ortr | ナノ

09

 トオルは我を忘れていた。タクヤを引きずり出した勢いのまま扉を閉め、そこにタクヤの背中を押しつける。先ほど投げつけたポケホは知らぬ間に蹴っていたのだろう、遠くへ転がってしまっていた。
 襟元を掴んで、掴めば掴むほどタクヤは苦しそうに顔を歪める。背中に居たらしいバチュルは避難のために彼の腹へまわり、けれども鬼気迫るトオルの顔を見てここに平穏はないと悟ったのか、足を伝って地面へ降り、2人から距離をとった。本当に賢いポケモンだ。
「ケホッ……なんだおまえ、いきなり」
「それはこっちのセリフだっつーんだよ!!」
 再びトオルの腕に力がこもる。がつん、と後頭部を扉にぶつけたらしいタクヤは、さすがに瞳に怒気をしたためた。ぎろりと睨む彼の目は、元の目つきやまとう雰囲気もあってか年齢以上の覇気がある。けれども頭に血がのぼったままのトオルにはそれも通じず、未だにその両手は震えるほどタクヤのシャツを握りしめたままだ。
「なんで、クソ、おまえばっかり――」
「ばっかり……? 何の話だ。父さんも母さんも俺たちに優劣なんか」
「あいつらのことじゃねーんだよ! ハルちゃんのっ……」
 言いかけて、止まった。タクヤの瞳がかすかに揺れたからだ。その意図が、その意味が何なのかをトオルは知らない、わかりたくもない。
 ただひとつ察知したことといえば――彼の思う何かについて、何も聞きたくないことだけ。
「……悔しいのか、おまえ」
「ハ――」
「自分じゃ無理だったから。自分じゃあ、あの子の力になれなかったから」
「何を」
「確かにそうかもな。本来なら俺じゃなくて、おまえがあの子にアドバイスなり何なりしてやるべきだった。俺がでしゃばっただけだ」
「…………」
「俺が邪魔した。俺が悪い。おまえの役目を奪ってしまった、俺に非がある。むしろ俺にしかないよな、全部俺が悪いんだ」
 やけにしおらしく言葉を吐くタクヤに、トオルはなんとなくの居心地の悪さを感じた。背筋がひんやりするような、さっと血の気が引くような。
 違う、自分は、そんなふうに人を傷つけたかったわけじゃなくて――
 ぐるぐると混濁し始める意識のなか、トオルの手の力が緩んだのに気づいたのだろうか。うやうやしく伏せられていたタクヤの瞳が、再び鋭い眼光を放つ。ぎろりと睨むその一閃はまたたく間にトオルを怯ませ、思考回路を鈍らせた。
「――なんて、言うと思ったかよ」
 刹那、トオルは腹の衝撃とともに背中から床へ倒れ込んだ。ルクシオの鳴く声がなんとなく遠い。何がなんだかわからないままタクヤのほうを見上げると、不自然に上がった右足が見える。……蹴り飛ばされたのだ。
「お、おま、足癖悪すぎ――」
「いきなり掴みかかってきた奴に言われたくはないな」
 そのままタクヤはつかつかと距離を詰めてきて、怯んだままのトオルへ馬乗りになってシャツを掴み上げる。小さく声をあげるトオルを見て、タクヤは意地悪く口元に弧を描いた。立場はまたたく間に反転している。
「残念だったな。さっきまではいい気分だっただろう? 押さえつけて、優位に立って、怒鳴り散らして、ビビらせさえ出来たら勝ちだもんな。もっとも、おまえには無理だったみたいだが」
「……っ」
「おまえさ、俺を見下してたいんだろ。自分より下の人間をつくって安心してたいんだろ? そもそもがそうだ。自分に『役割』が欲しいだけなら弟だっていいんだ、『貰われてきた子』『ツルバミ家の末っ子』『次男坊』どれをとってもそれぞれに役割や立ち位置があるんだから、別に俺の『兄』にこだわる必要なんかないじゃないか」
「ちがっ――」
「違わない」
 冷たい目で見下ろされる、そこにあるのはアクアマリンの瞳だ。怒りすら冷えきったような目に射抜かれて、トオルは腹の底がうねるような感覚を覚える。
 タクヤの言ったとおり、簡単に逆転されてしまった。攻め入ろうとしても勝てなかった。すぐに状況も覆されて、どう足掻いても下にされる。屈辱だった。むなしかった。みっともなかった。恥ずかしかった。惨めでつらくて仕方なかった。
 ああ、そうだ、自分はこいつが怖いのだ。優しくしてくるだけじゃない。何も思考を読み取れないまま、こうしていとも容易くすべてをねじ伏せて前へゆく、このタクヤという存在が、彼のなかに満ちる才覚が、ひどくひどく恐ろしかった。
 今だってそうだ。トオルにはタクヤの考えていることがわからない。どうしてこんなに突っかかってくるのか、どうしてこんなに怒るのか、どうしてこんなに関心を向けてくるのか。タクヤの前ではわからない。タクヤと関わるときだけは、正解も間違いも、何もかもを見失うのだ。
 嫌いだ。こいつが、タクヤのことが本当に大嫌いだ。こいつは怖い。こいつは恐ろしい。今まで形作ってきたトオルという人間が、その方法が、簡単に覆されて無になる――ここでの在り方が、優しい場所での立ち方がわからなくて、息苦しくて死にたくなる。視界がボヤけて見えなくなる。惨めなのだ。情けないのだ。自分の知らないものを知っているこいつが、この弟が、ひどく羨ましくて仕方ない。
 今まで誰もくれなかったものを、溢れんばかりに抱えるこいつのことが憎くて嫌いだ。きっといつかの、在りし日の自分はこんな人間になりたかったと願っていたのだろうと思う。理想形がここにある。理想が息をして、いま目の前に現れているのだ。満たされることに怯えるでも嫌悪を抱くでもなく、それをありのまま受けとめて、もらったぶんを与えられる、聖者みたいな人間が。
 そうしてその事実自体がトオルの心を蝕んでゆく。風穴を開けて引っ掻いて、どんどん摩耗させてゆく。トオルの負けは決まっていた。目標や夢に掲げた時点で、そして彼がおのれの「憧れ」であると認めたそのときに、自分はそうなれないと理解したも同義であるのだ。
 自分はこいつとは程遠い。こいつみたいにはきっとなれない。羨ましい。羨ましい。羨んで、憎くて、怖くて、ムカついて、妬ましくて、狂おしい。
 気づきたくなんかなかった。こんなにも汚くて悔しくて、泥水がきらめいて見えるようなおのれの心中。見たくなんか、なかった。
「……わ、るいかよ」
「あ?」
「悪いかよ! そうだよ、おまえの言うとおりだよ! オレは、そうだよ、自分より下のやつが居て安心するクソみたいなやつなんだよ!!」
 だからこそ止まらなくなるのだ。なんとなくだが察していた。なんとなくでも怯えていた。こいつは与えることを知る。許すことも知っている。トオルが今まで欲しかったもの。
「知ってるだろ!? ハルちゃん! あの子、父親に殴られてた! 他にも母親からなじられ続けて喋れなくなったやつ、親戚に手ぇ出されて大人が怖くなったやつ、姉貴にキツく当たられすぎて女に嫌悪感しか抱かねえやつ、他にもひどい目にあったやつらがたくさん居た!」
 許されたかった。甘えたかった。こんなにも浅ましい感情を受け入れて、認めて、それすら微笑んでくれるような人がほしかった。
 怖いのに。苦しいのに。受け入れてもらえなかったら――そんな疑念も浮かぶのに、こいつなら大丈夫だという根拠のない確信すら住まう。トオルはそれを求めている。タクヤのなかに、光明を見る。
「そんなかでみんなに優しくするんだ、したら悩みやトラウマの相談をしてくれる、それでオレはいっつも考えるんだよ、『オレはこいつらよりマシだ』『親にこんな目にはあわされてない』『だからオレは幸せなんだ』って――!」
 濁流のような激情を吐露して、トオルの喉が悲鳴をあげる。かすれたように咳くすがたに怖じたのか、それともトオルを気遣ったのか、タクヤは急いでトオルの上から降りた。座り直すトオルの背中を撫でようとしたその手を払い、トオルは再び声を吐く。涙のように、こぼれ落ちた。
「……当たり前だよな。だってそもそもそうじゃんか、オレ、そんなふうに関われる家族なんか居なかったんだから。殴られるのも、褒められるのも、怒られるのも、貶されるのも、そもそも『親』が居ねーんだから、してもらえるわけがねーんだ」
 ただの、バカじゃんかよ。
 すすり泣くように落ちるひと言。ぐず、と鼻水をすするトオルのことを、タクヤは黙って見つめていた。ううん、と唸るような声を絞り出して、タクヤはいくばくかの沈黙を破る。その声はどこか頼りなかった。
「……父さんと母さんに、頼むか」
「はぁ? 何を」
「その……殴る蹴るとか、怒鳴りつけるとか。そういうの、してもらいたいなら、その、俺も一緒に頼むから」
「……おまえ友だちいねーだろ」
「うぐ」
「バカじゃねーの……」
 さっきまでグラグラしていたくせに、トンチンカンな返答に気が抜けてつい笑ってしまった。なんとなく泳いでいる目を見るに、もしかするとこいつなりに考え抜いてのレスポンスだったのかもしれない。
 スッキリした、のだろうか。14年間溜め込んだヘドロをいま吐き出した。しかしタクヤは軽蔑の顔を見せず、むしろどこか安心したような顔でトオルのことを見ている。こいつの前で泣きべそかいた姿を見せてしまったのは屈辱であるが、それでも久々に凪いだような胸のうちをもたらしてくれたのは他でもないタクヤなわけで、少しばかり安堵のため息がもれた。
「……その。おまえは、まあ、いいんじゃないか。マシだ、なんて言い方はよくないかもしれないが」
「なにを」
「そういう……自分の汚いところを認める、とかさ。普通はもっと怖いもんだろ。俺にはまだ無理だ」
 じっとタクヤの視線がトオルを射抜く。けれどもそれは攻撃的なものではなく、それこそ迷いの表れだった。タクヤは何かを隠している。何か決定的なものを孕んでいて、それをまだ飲み下せずにいるような――
 そこまで考えてハッとした。どうしてわかるのだろう。どうして自分は、ついさっきまで不明瞭だったタクヤの思考が、なんとなくでも読み取れるようになっているのか。詰まったものを吐き出したから? 重たいヘドロを取り出して捨てて、心にいくばくかの余裕が出来たから? もしかすると、その過程で自分自身がタクヤに心を開いたから? どれも正しくて違う気がする。変わったのか。トオル自身が彼へのあこがれを認めたことで、真っ向から見つめる余裕が生まれたからなのか。
 驚くほどに心が軽い。信じてしまいそうになるのが怖くなかった。こいつなら大丈夫かもしれない――その確信は希望になる。闇の奥にくすぶっていた激情が、こいつの光で昇華される。こいつがいてくれるのなら、きっと孤独は怖くないと、そんなことすら考えた。
 ――これじゃあまるで好きみたいじゃないか。トオルは心中でひとりごちて、そしてひとりで笑ってしまった。そんなことがあるものか、好きになんてなるものか。一度でも過ぎらせた自分がおかしくてたまらず、色んな意味で笑う膝を叱咤しながら、立ち上がろうと身を起こす。その瞬間、かちゃんという音を立ててロケットがベストの隙間から落ちてきた。おそらくタクヤに蹴られたときにでもチェーンが切れたのだろうと思う。
 古くなっていたそれは落ちた衝撃に耐えきれず、簡単にその封印を割る。ぱき、と開いたそれを拾い上げたのはタクヤで、条件反射でもあるのだろうか、タクヤは不躾にその紙切れを開いた。
「おまえさ、やっぱり友だちいねーだろ」
「悪い。……なんだこれ」
「なんだ、って……その、家族の手がかり、みたいな? 赤ん坊のオレと一緒に残されてたんだってさ、だからその、お守りみたいに持ってんだよ。悪いか」
「悪くはないが――」
 怪訝そうにその紙切れを見つめるタクヤに、なんとなく罰が悪くて無理矢理それを取り上げる。チェーンを弁償しろと言えば、ロケット自体も古くなってるから取り替えてやると言われた。
 やがて家政婦が遅い2人を呼びに来るまで、避難していたバチュルとルクシオを交えながら、タクヤとトオルはなんてことない話ばかりに花を咲かせていたのだった。2人のあいだには、歪ながらも今までにない笑顔が見える。

20171106
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -