふうに親身になってくれる人も居なかったのだろうかと、そんなことを過ぎらせてまた足元をぐらつかせるのだ。完全なる悪循環である。
 しかしひとつだけ良いことはあった。なんとなく、トオルが気やすくなっているのだ。笑ってくれるようになった。警戒を解き、あるがまま、ハルミに見せていたものと近しい笑顔を向けてくれるようになった。タクヤの前でも肩の力を抜いたすがたを見せるようになったのだ。バカだな、なんて軽口がここまで喜ばしいと、果たして少し前の自分に予想は出来ただろうか。
 距離が縮まったのが嬉しい。近くになったのが嬉しい。トオルが少し柔らかくなった。トオルが笑えばタクヤも自然と笑みを浮かべる、そんな心地よい距離感は、きっと傍から見ても2人を兄弟にしてくれると思う。
 懸念材料があるとしたらトオルの持っていたロケットだろうか。チェーンは切れ、緩くなっていたそれを買い換えるため、一昨日2人で代わりのものを求めに出掛けた。元のまあるくてシンプルなそれとは打って変わって上等なものが見つけられ、トオルは満足したように鼻歌交じりで笑っていた。ルクシオの尻尾と似たような星の形をしたそれは、影をまといつつもまばゆく笑うトオルによく似合うと思われた。
 チェーンも丈夫なものを見つけられたので、おそらくケンカや取っ組み合い程度では切れることもないだろう。「これで次蹴るときがきても安心だな」と言えば、「おまえほんとにボンボンかよ」ともっともな反論が帰ってきた。
 買い物自体はそうやって和やかに済んだのだけれど、あれに挟まれていたメモのほうが問題なのだ。紛失したとか、汚したとか、ビリビリに破り捨てたとかそんなのではなくて、タクヤはあの字に見覚えがあった。父や母のものではない、それは当たり前である。友人、もとい少しの顔見知りのものと照らし合わせても合致しない。どこで見たのだ? 疲れきって思考が鈍っているのかもしれないが、それにしたってもう喉元まで出かかっている答えを掴めないというのは、やはりすっきりしないものだ。
 ただの野次馬根性などではなく、タクヤはもしも叶うのなら、トオルの親を探したいと思っていた。今さら何が変わるとは言い切れないし、死や虐待や嫌悪よりひどい仕打ちが待っているかもしれない。仮に見つかったとして、トオルを会わせてやりたいかと言えばそれもまた別の話である。それでも止まれなかったのだ。何かをしてやりたかった。闇が深まる危険も、トオルが安らぐ希望もあるなら、タクヤは後者を夢見てみたい。トオルが絶望にあえぐなら、希望ですくい上げてやりたい。タクヤはそういう人間だった。
 そんな正真正銘の出しゃばりを孕みながら、タクヤは思案をめぐらせる。けれども糸口すら見つけられないままの今日、未だ心身は重苦しかった。
 何か冷たいものでも飲めば頭が冴えてくるだろうか。重たい体を起こして立ち上がり、すぐそこで寝転んでいたバチュルを乗せて部屋を出る。なんとなく自分で用意がしたかったので、使用人を呼ぶことはなく、一階へ降りてキッチンのほうへ足を運んだ。あまり立ち入らないここは自宅だというのに馴染みが薄く、冷蔵庫に貼られたメモも注視したことはない。なんとなく気が向いて目を凝らしながら見ると、買い物メモや賄いレシピなどが無造作に貼りつけられていて、今まで意識の外にあった使用人たちの生活がうかがい知れた気がした。
 冷蔵庫をあけて取り出したのはプレグのジュースだ。カバタ特産のこのきのみは、大人はワイン、子供はジュースで慣れ親しむ。もちろんそのまま食べるもよし、ジャムやパイに使うもよし、この土地に生まれて知らないものはいないと言えるほど、ポピュラーで馴染みが深いきのみである。その反面あまり他地方には知られていないものらしく、その理由はプレグの木がカバタ地方以外の土地で実をつけないということに由来する。なので輸出はもっぱら実のまま、しかし傷みやすい性質であるので、なかなか広まらないというのが現状だそうだ。
 お手製ジュースの瓶を取り出して、冷蔵庫の扉を閉める。脇の棚から拝借したグラスに冷たいそれをそそぎ、一気にすべて飲み干した。喉から身体中へ走る冷たい温度が心地よく、火照ったような体を冷ましてくれた気がした。この味は好きだ。昔から飲み慣れているのもあるし、少し懐かしい気持ちにもなれる。そういえばこのジュースを初めて飲ませてくれたのは実のところ母ではなくて、母と同じか少し年下くらいの若い使用人だったか。カラッとしていて気持ちのいい彼女は嫌いではなくて、使用人のなかでも年が近かったからよく話をしたように思う。長い黒髪と大きな瞳が印象的なうえ、活発でバイタリティにあふれた彼女は父も気に入っていたはずだ。彼女がいれば明るくなった。落ち込んだときも元気づけてくれた。タクヤにとっては太陽にも等しかったかもしれない。
 そんな最中に訪れた青天の霹靂というべきか、元気がとりえの彼女が体を悪くして急逝したのが確か4年前。ツルバミ家はもちろん使用人仲間にも慕われていた彼女の訃報は家中を暗くさせていた。――そんな大事なことをどうして忘れていたのだろう? 答えはどこだ。そうだ、トオルが家に来たからだ。
 沈んでばかりの皆を立ち上がらせたのが他でもないトオルだった。家に新しい光が灯った。危なっかしくて目を離せないところはあれども、あいつはそばにいる人間にたくさん光を与えたはずだ。眩しく照りつけるではなく、誰にも寄り添い散りばめられる、無数に浮かぶ星の明かり。
 貰われてきたばかりのくせにすぐ使用人とも打ち解けて、誰も彼もに明るい気持ちをもたらした。うつむくみんなを上へ向かせた。翳る思考を晴らしていった。まさに彼女と同じ様をあらわしたトオルが来たのは、そういえば彼女が亡くなってそう経っていない頃だったような――そこまで思考をめぐらせて、タクヤは目を見開いた。自宅で過ごすときのみ掛けているメガネのレンズの向こう側で、アクアマリンの瞳が揺れる。
 取り落としそうになるグラスをなんとかシンクに置き、ままならない思考のまま瓶を冷蔵庫へ戻す。扉を閉めて、数多のメモを再び眺めた。右下にサインが残っているのを見るに件の彼女が書いたと思わしき賄いのレシピは少し古く、けれども未だに活用されているらしいことは紙の劣化具合でわかった。書き直されていないことからは、彼女の残滓を残しておきたいという切なる願いも一緒に伝わる。そもそも使われないなら既に捨てられているだろう、そのメモをひとつ引き剥がしてじっくりと文字を追ってゆく。いくつかのそれを確認して、タクヤは確信の芽生えを覚えた。
 ――やはりだ。ちぃ、と小さく鳴くバチュルを撫でて、メモを片手にキッチンを出る。
 向かう場所は書斎だった。タクヤの父が好む場所だ。

20171106
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