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08

 手に握られた青いポケホ。これもまた、ツルバミの義両親に買い与えられたものだった。
 プラスチックカバーの縁を親指で撫で、画面の消灯を繰り返す。まばゆい画面は目に痛くて、そろそろブルーライトを軽減するためのフィルターを入れよう、なんて考えていたことを思い出した。いつもどのアプリにするか悩んだ挙句にやめてしまって、結局入れずじまいのまま終わっていたのだ。そういえばフィルターを入れろと言っていたのはタクヤだったなあ、そんなことを思い返して、再び胸がもやついた。
 窓から見る外は赤い。ヤミカラスの群れが鳴き、ポッポが飛び去り、ホーホーが活動を開始する。夕焼けの色に包まれ始めた午後4時のこと、トオルはずっと、ポケホの液晶とにらめっこを続けている。
「……ハルちゃん、元気してっかな」
「がう?」
「ああ、うん、ハルミちゃん。覚えてんだろ? いっぱい遊んだもんな」
「ぎゃう!」
 トオルの独り言に耳をゆらしたルクシオが、ベッドの縁から覗き込む。ベッドヘッドにもたれているトオルからは彼の立派な耳しか見えず、ちょこんとこちらをうかがうすがたはひどく愛くるしく思えた。
 そのままゆっくりとベッドに添うように歩いてきたルクシオとじゃれあい、トオルは深い息を吐いた。憂鬱の原因はほかでもない、ハルミに関することだった。
 先日交換した連絡先がここにある。この端末に登録されている。つまり、いつでも彼女と話ができて、いつでも彼女に会えるということ。トオルはそれが嬉しかった。ハルミはトオルに安らぎをくれる。別に彼女自身に特別な好意を抱いているわけでなく、ただあの子が関わるたびに、ツルバミに染まってしまいそうな自分を引き留めてくれる気がするからだ。
 トオルはこの家が怖かった。満たされるのが嫌だった。満たされたら忘れてしまう。満たされたら望んでしまう。満たされたら飢えてしまう。浅ましさという怪物が住みつき、牙を剥き、やがておのれも食い殺される。もっともっと、ずっとずっと、なんもかんもを求めてやまない、化物に成り下がってしまう。
 そんなものにはなりたくなかった。自分自身でいたかった。自分は持ってないくらいがちょうどいい。何にもないのが当たり前。何も持てないのがごく普通。それがおのれの常であり、毎日であり、すべてであり、そしてトオルという個人をつくる指標であるような気すらしている。覆したくはなかった。今まで形づくってきたトオルという人間のかたちを、こんなふうに変えられたくなんてなかったのだ。
 トオルはこの家が怖い。この家の人間が怖い。義父が、義母が、義弟が、使用人が、何もかもがひどくこわい。
 無条件な優しさも、余すことない愛情も、そんなもの、今まで知らなかったから。
「ぎゃう、がう」
「はは……わかってるよ。多分、怒んないだろうけどな」
 わからなかった。今ここで連絡をとってもいいものか、この時間帯にハルミが暇をしているのか、自分と話をしてくれる気分なのか、トオルには何も、なあんにもわからなかった。
 相手の顔色をうかがうのは慣れている。慣れているけど、それは顔をあわせての会話にのみ適用される。こんなふうに電子機器で離れた人と会話するとき、トオルはいつも受け身だった。自分は相手にあわせられる。相手のペースを自分も持てる。けれど能動的に動く場合は相手に自分へあわせさせなければいけないわけで、そこまでしてもらえるほど大層な人間であるとはまったく思えないわけだ。
 連絡が来るまで待つという手もある。けれど、それでは何にもならないかもしれない。そもそもハルミは旅立ちを迎えた身で、今さら自分なんかに割く時間や関心なんて露ほどもない、そんな可能性もゼロじゃない。
 けれどもトオルは今、この瞬間にハルミの存在に触れたい。自分を思い出させてほしい。満たされそうになって思い上がる自分の目を覚まさせて、優しい言葉で殴ってほしい。優しく首を絞めてほしい。それがかつての自分であると、ツルバミなんかよりもあたたかく、無情にすべてを突きつけてほしい――
「はは、これぞワガママってやつ――!?」
 ブブ。握りしめていたポケホが震える。唐突なことに手元が狂い、薄ったい板を取り落としながら画面を見る。表示されていたのは今まさに脳内を侵食していた彼女の名前で、トオルはポケホを投げ飛ばしそうになる衝動を抑えつつ、ゆっくりと通話のボタンをタップした。受話口に耳を当てると、軽いノイズの向こう側に聞き慣れたハルミの声がする。
「は、ハルちゃ――」
『聞いて聞いて! 聞いてよトオルくーーーーん!』
 トオルに勝るとも劣らない大きな声が響いてきて、思わずポケホを耳から離した。なに、とひかえめに返事をする。トオルの声が遠くなったのに気づいているのかいないのか、ハルミは興奮冷めやらぬまま早口に言葉を紡ぎ続ける。
『勝った! 勝ったの! セッテラさんに勝ったんだよ、森林のしおりゲット!!』
「マジで!? うっわ、めでてえ!!」
『マジもマジマジ、大マジだよ〜〜〜〜! はーっ、もうちょっとで3連敗になるとこだった! モンジャラはなんとか倒せるんだけど、やっぱりサボネアが強くって! 切り札ってだけあるよね〜って感じすんの、もうねえ、くさポケモン恐怖症になるとこだったんだから〜!』
 受話器の向こうのそのまた遠く、ぴぎぴぎと鳴く声が聞こえる。おそらく彼女のタマタマが異議を申し立てているのだろう、確かにくさポケモン恐怖症になったら長年の相棒であるタマタマですら拒むことになってしまう。それはさすがに困るな、とトオルはハルミに聞こえないよう小さく笑みの吐息をもらした。どうどうと宥めるように話す彼女の声にかき消されて、それは届かず霧散する。
 なんとなく、懐かしかった。そういえば昔もこんなふうに、ハルミとタマタマの言い争いを眺めていたような気がする。あの頃はすぐそばにいたから彼女らを宥めすかすことが出来たけれど、今はどこにいるとも知れないのだ、それは無理な話だろう。
 胸に郷愁のあかりが灯る。今ならなんとなく言える気がした。今度はきちんと届ける意志を持って口を開き、声を発する。
「オレさ、今ちょうどハルちゃんに連絡しようと思ってたんだ」
『わたしに? 何かあったの? あ、わかった。ケンカだ』
「ちっげーよ!! ――いや、違わねえのか? まあいいや、とにかくさ、ハルちゃんの声が聞きたくて――」
 トオルの発言から2拍、ハルミの言葉は切れて止まった。タマタマのぴぎ、というひと声だけがこだまする受話器の向こうの光景を思い、トオルはなんとなく背筋が凍る心地を感じる。
 自分は何か間違えたのだろうか。何か、彼女にとって不都合なことを言ってしまったのだろうか? 案じるように身をすり寄せてくるルクシオに構うことも叶わないまま、トオルはゴクリと生唾を飲み込む。
 ――ごめん。そう言葉を継ごうとしたが、それはハルミの言葉によって阻まれる。
『トオルくんのうそつき』
 どこかすねたような、暗がるハルミの声。何度めかに取り落としそうになったポケホをしっかりと握り込み、声が震えるのを抑えながら再び言葉を紡ぐ。
「オレがいつ嘘ついたって……」
『べっつにー。まあいいや、とにかく聞いてくれてありがとね。わたしさ、一番にトオルくんに報告したかったの。それでね――』
 よいしょ、と立ち上がったのか座ったのか、かすかな掛け声と生活音が聞こえてくる。なんとなくバツが悪かった。吐息の音すら聞こえてしまいそうで、呼吸のひとつもひそめてみる。例にもれずおしゃべりなハルミはトオルの相槌を聞いているのかいないのか、マシンガンのようにやれタマタマが頑張っただのやれニョロモはたくましかっただのと、今日の激戦を楽しげに話してきた。
 ――嬉しかった。彼女の勝利の報告を一番に聞いたのが、家族でも友人でもなく自分だったこと。それは喜びの範囲を超えて、少しの誇らしさへと変わる。
 嬉しかったのに。嬉しかったはずなのに、それを素直に受け取れない自分が情けなくてみっともなかった。おめでとう、お疲れ様、そんな優しい言葉をかけてあげるべきだろうに、どうにもねぎらいが出てこない、そして、年下の彼女に求めるばかりの自分に嫌気が差す。
 ごめん、と空虚な謝罪をすることすら躊躇われた刹那だ。
『――ほんと、タクヤさんのバチュル様々だわ〜』
 音を立てて崩れ落ちる、そんな感覚を味わったのは。
 聞きたくなかった名前。今まさに、誰よりも、他でもない彼女からは決して聞かせてほしくなかった名前が、何の間違いでもなくトオルの前に襲いかかる。そうだ、つまり、トオルの関与しないどこかで、トオルの知らないハルミの隣に、あのにっくき男がいたのだ。あまつさえこうして、ハルミになにがしかの――否、最上とも思われる影響を与えている。ハルミの勝利をてだすけしている。あいつのおかげでハルミは勝てた。あの弟が、ハルミの何かを形成している。
 ――ここにも、ツルバミの痕跡が残っている!
 そう気づいた瞬間ふとトオルの意識は遠くなり、気づかないうちにハルミとの通話も終わっていた。終話音を響かせるポケホを握る左手をだらり、力なく垂れ下がらせたまま呆然とつま先の一点を、その先にあるシーツのシワを見つめる。何を思うわけでもない。何を考えるわけでもない。ただぼんやりと時間が過ぎる。やがて辺りが暗がりに染まる時間になっても、警戒したように見つめてくるルクシオには、結局気づくことが出来なかった。
 胸に湧き上がるこの衝動はいったい何なのか、それにも理解が及ばないのだ。自分が何を考えているのかわからない、ぐるぐると這いずるような黒いものが血管すらもめぐってまわり、やがてトオルを犯してゆく。こんな感覚は前にもあった気がする。モヤがかかったようでうまくは思い出せないけれど、ああ、そういえばこういうときふと気がつくといつもあいつがそばにいたっけ――
「悪い、入る。そろそろ夕飯の――」
 その「声」がしたのは唐突だった。ノックの音も、扉の開く音も、顔を覗かせるそのモーションもトオルは感知することが出来ず、ただそこにふとやってきた、憎い人間の存在が沈黙のなかで研ぎ澄まされた感覚へと滑り込んでくる。
 目つきの悪い顔。いやに造形の整った見てくれ。バチュルと同じ黄色の髪、すらりと伸びた手足、変声期を迎えていくばくかのまだ少しぎこちない声。挑発的で攻撃的な目元をしているくせにやけにやさしげに目尻を下げる、気遣わしげに声をかける、その「出来た」動作すら、トオルには。
「――な、んだよおまえ……ッ、なんなんだよ……!!」
 衝動的に投げつけたのは握り締めていたポケホだった。うわ、と声をあげたタクヤが扉に隠れたおかげで、青い板は硬質なドアに打ちつけられる。いやなおとに背筋をざわつかせる余裕はなかった。トオルの心は衝動的かつ過激な感情にのまれ、大股で距離をつめながら、隠れたタクヤを引きずり出す。襟首を掴んで激情をあらわにするトオルに、タクヤは目を見開いていた。

20171104
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